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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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◆江戸狩野派の基礎を築いた 「探幽3兄弟展~狩野探幽・尚信・安信~」

[巻渕彰/写楽さい] 2014年3月 8日 09:00

奥絵師・江戸狩野四家の屋敷はすべて、今日の中央区内に置かれていた。狩野永徳の孫・探幽(たんゆう)は江戸開府とともに江戸に移り、鍛冶橋に屋敷を拝領する。5歳下の弟、尚信(なおのぶ)は竹川町(銀座、のち木挽町移転)に、11歳下の弟、安信(やすのぶ)は京橋中橋にそれぞれ拝領屋敷を得て、江戸狩野派の基礎を築いた。その3兄弟の展覧会「探幽3兄弟展~狩野探幽・尚信・安信~」(3月30日まで)が、板橋区立美術館で開かれている(写真上)

 

0913_562_140226kanoutanyu.jpg室町時代から隆盛を極めた狩野派は、探幽のときに江戸に拠点を移し、幕府御用絵師として活躍した。慶長7年(1602)山城国(現京都府南部)に生まれる。家康に謁見し、京より召されて御用絵師となり、元和7年(1621)に鍛冶橋御門外に屋敷拝領する。延宝2年(1674)73歳で死去。

 

尚信は慶長12年(1607)山城国生まれ。寛永7年(1630)、江戸で徳川秀忠に謁見、御絵御用を申付けられ竹川町に屋敷拝領。慶安3年(1650)44歳で死去。安信は慶長18年(1613)山城国生まれ。元和9年(1623)狩野宗家を継ぐ。寛永年間に中橋に屋敷を拝領する。貞享2年(1685)73歳で死去。

 

中央区の江戸狩野屋敷跡を訪ねよう。「狩野画塾跡」は銀座五丁目、旧木挽町で昭和通りに面して説明板が設置されている(写真下)。ここは木挽町狩野屋敷跡で、銀座竹川町から移転してきたもの。江戸狩野派として幕末まで存続し、明治画壇に狩野芳崖や橋本雅邦などを輩出した。

 

中橋狩野屋敷跡は京橋一丁目、旧大鋸町で、歌川広重住居跡の説明板の中に、わずかに狩野屋敷があったことが触れられている。探幽の鍛冶橋屋敷跡は八重洲二丁目、鍛冶橋交差点付近であるが、坂本龍馬が通った千葉定吉道場が一時置かれたところが鍛冶橋狩野屋敷付近だった、とその説明板にある。江戸狩野四家として浜町狩野屋敷があったとされるが、詳細は不明である。@巻渕彰

 

 

◆明治銀座、偉才の先覚者と親子三代 ~「岸田吟香・劉生・麗子」展~

[巻渕彰/写楽さい] 2014年3月 3日 08:14

近代明治の銀座煉瓦街に薬舗「楽善堂」を開き、目薬を製造販売する事業家として、また出版人、思想家、文筆家としても名をはせた岸田吟香(ぎんこう)、息子の画家・劉生(りゅうせい)、孫娘・麗子(れいこ)の親子三代にわたる展覧会「岸田吟香・劉生・麗子―知られざる精神の系譜」展(会期4月6日まで)が世田谷美術館で開かれている(写真上)


0913_561_140222kishida.jpg岸田吟香は天保4年(1833)、現在の岡山県に生まれた。医師ヘボンに出会い和英辞書を編纂し、維新後は明治6年(1873)、尾張町(現銀座五丁目)の日報社に入社、『東京日日新聞』主筆として活躍した。独特の語り口やユーモア、論客ぶりが評価されたという。

 

明治8年(1875)、銀座二丁目に薬舗「楽善堂」を開業し、これまで研究をしてきた目薬「精錡水(せいきすい)」の製造販売に乗り出す。ヘボンから処方された日本初の液体目薬で、ガラス瓶にコルク栓の画期的なものだった。明治38年(1905)、銀座楽善堂で死去、72歳。

 

劉生は明治24年(1891)吟香の四男として、銀座に生まれ、銀座で育った。14歳のとき父が他界。大正2年(1913)22歳で結婚し、代々木に転居する。画家として成熟していき、愛娘をモデルに「麗子像」を描き続けた。

 

昭和2年(1927)の随筆『新古細句銀座通(しんこざいくれんがのみちすじ)』に、思い出として「鉄道馬車の鈴の音を聞きながら青年時代までそこ(銀座二丁目)で育ってきた」と記している。昭和4年(1929)、38歳の若さで死去。

 

麗子は大正3年(1914)、劉生の長女として生まれた。4歳から父の「麗子像」モデルを務める。15歳のとき父が逝去。その後、絵画や演劇、小説などの表現者として生涯を送った。評伝『父 岸田劉生』の刊行を目前に昭和37年(1962)、48歳で急逝した。

 

中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)常設展示室には、岸田目薬「精錡水」看板(写真下)、ガラス瓶、引札などの所蔵品が展示されている。@巻渕彰

 

 

 

◆中央区 ここに歴史あり(56) 日本初の火力発電所 ~電燈供給発祥の地~

[巻渕彰/写楽さい] 2014年2月21日 09:00

日本初の火力発電所は中央区にあった。日本橋茅場町に「電燈供給発祥の地碑」(写真)がある。明治20年(1887)11月21日、東京電燈会社(現東京電力)が発電所を建設し、付近の会社に電燈を供給したという。

 

0913_56_140220hatsudennsho.JPGのサムネイル画像記念碑には、配電線による最初の電燈供給で、30馬力の横置汽機を据え付け、20KWエジソン式直流発電機1台を運転。210ボルト直流で、電燈は日本郵船会社、東京郵便局などに供給された、とある。

 

エジソンが発明した世界初の火力発電所は1881年、ニューヨーク市への電力供給であったそうだ。その技術が6年後、日本のこの地にも導入されたことになる。石炭を燃料に発電した電力量は、白熱電球でわずか1600個分という。当時は電燈のみに電力を使っていたので、それで足りたようだ。しかも直流(現在は交流)で供給していたので、送電範囲は数km程度と狭かったようだ。明治期の古地図を見るとこの地には「電燈局」の表示がある。

 

明治初期から第一国立銀行の創設をはじめとして、この地域一帯をビジネス街として計画していた実業家・渋沢栄一は発明したエジソンと会っていた。明治42年(1909)、渋沢を団長とした渡米実業団一行はエジソン電気会社を訪ねている。

 

作家・谷崎潤一郎は自叙伝『幼少時代』で、発電所の音が聞こえるこの付近に住み、坂本小学校に通った、と著している。この発電機は上野の科学博物館に「エジソンダイナモ」=日本最初の事業用火力発電所で使われた、として展示されている。@巻渕彰

 

 

◆観光協会アプリ「東京中央区まち歩きマップ」を使う ~手軽で便利な機能がいっぱい~

[巻渕彰/写楽さい] 2014年1月21日 09:00

このたびリリースされた観光地図アプリ「東京中央区まち歩きマップ」を使って銀座を歩いてみた。ガイドブックや大きな地図を持っていかなくても、スマホやタブレット端末を使えば、情報が手元で得られ、活用範囲が広がる便利な無料アプリだ。

 

0913_556_140120mapapl.jpgエリアは銀座を選ぶ。高橋美江さんの楽しいイラストの絵地図に従って、見たいところでカメラマークのアイコンをタップすると写真と解説文が表れる(写真は銀座四丁目交差点の画面)。歴史・観光や買い物、グルメスポットがいっぱいマークされている。絵地図の「松坂屋」には「再開発のため平成29年、再オープン予定」と親切なコメントもある。

 

こんどは「古地図」をタッチすると江戸切絵図に切り替わる。嘉永2年(1849)の尾張屋清七版なので色合いも良く見やすい。通常のMap(標準地図)を選べば、位置情報で現在地を確認することもできる。

 

「おすすめルート」メニューを選ぶと、「"花形"銀座 舞楽舞楽(ぶらぶら)コース」「"高級"銀座 店来店来(てくてく)コース」「銀座で開運!? 八丁神社めぐり」の3種のコースが出てくる。歩きたいコースをタッチするとスタートマークから矢印でルートが表示され、ゴールまで教えてくれる。いろいろ試すと中央区まち歩きも面白くなりそうだ。

 

今回使ったのはアンドロイドOSのタブレット端末で、晴海通りまで拡張された銀座フリーWi-Fi 「G-FREE」で接続した。@巻渕彰

 

◇このアプリの詳細は観光協会HP >>こちら をご覧ください。また、中央区HPのテレビ広報「こんにちは中央区です」No.293(平成26/1/12~17放送) >>こちら でも紹介されています。

 

 

◆秋の歴史散歩「旧日光街道の歴史を歩く(第2回)」 ~旧通旅籠町、馬喰町から浅草御門跡まで~

[巻渕彰/写楽さい] 2013年12月 4日 09:00

「秋の中央区歴史散歩2013~旧日光街道の歴史を歩く~(第2回)」が11月30日(土)午後、晩秋の好天のもとに開催された。この歴史散歩は、江戸繁栄の基礎を築いた日光街道を日本橋から浅草御門跡まで、全2回にわたって歴史を訪ねるもの。前半の第1回(11/16)に引き続き、後半の第2回は伝馬町牢屋敷跡から浅草御門跡までをまち歩きした。

参加者募集は「区のおしらせ中央」11月1日号で公募し、まち歩きボランティアガイド団体の「中央区文化財サポーター協会」が主催・実施した。

 

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十思公園に集合した参加者は定員の30人に達し、2組に分かれて出発した(写真左)。十思スクエア内で中央区まちかど展示館の伝馬町牢屋敷模型(写真右=テレビ取材を受ける)を見学したあと、公園内の吉田松陰終焉の地碑、石町時の鐘などを見て回る。大伝馬本町通りから北上する道が旧日光街道だ。通りの両側が旧通旅籠町で、大門通りと交差した東南角に明治後期まで大丸呉服店があった。

 

その先は旧通油町で女流脚本家・長谷川時雨が生まれ育ったところ。蔦屋重三郎の耕書堂は街道に面して店を構え、現在、説明板が設置されている。斜め前には「江戸名所図会」に描かれている京都の本屋・鶴屋があり、地本問屋が軒を並べていた一帯だ。この辺りに金物屋が多かったことは長谷川時雨著『旧聞日本橋』に詳しい。現在も江戸期からの金物会社が存在している。

 

浜町川跡を越えると横山町に入る。歳末商戦を目前にいつもより人出が盛んな問屋街風景だ。馬喰町交差点からは江戸通りを歩く。江戸期には公事宿・旅人宿が建ち並んだ地域でもあり、その賑わいは今日の原点となったことであろう。さらに進み、西に入ったところに初音の馬場跡がある。家康が馬揃えしたところとされる最古級の馬場で、「名所江戸百景」や「江戸名所図会」にも取り上げられている。

 

隣接して郡代屋敷があった。関八州から訴訟人らがここを訪れた。馬喰町には公事宿や店が集まり、さらには江戸見物四日めぐりの観光案内屋までが現れたという。郡代屋敷跡をたどると複雑な道筋に気が付く。関東大震災復興事業で靖国通りが造られ街区は変わったが、なぜ、この辺りの区境は折れ曲がったのか、謎?を解き明かす場所である。この付近は郡代屋敷の敷地跡を区境にしたのだった。

 

柳原土手跡に沿って、左衛門橋に向かう。神田川に架かるこの橋は中央区、千代田区、台東区の3区の境界になる。中央区最北端の場所である。浅草橋の手前には浅草御門が置かれた。日光街道を東北に向かうときの江戸城域最後の御門であった。当時の大番所辺りに現在、交番があるのは何かの縁だろうか。浅草橋を渡った北詰西側の浅草見附跡碑で解散となる。@巻渕彰

 

◇当日のまち歩きの模様は、中央区テレビ広報「こんにちは中央区です」、12月第2週に放送予定である。

 

 

 

◆秋の歴史散歩「旧日光街道の歴史を歩く(第1回)」 ~江戸繁栄の足跡を体感~

[巻渕彰/写楽さい] 2013年11月19日 09:00

「秋の中央区歴史散歩2013~旧日光街道の歴史を歩く~(第1回)」が11月16日(土)午後、小春日和に恵まれて開催された。この歴史散歩は、江戸繁栄の基礎を築いた日光街道を日本橋から浅草御門跡まで2回にわたって歴史を訪ねるもの。第1回のこの日は日本橋から小伝馬町牢屋敷跡までをまち歩きした。参加者募集は「区のおしらせ中央」11月1日号で公募し、まち歩きボランティアガイド団体の「中央区文化財サポーター協会」が主催・実施した。

 

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日本橋三井タワー前に集合した参加者は定員の30人に達し、2組に分かれて出発した。五街道の起点日本橋から日本橋魚市場跡を歩く。江戸期からの老舗が建ち並ぶ一帯はいまも歴史を物語っている。旧本町通りは江戸の町づくりがはじまったところだ。3人の町年寄屋敷が置かれ町政が執り行われた。旧日光街道と並行した江戸通り周辺には十軒店跡、長崎屋跡、石町時の鐘鐘撞堂跡など史跡が残る。

 

昭和通りを越えると、大伝馬町に入る。べったら市で知られる宝田恵比寿神社(写真左)、この地を支配した筆頭名主の馬込勘解由屋敷跡など歴史は古い。現在「大伝馬本町通り」と名付けられた旧日光街道には伊勢松坂商人などが集まり、江戸随一の木綿店問屋街として繁盛した。街道の名残は旧日光街道の石碑に刻まれている。

 

伝馬町牢屋敷の全体像は、中央区まちかど展示館になっている十思スクエア内の模型で建物配置や牢獄の構造などを確認することができる。十思公園内には吉田松陰終焉の地碑や300年前から今日まで受け継がれた石町時の鐘(写真右)が残る。ここで約2時間の歴史散歩が終了した。

 

第2回は11月30日(土)、旧日光街道歴史散歩の続きとして十思公園から浅草御門跡まで開催予定(参加申し込みは締切済)。@巻渕彰

 

 
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