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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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日本橋とロンドン・メイフェア

[CAM] 2015年7月10日 14:00

   本日(710日)の日経新聞に下記の記事が出ています。

 

老舗の街「姉妹」提携、日本橋とロンドン中心メイフェア、文化発信や観光誘致。

2015/07/10  日本経済新聞 地方経済面 東京  15ページ  

 

>東京・日本橋の老舗商店の有志がロンドン屈指の商業地、メイフェアと連携して今秋から販路開拓や観光客の誘致で共同事業を展開する。老舗が集積するメイフェアと「姉妹街」として手を携え、伝統の品を海外に周知する。2020年開催の東京五輪に向け増加する外国人客へ「日本橋の老舗」の認知度を高め、集客拡大を目指す。

 

 「メイフェア地区」の解説として、

 

>ロンドン中心部の特別区、シティ・オブ・ウェストミンスターにある地区。ハイドパークやバッキンガム宮殿、大英博物館などの世界的な観光名所に近い。
 大企業の本社から洋品店や宝飾店など老舗が軒を連ねる。
 背広の語源となったスーツの聖地「サヴィル・ロウ」のテーラー、ヘンリー・プールや靴店の「ジョージ・クレバリー」など、日本でも有名な老舗が集積する。
 政治家や貴族が住む高級住宅地でもある。

 

と述べられています。 「日本橋」とは共通性が多いですね。日本橋も高級なマンションなどがもっと建てられて「高級住宅地」としても進化して欲しいですね。

 

 

 

池田弥三郎『日本橋私記』(橋名の起原)

[CAM] 2015年7月10日 09:00

  池田弥三郎氏(19141982)は、もう亡くなられて30年以上になるようですが、我々の世代には、タレント教授としてなつかしいお名前です。銀座泰明小学校のご卒業。

 

   本書は1972年の刊行ですが、冒頭の章「わたしの追憶」は「同じ東京の下町でも、日本橋区と京橋区とでは、万事に日本橋が京橋に優先した。それは、今、中央区として、表面一つにはなっているものの、やはりどこかに影をおとしている。京橋区内に生まれて育ったわたしとしては、残念ではあるけれども、これは素直に認めるより仕方がない。」という文章から始まっています。

 

  「銀座に育ったわたしは、銀座通りこそ、東京一の、君臨する場所と思いこんでいたのだが、実は、最も中心というべき町は、『擬宝珠から擬宝珠』と言って、日本橋から京橋までの通りの方で、その方が上なのだと聞かされて、子ども心に、がっかりしたことがある。・・・・・公平な心で日本橋の歴史を省みてみると、たしかに銀座は日本橋の場末であった。銀座の生活の歴史は浅いのである。」(24)とも述べられています。

 

 著者の「わたしの橋名起原説」も述べられています。これによると、

 

(1)  日本橋は、もと日本橋川(当時その名はなかったが)に架けられていた、粗末な橋で、その橋の様子から「二本橋」  と言われていた。

(2)それが、江戸の町の造成につれて、立派に改修されていき、その途上で、誰言うとなく、二本橋は日本橋だと言われるようになっていった。

(3)そして、誰言うとなく言い出した「日本橋」という名を、誰もが素直にうけいれられるように、日本橋はにぎわしくなり、付近は日本の代表の土地となり、さらに全国里程の中心となり、五街道発足点ともなっていったために、ますます「日本橋」の名がふさわしくなっていった。

――と、こういうような筋道が考えられるのではなかろうか。 (48)

 

 最近の書物を見ると、(1)の部分は略して、はじめから(2)(3)の経緯を述べるものが多いように思われます。しかし、この橋が最初に架けられた1603年頃の江戸というかこの地域はまだ荒涼たる新開地に過ぎなかったこと、当初のものはほんの粗末な橋であったであろうこと、池田氏が言うように、橋の名に限らず、地名というものは、そもそも単純で端的、直観的な名づけられ方をされるものであること等を考え合わせれば、起原としては(1)の段階があったと言うべきではないでしょうか。

 

 池田氏は「なお、大阪にも日本橋があり、京橋があるが・・・・大阪の場合、これをニッポンバシと言っていることは考えさせられることである。つまり、江戸で日本橋をニッポンバシと言わないで、ニホンバシと言ったのは、もともと『日本』ではなく、『二本』だったということの傍証になると思う。」(56)と述べられています。

 

 私が見た限り、大阪にも「日本橋」「京橋」という地名が存在することとの関係性に言及した論は、この池田氏のものが唯一のように思われます。

 

 これに限らず、池田氏の論を読むと、関西文化への敬意が感じとられるのは、氏が「田舎者」ではなく銀座で生まれ育った都会人であることとともに、折口信夫に師事したことによるのでしょう。

 

 

 

屋上庭園の芝生〔歌舞伎座タワー〕

[ジミニー☆クリケット] 2015年7月 9日 14:00

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例年にも増して梅雨らしい天気が続いていますが、そのも、この時季の植物にとっては生育に欠くべからざるものらしく、歌舞伎座タワー5階の屋上庭園にある芝生は、小雨の中、目に痛いほど「みどりみどり」しています

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この屋上庭園には、「先人の碑

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黙阿弥の石燈籠と蹲踞つくばい)」

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ありますが、それらを取り囲む植物も、3年目を迎えてボリューム感を増していました

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ちなみに、「先人の碑」は、明治22(1889)年の第一期歌舞伎座の開場以来、歌舞伎座の興行に係ってこられた先人の偉大な功績を永遠に讃えるために建立されたもの

黙阿弥の石燈籠と蹲踞」は、歌舞伎作者の河竹黙阿弥が、晩年の6年間を過ごした住居(現在の墨田区亀沢2丁目)の庭に置かれていたものだそうです

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日本蕎麦の味と銀座煉瓦の碑

[遊山ものみ] 2015年7月 9日 09:00

 ブログが久しぶりに掲載されたら、中央FMのラジオ出演を依頼されました。まだ放送前ですが、収録は先月半ば。ブログの記事の話から、何故か「B級グルメ?」に話題が移り、『千葉に旅行に出かけた途中、「そばよし」に立ち寄った。私には未経験のような安い蕎麦屋で、自動販売機で食券を買い、出来上がりをカウンターから席まで自分で運ぶ。それが新鮮で、かき揚げ蕎麦の野菜天ぷらが美味しく、出汁もそこそこ満足いくもの。蕎麦湯も自分で、カウンター横に蕎麦猪口を持っていき、入れるのも面白かった。』様な話をした。 東京では「三越本店」近くに「そばよし」があることを聞いたので、収録後に立ち寄ろうと考えていた。また『大好き街歩き』の私としたことが、築地市場に第五福竜丸の記念碑があるということを耳にしたのに、数度となく出かけている魚市場のどこにあるのか、気がついいていなかったので、出かけてみようと思って~。

 

  築地市場正門横にちゃんとありました。築地正門第五福竜丸.jpg

 

  フランスから一時帰国中の知り合いが、「今銀座です。美味しい日本蕎麦を食べたい!」という電話を受け、「そばよし」から銀座の名月庵「田中屋」さんでの蕎麦食いになってしまいました。銀座田中や.jpg

 

 「夏野」さんで日本土産に箸を何膳か購入するのに付き合い、銀座1丁目の「煉瓦の碑」を見、銀座煉瓦街が関東大震災のあと、品川戸越の湿潤の街路を埋め、現東急目黒線の「戸越銀座」の駅名になった話など。銀座の煉瓦は品川の煉瓦工場で作られたので、生まれ故郷(!?)に帰ったとか・・・。その後銀座8丁目の金春通りへ。ここにも「銀座煉瓦の碑」。この辺りのビル工事をしたときに、古いレンガ塀が出てきて、その煉瓦は江戸東京博物館に展示されているナド話しているうちに、「夕食は鰻!」ということになり、帝国ホテル下のうなぎやさんへ・・・。(すみません、千代田区になりました。)

戸越銀座煉瓦の碑.jpg1434846661170.jpg

 

 

続きを読む: 日本蕎麦の味と銀座煉瓦の碑

 

谷崎潤一郎「東西味くらべ」

[CAM] 2015年7月 8日 18:00

  

 谷崎は、「上方の食いもの」(『文藝春秋』1924年)で以下のように述べている。

  

「江戸っ児はよく、上方の料理は水っぽくていけないと云う。そして煮物をするのにも、東京人は砂糖や醤油をコテコテと使って真っ黒に煮る。これは一面から云うと、東京の野菜や魚が天然の滋味に乏しい証拠で、砂糖や醤油でゴマカサなければとてもまずくって食えないのである。 上方の人に云わせると東京の料理は悪甘くって食えないと云う。成る程上方では材料がいゝから、天然の味を殺さないで、ほんのアッサリ味醂や昆布だしを加えるだけで結構たべられる。・・・・・・・

 上方の料理を水くさいと云う江戸ッ児は、・・・・田舎者なのである。」

  

 そして、「東西味くらべ」(『婦人公論』1928年)では、上記の趣旨を繰り返しながら、

  

「・・・・一体食味の点から見ると、関西は上国で関東は下国だ。・・・・・どうも京都から東へ行くほど料理は下等になるように思う。

 東京などは江戸前とか何とか云って威張っているが、考えて見れば徳川氏草創の頃の田舎料理がそのまま今日に伝わったのだ。」 などと述べている。

  

 ところが、伊藤甲子之助「谷崎潤一郎と私」(「谷崎潤一郎全集」第17巻月報;1968年)では、次のように述べられていることには、苦笑せざるを得ない。

  

「これ(注;大震災)が切っ掛けで彼(注;谷崎)は関西に住むことになったが、江戸っ子気性の彼は初めのうちは関西の物事何につけても気に喰わない。」 そして、三井物産大阪支店勤務となり10年近く関西在住の伊藤氏について(注;伊藤氏も東京市日本橋区出身で谷崎と小学校の同級生)、「伊藤はもう駄目だ。気性がまるで変わって贅六根性が浸み込んでいる。江戸っ子の面汚だ。困ったものだ」とさげすんだという。

  

さらに「関西のものは食えぬと豪語、食料品は東京からの取り寄せ、お茶は山本、海苔は山本山に限り山形屋でも駄目、醤油は亀甲万という風で、序があるときは煮豆は芳町宝采屋にまで手が伸びる。そんな風だから鰹節は「にんべん」の品以外は使わない。・・・・・」

 

 

 

古地図展示即売会〔八重洲ブックセンター〕

[ジミニー☆クリケット] 2015年7月 8日 14:00

八重洲2丁目、JR東京駅八重洲南口の向かい側にある八重洲ブックセンター本店で、現在、江戸・明治・昭和の復刻古地図展示即売会が開催されています

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八重洲ブックセンターは、言うまでもなく都内有数の大型書店で、1978年開店時は、日本最大の書店でした

当時学生だった私は、専門書に囲まれる幸福感に、「ここなら一日でもいられるなあ」と思ったのを覚えています(アマゾンなど影も形も無い時代のお話です)

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現在、この1階で、古地図展示即売会が開催されています

展示されているのは、江戸時代の日本地図や道中図、江戸の地図や鳥瞰図、明治時代の東京の地図など。江戸城や浜離宮の位置を参考に、当時の〇〇藩の上屋敷が現在どうなっているかなど考え始めると時間が経つのも忘れて見入ってしまいます

色刷りで美しく、インテリアとしても楽しめると思います

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開催期間は、7月12日(までです。

ちなみに、ビジネス街に立地のため、開店当時は日曜日はお休みだった記憶があるのですが、現在は、日曜日も営業されています