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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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◆ 汐留川と築地川・建築ロマン街道

[隅田の花火] 2018年5月30日 12:00

築地にある波除神社の「つきじ獅子祭り」。今年は3年に1回の本祭りで、6月8日には江戸時代に行われていた「船渡御」が復興される。築地市場から隅田川に出て水鎮祭を行ったあと、浜離宮と築地市場の間を流れる「築地川」を進み、浜離宮の大手門橋まで渡御するのだそうだ。

 

大手門橋の真上にある、カレッタ汐留46階の無料展望スペース。右に浜離宮、左に築地市場、上に隅田川、そして真ん中には神輿が渡御する築地川を見下ろすことができた。

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46階から浜離宮の「大手門橋」まで下りて来た。築地川をまたぐこの橋は、「南門橋」ともいう。ここは昔、築地川と汐留川が接するような形で流れていたものの、それぞれの川の上流は埋め立てられてしまっている。水をたたえているのはこの浜離宮の周りだけなので、昔の名残が残る貴重な場所なのである。

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埋め立てられ、今は高速道路が走っているところには、どのような風景が広がっていたのだろうか。昔の川沿いを少し歩いてみて、かつての水辺付近にあった風景に思いを馳せてみることにする。

 

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【昔の汐留川沿い】
昔の鉄道の踏切信号機が残されている辺り(①)。ここの町名は銀座だが、昔は木挽町と呼ばれていた。現在、銀座郵便局があるこの場所には、明治から大正にかけて「逓信省」のルネサンス様式の大建築があった。

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汐留川に面し、新橋の方向を向いていたようで、建物の中には逓信博物館もあった。残念ながら関東大震災で焼失してしまったが、今の殺風景な高速道路沿いからは想像もできないような水辺の風景が、この時代にはあった。

 

 

 

【築地川の千代橋(せんだいばし)】
明治大正の時代には無かった橋のようで、関東大震災後に復興橋梁として架けられた。江戸時代に「仙台橋」という橋がこの辺りに架けられていたので、その名を踏襲して名付けられたのだろう。

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形は復興局が編み出した「復興局型橋梁」と言われる橋で、近隣の川にもいくつか架けられたタイプの橋だった。それらの中でもこの千代橋は特に美しかったのだろうと、残っている親柱や高欄を見ると感じられてしまう。実際、そうだったらしい。

今は残念ながら橋の両外側に公園のスペースができてしまい、それがアダとなってかつての千代橋の外観を眺めることができない。

 

なぜこの橋が特に美しく架けられたのかについては、またいつか考えてみたい。

 

 

 

【築地川跡の采女橋と万年橋の辺り】

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万年橋際の築地川銀座公園にある「名犬チロリ」の像。チロリが向いている「万年橋」と「采女(うねめ)橋」の方向には、絵になる建築風景が多く存在していた。築地の外国人居留地と銀座の煉瓦街に挟まれた辺りだったので、和洋混合の街並みが形成されたのだという。時代別に見てみたい。

 

《采女橋・関東大震災前》

築地側から采女橋越しに銀座(木挽町)側を眺めてみる。左にある建物は以前、日産自動車の本社が入っていた銀座六丁目スクエアビル(②)。そして、みゆき通りを挟んだ右側は時事通信ビル(③)で、以前には銀座東急ホテルの建物があった。

s_hanabi60-7.jpg大正時代、ここには「農商務省」の大きな庁舎(②)、そして右隣には「築地精養軒」が立ち並び(③)、築地川沿いは大正ロマンの様相を呈していた。

 

「農商務省」はフランス古典様式と言われる西洋建築で、1891(明治24)年の新家孝正の設計。建物の中には、農・工・商業を奨励する目的で見本品などを並べる商品陳列所もあったといい、殖産興業政策や官民協力の場としての役割を果たしている。

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一方、隣の築地精養軒の建っていた場所は当時「采女町」と言った。精養軒の歴史は古く、1872(明治5)年に皇居前の馬場先門で開業した。しかしその開業当日に「銀座大火」で類焼を受けたため、木挽町に移転。そして翌年に隣の采女町のこの地に新しい建物を建てて本格的にホテル・レストランの営業を開始したのだという。

 

築地精養軒は、本格的な西洋料理を提供する店として明治初年の文明開化に大きく貢献。その後の西洋料理の普及にも繋がったことを考えると、その歴史的意義は大きかった。

s_hanabi60-9.jpg建物はチェコのヤン・レッツェル(ヤン・レツル)の設計により、1909(明治42)年に建替られ、築地川沿いを華やかにした。この人は原爆ドームとなった「広島県物産陳列館」の設計者としても知られている。

 

残念ながら隣の「農商務省」とともに関東大震災により焼失する運命となってしまった。

 

 

 

《万年橋・関東大震災後》

万年橋際には、震災後の1930(昭和5)年に東京劇場が開業した。その重厚な姿は、この辺りでも威容を誇っていたという(④)。

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すぐ近くの歌舞伎座が太平洋戦争で焼失してしまったため、被災を免れたこの東劇が戦後に歌舞伎の中心地となった時代もあったが、1975(昭和50)に現在の建物に改築されている。

 

 

 

《采女橋・関東大震災後》

震災後、采女橋の隣には木挽町の新橋演舞場が1925(大正14)年に完成している(⑤)。

s_hanabi60-11.jpg震災前に着工したが、震災が影響して完成が延びてしまった。この場所は築地川がクランク状に屈折していたところで、建てられる前は鬱蒼とした木々が繁っていたという。こけら落としは、第1回の「東をどり」だったそうだ。

 

設計は、銀座ライオンの設計者としても知られている菅原栄蔵。外壁には震災復興期に流行ったテラコッタ装飾(やき物装飾)があり、この建物の特徴のひとつだった。

 

1982(昭和57)年に現在の建物に再建。正面入口からロビーに入ると、四角形の木製装飾壁に出迎えられる。これはテラコッタの文様を写して作られたものである。5月下旬は毎年「東をどり」の季節となっており、今年で94回目を迎えた。

 

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このように汐留川や築地川沿いには、当時の人々が絵葉書にしたいと思うような建築のある水辺風景が広がっていた。しかし現在はその風景を想像するしかない、というのが実に残念である。

 

今、築地川にはかつての川底を縫うように首都高速が走っているが、その上に蓋をして大きな公園にするという構想があるのだという。蓋をしてしまうと、僅かに残っている水辺の面影が無くなってしまうかもしれない。

 

しかし今よりも、後世の人に良い風景を残してあげられるのだとすれば、良いことなのだと前向きに考えたい。

 

 

 

中央区の歩道っておもしろい!8 【佃仲通り編】

[湊っ子ちゃん] 2018年5月30日 09:00

「佃仲通り」は、佃2丁目11番から17番までの、約150メートルの通りです。この愛称は、平成元年度につきました。歩道は、カラフルなブロックで舗装され、近隣の方が置いた鉢植えには、きれいに花が咲いています。年季の入ったお寿司屋さん、うどん屋さんなどが並び、どこか懐かしい雰囲気のする通りです。

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通り沿いには、江戸バス「佃二丁目」の停車場、東京メトロ「月島駅」の6番出口があり、「花咲くまち角」の花壇が歩道を彩ります。新月陸橋の向こうには、もんじゃストリートの赤い屋根が見えています。

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tukunaka03.jpgふと、そこだけ色の褪せた白いタイルを見つけました。きっと、絵が描かれていたに違いありません。ここは佃だから、佃島にちなんだ絵だったのかな...もっとはやくこの道と出会いたかった...湊っ子は、思いを馳せました。

なんと、京橋図書館の地域資料室で所蔵されている画像資料のなかに、それと思われる絵をみつけたのです。タイトルは「佃二丁目」。まさに、「佃仲通り」の番地です。平成17年(2005)、平井勝夫さんという方の撮影した写真でした。そこには、古き佳き佃の風景が描かれていました。

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写真提供「中央区立京橋図書館」
 
青い波に浮かぶ弁才船。遠い地から物資を運んできたところのようです。背景には、石川島の灯台も見えています。佃堀へと、水路が折れている様子も描かれていますね。現在はそこに、住吉水門が建っています。


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写真提供「中央区立京橋図書館」
 
こちらは、同じく物資を運んできた弁才船のようです。大切な商品が、雨や波で濡れないように、苫のような雨覆いをしていますね。向こうには住吉神社の屋根が見えています。いずれも江戸時代の風景のようです。この写真をみつけた湊っ子は、感動しました。そして、写真を撮っておいてくださった平井さんという方に、感謝いたしました。


tukunaka08.jpg佃島、永代橋に囲まれた隅田川河口には、多くの廻船が停泊し、周辺の町には荷役を行う瀬取宿や廻船問屋が集中しました。ここが「江戸湊」の中心地です。
江戸には、大型廻船が直接着岸できるような港湾施設はありませんでした。これは、隅田川の地形によるもので、流れてきた砂が川底にたまり、浅瀬を作っていたからです。
そのため、諸国から航海してきた大型廻船は、「江戸湊」である隅田川河口、または品川沖に碇をおろし、物資を瀬取船(茶船)という小さな船に積み替えて、江戸市中に網目のごとく張り巡らされた掘割を伝い、河岸に並ぶ問屋の蔵まで運んでいたのです。(右手に、現在の石川島灯台跡と佃島、住吉水門も見えます。前方に平成6年架橋の中央大橋と新川のビル群。)

tukunaka04.jpgもうひとつ、先日ラジオ収録でご一緒させていただきました、「佃のうさこ」さんに、とっておきの情報をいただいたのです。この「佃仲通り」に、カルガモの絵がある!ということなのです。息せききってでかけた湊っ子でしたが、残念なことに、舗装は新しくなっていました。カルガモの絵は、京橋図書館にも残っていません。どんなカルガモだったんだろう...がっかり肩を落としましたが、それでも、かつてここにカルガモの絵があったのだと思うだけで、歩くのが楽しくなります。佃のうさこさん、ありがとうございます。


TOKYOの街は立ち止まりません。だからこそ、記録が大切だと思うのです。せめて、自分の好きな風景や、場所のことは、覚えていたいと思います。
 

※写真掲載にあたっては、中央区立京橋図書館に申請のうえ許可を得ています
 

中央区観光特派員 湊っ子ちゃん

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第14号 平成30年5月24日

 

 

2018 水の消防ページェント

[サム] 2018年5月29日 18:00

P5271242ELS''.jpgP5271197RS'G.jpg 昭和16年5月20日に国際貿易港として開港した東京港の開港記念日を祝し、毎年5月20日前後の土日に開催されている「東京みなと祭」。70回目を迎える今年は、5月26・27日の両日、晴海客船ターミナルをメイン会場に様々なイベントが繰り広げられました。

中でも、昭和24年、隅田川にて実施された第1回「水上消防出初式」がその後晴海埠頭へと会場を移し受け継がれ、20年の節目を迎えた昭和44年の翌年、「東京みなと祭」の行事のひとつへと形を変えた、10艇の消防艇と3機の消防ヘリコプターによる、華やかで迫力満点の「水の消防ページェント」は人気の的。

27日10:30より、進行表に沿い、①消防少年団·カラーガーズ隊·音楽隊パレード、②開式、③分列航進、④放水演技、⑤消防·救助演技、⑥一斉放水(カラー放水)、⑦閉式 と順次パフォーマンスが披露されました。紅白の放水、並びにクライマックスの5色カラー放水は圧巻です。

 

 

名橋のある風景

[TAKK...] 2018年5月29日 18:00

清州橋は永代橋とともに、関東大震災の復興事業として計画され

昭和3(1928)年に竣工しました。

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東京スカイツリーと

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デザインはドイツのケルンにあるつり橋がモデルになっているそうです。

 

 

江戸の粋を伝える染め物技術

[下町トム] 2018年5月29日 14:00

中央区にはいくつもの「まちかど展示館」が制定されていますが、その中のひとつ「ゆかた博物館」は人形町駅からもほど近い路地にあります。ある日、事前に電話で予約してからお訪ねしました。

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この施設は、三勝株式会社の社屋の一部を展示館として開放して下さっています。館長の清水敬三郎さんはとても穏やかな語り口で、江戸の染め物の歴史や伝統技術について丁寧に語っていただきました。特別に撮影も許可していただきました。

 

三勝ゆかた_20180518(1)_R.jpg飾られている浴衣生地の中には明治のころの古い技術が生かされた見事な一品もあります。「中型染」という大変手間のかかる技法を確かな腕で残したのは、三勝の専属職人だった清水幸太郎さんです。後に人間国宝となった方ですが、今の館長のお父様です。
 
「三勝」という名前の由来を館長にお尋ねしたところ、創業者の名前が天野半七というところから、浄瑠璃の「三勝半七」にあやかって名付けたということです。この作品は実際に江戸時代の大坂であった心中事件をもとに浄瑠璃作品に仕立てたもので、明治時代のころまでは誰でも知っている人気狂言だったようです。
現代でも文楽でたまに演じられる「艶姿女舞衣」 。酒屋の段で出てくる有名な台詞が あります。「今頃は半七さん どこでどうしてござろうぞ」。
昔から人形浄瑠璃や歌舞伎の街として栄えた人形町界隈で、そんな名前が残っていることも風趣を感じる一日でした。

 

 

 

新川の洋食屋さん「ターbou」/ "Ta-bou" in Shinkawa

[HK] 2018年5月29日 12:00

日本橋方面からお散歩がてら新川方面へ移動。途中小腹が減ったので洋食屋「ターbou」で昼食を。 

こちらのお店は誠実なご主人の人柄がそのまま味に出ている素敵なお店。 

ハンバーグナポリタン、と聞くとちょっとくどそう、と中高年は選択しないものですが、なぜかここのものはサラっと食べれてしまう不思議な一品。野菜の出汁が効いたあっさり風味のお味噌汁も付いてきます。

なんと言っても土曜日ランチの料金が平日と変わらないのも魅力。

お試しあれ。

 

Walked from Nihonbashi district to Shinkawa district. Stopped over at cozy restaurant "Ta-bou".

The food is just fine! Cooked by the owner chef neatly and faithfully, like his personality.

My favorite "Hamburg Steak with Napolitan Pasta" sounds very strong taste dish and not so many seniors will not order usually. But when it comes to this restaurant, amazingly, even seniors can enjoy such dish served with vegetable based miso soup.

Also, the place serves lunch on Saturdays with the same price as weekdays. Isn't this wonderful? 

 

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ターbou 東京都中央区新川2丁目5-8

 

 
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