[えだまめ]
2018年3月12日 09:00
子連れ特派員のえだまめです
今日、3月10日。
いたって普通の土曜日なので、娘あずきを連れて隅田川テラス方面へお散歩に向かいました。
その途中。
浜町区民館(児童館も入っているのであずき共々よくお世話になっています)の前にたくさんの人。
そして、いつもと違いお花も供えられていて、みんなで手を合わせていて。
ああ、そうか。
今日は、東京大空襲のあった日です。
1945年(昭和20年)のきょう、深夜0時8分にアメリカ空軍のB29爆撃機が
東京上空に飛来して大空襲が行われ、最大級の被害がもたらされました。
現在東京都としては、この日を「東京都平和の日」とし、様々な行事を行っているようです。
そして、浜町区民館になぜ多くの人が集まるのか。
理由はこちらのレリーフを。
当時、ここには「浜町小学校」がありました。
そして東京大空襲の夜、お二人の先生と用務員さんがここで殉職され、
小学校も灰塵に帰すこととなったのです。
また、関東大震災を経て火災に強いように再建された学校が多かったので
多くの方が小学校に避難されていたようなのですが
アメリカ軍の空襲の威力は予想をはるかに超えるもので
避難された方も多く犠牲になってしまったようなのです。
レリーフは平成2年に浜町小学校の同窓生の皆様が作られたものですが
「天国からあなたの子供達に話しかけ子供達をお守り下さい
私たちの脳裏に刻み込まれた おやさしかった皆様の
生前のお姿をしのび霊安かれとご冥福をお祈り申し上げます」
ということばは胸にしみるものがありました。
どうしても翌日・3月11日の東日本大震災の記憶の方が新しく、
かつ自分自身が体験したことの方が思い出されやすいものだから
(実際、あの日私も帰宅難民になり、結局勤務先で一夜を過ごしましたし。)
東京大空襲のことが思い出されにくくなっている現状もあるように思えます。
それでも。
平和の尊さを考える日のことを、決して忘れてはならないと思うのです。
レリーフの文章の後半
「再び此の様な災禍のなからんことを誓う」
この言葉をかみしめたいと思います。
浜町区民館(浜町小学校跡)
中央区日本橋浜町3-37-1
http://mappage.jp/cml/SMAP.php?X=139.7945767088&Y=35.6822381386&L=12#S04
※レリーフは入り口の左手の外壁にあります
[yaz]
2018年3月11日 14:00
昨年日本橋本石町の長崎屋(阿蘭陀館)についてシリーズで報告しましたが、今回番外編として鉄砲洲船松町へ移転した以降~御家没落までの過程を記述します。
安政5年7月1日(1858年)、日蘭修好条約が締結され、長崎出島のオランダ商館長の江戸参府の行事も廃止さましれた。10月になって、長崎奉行所は長崎で購入した蘭書を江戸へ廻漕し、江戸本石町の長崎屋を「蕃書取扱所」として、すべての蘭書に押印しました。この印章の写しは、町年寄「舘市右衛門」(日本橋本町)を通して、通二丁目の書物問屋「佐兵衛」他1名に伝達されました。
長崎屋11代目当主 長崎屋(江原)源右衛門は思案して、長崎奉行所に願書を提出しました。『これまでオランダ宿その他長崎表御用商を務めてきましたが、たびたびの火事に類焼し、難渋しておりますので、今までの住居の本石町3丁目の場所を人に貸して収入を得て、深川でも本所でもどこか河岸付の便利な場所を得て転宅したいと思いますので、どうかお許しを得たい』
長崎役所はこの願書を受理し、かけあってみようということとなりました。武家地なのでいろいろと問題が発生するかもしれないが、築地河岸の船着き便利な場所である船松町を候補に検討してみようということとなりました。従来の人参座(薬用人参の販売)・新規の御用"藩書取捌"を行う役所向け建物を建設するということで可否を伺えることになったのです。
長崎屋は町人ではあるが、「御用達町人同様の取り扱い」にすることが出来るなら許可しようということで、付箋付きで許可が得られました。
現在の地図で場所を示すと、以下のように聖路加病院裏になります。
明治初年に東京運上所(水炊き 治作脇)が使用していたと思われる洋書が発見されました。
明治元年(1868)7月、鉄砲洲に置かれていた外国事務局が「長崎会所」に残されていた品々の引き渡しを受けます。その中に西洋書籍1万7千冊余が含まれていました。この長崎会所とは「江戸長崎会所」のことで、万延元年(1860)に、江戸の船松町二丁目(現中央区明石町 6~7 番地隅田川沿)で「蕃書」(=洋書)や西洋銃の売り捌きそのほか長崎会所の御用達を務めていた長崎屋(江原)源右衛門宅を指しています。
源右衛門宅は鉄砲洲船松町2丁目はずれ、細川若狭守屋敷北隣の河岸添地でした。長崎屋は新たに輸入小銃の売り捌きにも当ることになり、商売が繁盛して景気が良く新しい事業にも乗り出しました。新材木町の丁字屋仁平と手を組んで生糸貿易に一役買いました。船松町から南飯田町続きの埋め立て地に引っ越しましたが、安政条約締結の結果、東京を開市せざるを得ず、築地に居留地を作ることなりました。そのため源右衛門の土地は引き払わざるを得なくなりました。その後、本所小梅の裏長屋に引っ越し、明治8年8月5日5人の子女を残して没しました。鎖国を継続した江戸時代海外との門戸を開くことに大いに貢献した長崎屋でしたが、最後は思いがけない結果となりました。今は江原姓を名乗る人はいません。
参考文献:
切絵図考証(21) 安藤菊二著 郷土室だより(中央区立 京橋図書館) 1982.01.15
[滅紫]
2018年3月11日 09:00
次の予定まで1時間近く時間が空きました。どこかでお茶でもと思って目に入ったのがここ、ハイアットセントリック銀座です。1月22日にオープンしたばかりなので気になっていたのですが、のぞいてみるチャンスがありませんでした。Bar&Lounge NAMIKI667は3階にあります。ちなみに4階がフロントです。一人だったのですが窓側のゆったりしたテーブルに案内されました。眼下は並木通りです。このラウンジの名前、NAMIKI667は勘の良い方はお察しの通り、ホテルの所在地が並木通りの6-6-7であることによっています。アルコールも勿論ありますが、ソフトドリンクも豊富です。私はまずはコーヒーをいただくことに。読みふけっているといつの間にか外は薄暗くなっていて、全く気が付かない間にテーブルライトが置かれていました。このさりげなさ、珈琲のお替りのタイミングといい、やはりホテルのサービスですね。気になるお値段ですが。コーヒーは800円、サービスと消費税が入って994円でした。
ホテル・ハイアット・セントリック銀座 Bar&Lounge NAMIKI667
銀座6-6-7
[サム]
2018年3月10日 18:00
旧佃島地区には稲荷社が3個所4社鎮座しています。
一部(上町)には、住吉神社境内社のひとつで、明治2年に大伝馬町1丁目より遷座したとされる「入船稲荷神社」。二部(下町)には、森孫右衛門一族が奉祀した屋敷神が発祥とされる「森稲荷神社」。三部(東町)には、玉垣の刻銘に元漁師町の残影が色濃く残る「浪除稲荷神社・於(御)咲稲荷神社」。
今年は、3月初午に近い日曜日に当たる3月4日10:00から、住吉神社平岡宮司が各稲荷社を回り、初午祭修祓式が斎行されました。
江戸時代からの伝統である、芝居などの台詞や成句などを捩(もじ)った、地口(駄洒落の意)絵行灯が社殿を飾っています。「ゑんま舌の力もち(縁の下の力持ち)」「元値で売られた桃だろう(桃から生まれた桃太郎)」・・・
各々の稲荷社名を染め抜いた奉納旗が風になびき、稲荷社前に据えられた太鼓の音が町内に響き渡ります。
[皐月の鯉の吹き流し]
2018年3月10日 14:00
歩いて楽しむ隅田川テラス (プロローグ)
隅田川テラスを勝鬨橋から清洲橋まで歩いて楽しみます。コースは、築地大橋付近を出発
勝鬨橋、佃大橋、中央大橋を渡り、新川公園、永代橋、清洲橋。すべて橋の下を歩きます
(地図参照)
この間月島川水門の所は迂回し一般の道路を歩きますが、信号はなく隅田川の景観を 楽しみながら歩けます。
先ず、昨年のことですが東京2020オリンピック1000日前にちなみ東京タワーが 10/27(金)・10/28(土)の2日間、特別ライトアップされました。 1000の表示は東面(芝公園方面)1面のみとのことで、勝鬨橋から築地大橋の間で 見ることが出来ましたが10/28はあいにくの雨でした。
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もう一つ昨年の話。昨年から今年にかけて野菜が高いということですが その原因は寒さと昨年の台風の影響だそうです。 10月22日台風の翌朝、勝鬨橋付近隅田川テラスの様子。 写真のように冠水しています。ここまで水面が高くなったのは初めて見ました。 水門も閉められていました。
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さて次回以降、橋の下を歩いて楽しむ隅田川テラスを掲載します。