「与力、力士に鳶の頭(とびのかしら)」。
これが「江戸の三男」と言われていたといいます。
粋で、渋くて、かっこいい。
江戸の女性たちの、憧れの男性像だったようです。
新興都市江戸は、活気あふれる男社会。
女性の比率は、極端に低かったと言うじゃありませんか。
江戸城大奥には、2千とも3千人とも公方様のお世話をするお女中がいらっしゃると聞きますが、長屋で所帯を持てる者なんぞ、よっぽどご縁がなくっちゃ居りません。八つぁん、熊さんもみんな独り身。
さらに、輪をかけて、女たちが「江戸の三男」に夢中となった日にゃ、私んとこには、そのご縁とやらがいつ巡ってくることか。
相撲取りはもてるんだってね。昔も今も。
鳶の頭も、皮半纏でまといを担いだ若い衆を引き連れ、火事場に駆けつける姿を見たなら、胸がキュンとなっちまいます。
与力の旦那は、めっぽう強いんだって。
着流しに羽織姿、朱房の十手を帯に差し、独特の髷姿に、女たちが騒ぐのも無理はない。
町奉行配下の与力・同心といえば、「八丁堀」が代名詞。
組屋敷が八丁堀にあったことからついた、畏敬を込めた呼び名です。
「八丁堀駅」は、東京メトロ日比谷線とJR京葉線にあり、接続駅となっています。
駅を出ると、証券会社や銀行などが立ち並び、すっかり都会の街並みに変わっています。
「八丁堀の旦那」の足跡を見つけ出したいと思ったのですが・・・。
八丁堀3丁目17番9号の京華スクエア前に、中央区教育委員会による案内板が立てられていました。
「八丁堀の与力・同心組屋敷跡」
古地図を探すと、北は日本橋川、東は亀島川、西は楓川、南を八丁堀に囲まれたエリアに、町御組屋敷という表記が数多くでてきます。
今でいう官舎は、相当な広さを有していたんですね。
現在、楓川は高速道路になり、八丁堀も桜川と名前を変えた後埋め立てられて、桜川公園などに名を残しています。
与力・同心は、屋敷地を医者や学者などに貸して家賃を得ることができました。
そうした人の集まりの中から、多くの文化人を輩出したといいます。
ここから目指すのは、与力・同心の勤務先である、北と南の両町奉行所です。
時代により、奉行所の位置や数に変遷があったようですから、現在、案内板が残る場所を目的地としましょう。
かつての江戸城を目当てにして、西へ進みます。
日本橋、銀座の目抜き通りを横切ることになりますから、粋な着流し羽織姿は、しばらく妄想の中に閉じ込めておきましょう。
町奉行所と同じ治安を預かる仕事という共通項でくくり、「警視庁広報センター」に寄り道してみましょうか。
京橋3丁目5番1に建つ、通称「警察博物館」。
警視庁の歴史を振り返れますし、白バイの展示が人気を呼んでいます。
目的地に戻って、まず、八丁堀から1.5キロほど離れた南町奉行所跡へ行ってみます。
JR有楽町駅の中央口を、東側に出てください。
有楽町イトシア、有楽町丸井入口に立ち、くるりと広場に目をやると、広場の西側に、二段の石垣が見えます。
石垣の右隅にはめ込まれているのが、「南町奉行所跡」の案内板。
大岡越前守忠相が執務をしていた跡なんですね。
案内板には、奉行所の間取り図や発掘調査時の写真も載っています。
ちなみに、出土した遺構の一部が、イトシア地下一階広場に展示してあります。
次に向かうのは、北町奉行所跡。
八丁堀からは、1キロほど。
JR東京駅八重洲北口に建つ、丸の内トラストタワーN館の東側。
この案内板は、まるで宝探しです。結構、見つけにくいですよ。
第一鉄鋼ビルディングとの間のプロムナード沿いにあります。
頑張って探してください。
さらに見つけにくい、もう一つの北町奉行所の案内板。
JR東京駅八重洲北口改札を出て、大丸デパートに向かい直進します。
デパートのガラスの壁面を左に進みます。
突き当たり、通路の基礎部分を注視してください。
発見すると、なんだか無性に嬉しくなりますよ。
では、またね。