[TAKK...]
2012年5月20日 23:54
旧築地川(現首都高)の直上には、いくつかの公園が整備されています。
今回は、その中でも、美しいバラの花が楽しめる「築地川祝橋公園」に行ってきました。
現在の祝橋は、昭和37年に架橋されたもので、平成 4年に景観整備を兼ねて中央区により、親柱や欄干はすべてレンガ張りにする等の改修が行われています。
この橋から銀座の方に行けば松屋銀座があり、築地の方へ向かえば、築地本願寺があります。
公園には、8種類150株のバラが植えられており、見ごろとなっているようです。
この公園自体を目的に訪れるには、少し物足りない感は否めませんが、銀座や築地の散策や通勤・帰宅途中などに立ち寄れば、本当にリラックスできると思います。
また、近隣にお住まいの方でしたら、散歩コースとしてとても良いでしょうね。
蝶も舞うのどかな公園でした。
[巻渕彰/写楽さい]
2012年5月19日 08:30
中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)で第13回特別展「月島百景」~佃・月島・勝どき・晴海・豊海 水のまちの120年~が開かれている。月島第1号地が明治25年(1892)に竣工して、今年は120年にあたることから企画されたもの。会期は5/19(土)~7/1(日)、月曜休館、特別展は入場無料。
展示会場は4つのテーマから構成され、貴重な区民文化財も展示されている。
第1テーマは、月島前史として石川島や佃島の歴史が紹介されている。月島地域のはじまりは江戸初期、江戸湊の寄洲に造られた石川島であった。人足寄場が置かれたことで知られている。その南側に造成されたのが佃島だった。
第2テーマは、月島の誕生と発展で、ここからは近代、明治期からの話である。埋め立てで月島1号地が生まれたのが今から120年前の明治25年(1892)。石川島には造船会社が隆盛し、臨海の一大工場地帯に発展していく。
第3テーマは、経済成長と月島のまち。戦後の月島地区や新興地の晴海地区など、都心部に近いウォーターフロントとして注目を浴びはじめた頃であった。
第4テーマは、月島地域の信仰と文化に触れている。佃島の住吉神社は江戸初期から佃漁民の守り神であった。眺望に優れた旅館・海水館は明治文豪たちの創作の場として、文学作品を生み出していった。
月島竣工120年は近代工業の進展とともに歩み、庶民のまちとして今日の姿になった。石川島起立から振り返れば、江戸初期以来400年余の歴史を刻んでいることになる。月島地域の歴史・文化・暮らしを概観できる展覧会である。●巻渕彰
◇この特別展に連動した講演会や現地見学会が開催される。
詳しくは中央区HP郷土天文館のページ こちら>> をご覧ください。
[滅紫]
2012年5月18日 10:00
五月の演舞場夜の部は久々の「椿説弓張月」です。
ご存知のように曲亭馬琴の原作を三島由紀夫が歌舞伎脚本を書き、昭和44年の国立劇場での初演の時は自身で演出までして話題になったもの。三島の最後の歌舞伎脚本で、玉三郎さんもこの時白縫姫に抜擢され一躍有名になりました。その後2回しか上演されておらず前回は平成14年の歌舞伎座でこの時の為朝は猿之助さんでその1年後に病に倒れたのです。今回為朝を演じるのは染五郎さんで祖父の白鸚、父の幸四郎さんが演じた役。白縫姫を演じる七之助さんと二人は今月平成中村座の昼の部と掛け持ち出演の大奮闘です。
上中下の巻 通しで4時間弱のお芝居ですが大海原に巨大な船や怪魚が登場する大スペクタクルや烏天狗や猪、白馬、半裸の武藤太が白縫姫の命で女中たちに木槌責めに遭う嗜虐的な場面など如何にも三島好みという感じで飽きさせません。私も前回玉三郎さんの白縫姫に売り出し中の段治郎さんがいたぶられる身体から血が流れるのにぞくぞくした(余り嗜虐趣味はありません。念のため)のを思い出しました。贅肉のついた役者さんは出来ない役ですねー。今回の薪車さんもかなり鍛えているようで贅肉のかけらもありませんでした(羨ましい!)。大海原シーンで大活躍の「波幕」は高間太郎が自害する場面でほとばしる血潮が飛び散ったのが前の方の席にはよく見えました。凄い迫力です。思わず隣の方と一緒に「あっ!」
昼の部は「西郷と豚姫」「紅葉狩」「女殺油地獄」で25日千穐楽です。4月に続き若手花形役者大活躍の舞台を是非ご覧ください。
お問い合わせチケットホン松竹0570-000-489(10:00-18:00)
[銀造]
2012年5月17日 08:30
以前、「東日本復興応援プラザin銀座」で、ボランテイアの方々が毎週土日に東北支援の活動をなさっている事を報告しました。 先日も、お会いしたボランテイアの小父さんに、素敵な活動家の事を紹介されました。 ご本人は、フラワーデザイナーの吉田教子さんです。 今回も写真を固辞されていましたが、小父さんに立派な活動を紹介され、写真に納まっていただきました。
東日本復興応援のため、皆さんのご寄付を通じて、「まんまるさん」の人形を普及させたいと活動されています。 その他に、フラワーデザインの仕事だけでなく、更正施設を慰問されていると小父さんからお聞きしました。 詳細は、雑誌「フローリスト5月特大号」で。 土日は、お立ち寄り下さい。
http://www.chuo-kanko.or.jp/blog/2012/04/post-1201.html
雑誌フローリストの記事の一部が、紹介されていますので、ご覧下さい。
http://gekkanflorist.blogspot.jp/search/label/%E8%8A%B1%E3%81%A8%E4%BA%BA
[kimitaku]
2012年5月16日 08:30
「有りがたや いただいて踏む 橋の霜」
「初雪や かけかかりたる 橋の上」
この二句は、俳人 松尾芭蕉が
詠んだ句です。
新大橋ができた嬉しさを、句にしたためたものです。
新大橋は 元禄6(1692)年架橋後、何度も架けかえられ、明治45(1912)年に鉄橋として架
けかえられました。
両国橋のまたの名前「大橋」に続く橋として「新大橋」の名前がつきました。
中央区の浜町と 江東区の森下方面を結び、全長 170M 幅 24Mです。
橋を渡る途中には、
由来、元の橋、歌川広重の錦絵が レリーフとなっていますが、
ゆったり流れる隅田川に、橋の色とマッチして美しく、
足を止めて碑文を詠む人も多くいらっしゃいます。
この橋のまたの名は「人助け(お助け)橋」 由来を説明しましょう。
(これからの話は多く「区内散歩6巻 川端茅舎 の項」に寄ります)
大正12(1923)年9月1日昼間際
東京は未曾有の揺れに襲われました。
>>>「土蔵の多くはまたたくまに崩れ、砂煙が巻き、目も開けられない状態でした。直後は物音もせず静寂の状態が続いたそうです。人々は不安にかられました。
近くの倉庫からの火はたちまち広がり火の粉の雨を降らせました。すぐ鎮火したものの、神田方面からの火勢は、人形町を焼き尽くしていきました。
川では津波ように真っ黒な水が押し寄せて来たそうです。
火勢が迫る午後8時、茅舎家族は蠣浜橋までくると甘酒横町は半分以上燃え上がり、多くの荷物と車で身動きが取れない状態でした。
茅舎一家は細川邸の塀を破り、庭園に出たものの火の手が回り、大橋の袂に出ました。
橋の真ん中に必死に割り込み座り込み、一昼夜を過ごしたそうです。
橋の両傍から火に攻められた人々は死に物狂いで真ん中へ押してくる、中央でさえ堪らぬほど熱い。阿鼻叫喚の様相。自分たちも死に物狂いで踏み留まる、やがて、傍らの人並みは動かなくなる。
橋の袂の人は皆焼け死んだそうです。
吹く風は熱く、橋はハンモックのように揺れ、川は濁流が轟々と流れていたそうです。」<<<
新大橋は、鉄製の床板で敷き詰められていたため、消失を免れました、当時、隅田川5橋のうち、ただひとつの鋼鉄製の橋でした。
新大橋の右岸、橋を渡る手前の左側土手下に「新大橋避難記念碑」があります。
大変大きな碑で、由来が細かく記してあります。この橋の上で多くの人が助けられ「人助け」たことと、教訓が記されています。
なお 旧新大橋の一部は
愛知県犬山市の明治村に保存されています。
記念碑を読んでいる最中に、
若い女性が、碑に向かい
深々とく手を合わせていらっしゃいました。
[杏葉牡丹]
2012年5月16日 08:30
5月1日~5日は鐵砲洲稲荷神社の例大祭。
氏子達から「鐵砲洲さん」と呼ばれて親しまれているこの神社は、今年で御鎮座1172年という、大変に歴史のある神社です。
神輿渡御の3日4日は、あいにくのお天気でしたが、
3年に1度の本祭りだった昨年から1年延期になり、
待ちに待っていただけに、氏子の皆さんは元気いっぱいでした。
お祭りに付き物の半纏は、背中に各町会や様々な会の名前が入っていて、粋なものですが、その中に「木挽町」という半纏があったのをご存知でしょうか
実は、この「木挽町」、
今は無くなってしまった町名なんです。
場所としては、銀座中央通りからちょっと東に行って、今は埋め立てられてしまった三十間堀から始まり、昭和通りを越えて、築地までの細長い地域にあたります。
現在の正式な地名は『銀座』なので、雑誌などに「銀座とは思えない下町情緒の残っている地域」とか「裏銀座」などと紹介されることがありますが、それもそのはず、江戸時代からずっと「木挽町」だったのが、1951年に「銀座東」となり、1969年に「東」がとれて『銀座』になった、違う町なんですね。
ですから、同じ『銀座』でも、ここまでは鐵砲洲稲荷神社の氏子ですが、銀座中央通りの方は、日枝神社の氏子です。
もともと「木挽町」の名前は、江戸城改築の折に木挽(木曳)職人を多く住まわせたところから付いたといわれており、江戸三座の一つ「森田座」があった場所で、今では歌舞伎座があるという、芝居には大変に縁のある、由緒ある町名です。
そうした事もあって、三丁目の町会が「木挽町」の歴史を大事にしようと作ったのが、この半纏なのです。
当初は紅殻色だったとの事ですが、いまでは年季が入って、歌舞伎に縁の深い「柿色」に見えるのも、なんとも粋なものです。
今年は工事中だったので、できませんでしたが、お祭りのハイライトの一つは、なんと言っても、歌舞伎座前への、各神輿の渡御。
特に宮元の御神輿は、立派で姿形が美しく、風格があるので、三原橋方面から歌舞伎座に向かってくる姿が見えて来ると、失礼ながら、大向こうから千両役者に声をかけるように『宮元っ!』と叫んでしまいたくなる程です。
次のお祭りの時には、新しい歌舞伎座も完成しているはずなので、きっと、雄壮な姿が見られるはず。
「木挽町」の半纏も大活躍する事でしょう。
今からとっても楽しみです!