中央区の今を映像で伝える、区民がつくるテレビ情報番組「中央区発 こちらみんなの情報局」が放送中です。
2016年3月号のタイトル
① ともに創る ご近所コミュニティサイト 「 PIAZZA 」
② 名妓・小喜美さんと東をどり
③ 中央区江戸バス散歩~八重洲~
の3本です。
制作 中央区区民メディアリポーターの会
・放送日時 毎日20:30~15分間
・テレビ局 CATV「東京ベイネット」
11(111)ch
・番組更新 毎月1日
@巻渕彰
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◆郷土天文館 ミニ企画展「出土した江戸のおもちゃ」 開催中!
中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)で、ミニ企画展「出土した江戸のおもちゃ」が1月30日(土)からはじまった。区内の遺跡から出土した江戸のおもちゃを一堂に揃えた展示で、町人地の子どもたちが遊んであろうおもちゃ類は当時の庶民生活を表現しているようだ。会期は3月6日(日)まで、月曜休館、入場無料。同館HP こちら>>
中央区は江戸下町の中心地であったことから、区内の遺跡からは町人の暮らしを物語る遺物が多数出土している。今回はその中からおもちゃ類に焦点を当て、100点を超える出土品が展示されている。
日本橋二丁目遺跡(コレド日本橋北側付近)から出土したおもちゃが多く展示されている。羽子板やコマ、さいころなど今でも使われている遊び道具もある。春駒と呼ばれる年初めに馬の頭の作り物を持って、歌ったり踊ったりする行事がある。今回その木製の頭部が展示されていて、これらの遺品が出土するのはきわめて珍しいという。
泥メンコも多数展示されている。10円硬貨くらいの大きさで、おはじきのように遊んだといわれる。表面の模様は役者や文様などさまざまで、当時の世相を表しているようだ。多種の泥メンコが出するのも中央区の特徴だそうだ。
八丁堀三丁目遺跡から出土したものに鳩笛がある。陶器製で彩色が施されている。この地で製作されたようで、作る途中段階の残骸が残っていて、製造過程が分かる貴重なものという。展示品には十二支に当てはめた動物像の展示もある。今年の干支、サルを扱ったものには三猿などが展示されている。
江戸時代の子どもの遊び道具は紙や木製のものが主流であっただろうが、遺跡から出土するものは損滅しない、焼き物のものが多い。展示品を見ると、これだけ多彩なおもちゃがあったことを再認識する展覧会である。@巻渕彰
◆中央区 ここに歴史あり(66) 城東小学校 ~歴史ある復興小学校の学び舎は、新たな時代へ~
東京駅八重洲口前のビル街に囲まれた場所に中央区立城東小学校は建っている。その歴史は明治初期にさかのぼり、校舎は関東大震災復興小学校として今日まで現存しているが、周辺街区の再開発計画に伴い、全国でも珍しい、ビルに入る小学校になるだろうと、今注目されている。この城東小学校の歴史をたどってみたい。(写真上は昭和4年(1929)竣工当時の京橋昭和小学校、写真下は面影を留める現校舎)
江戸時代、江戸城東方のこの一帯は、南北に東海道が通う通町筋。さらに東側は江戸湊に面し、天下普請の重要拠点だった。古地図の町名が記すように職人町として江戸の発展を支えたところである。
城東小学校は、明治6年(1873)12月開校の宝田小学校(旧京橋区本材木町三丁目、楓川沿い)が原点である。宝田と名乗ったのには、南伝馬町名主高野新右衛門が江戸城内だった宝田村から移されたことによるだろう。
その宝田小学校から分離して、明治39年4月に開校したが南槇町小学校(旧京橋区南槇町4)であった。現城東小学校があるこの場所である。大正12年の関東大震災で両校を始め区内の小学校はことごとく焼失した。
東京市の帝都復興計画で復興小学校の建設が実施されるにあたり両校は併合して京橋昭和小学校として再建される。当時の東京市資料によると校地面積は1051坪、鉄筋コンクリート造、3階建、竣工は昭和4年(1929)3月、竹田組施工とある。
戦後になり京橋昭和小学校は、昭和37年に日本橋城東小学校(旧日本橋2-6、丸善裏)と併合して、現在の城東小学校になった。校名は「旧江戸城(皇居)の東に位置し、朝のぼる太陽のごとく、隆盛を祈念する」と願って命名された。
現校舎は当時の復興小学校のままで、歴史を伝える近代化建造物である。区内には復興小学校7棟が現存し、そのうち小学校として使われているのは4校だけで、その1校の建物が、87年の歴史を刻んで消えていくことになる。これからの新時代に向かって、ビル内の新校舎に期待したい。@巻渕彰
◆中央区 ここに歴史あり(65) 佃天台地蔵尊の発願主 ~東叡山浄名院に由緒を探る
佃島に鎮座する「佃天台子育地蔵尊」は、狭い路地のなかに瀟洒な地蔵堂と大きな銀杏樹に守られた異空間として知られている。堂内には信徒から寄進された提灯などが一列に飾られ、いつもきれいな供花が手向けられ、信仰の深さが伝わってくる場所である(写真上:中央に線刻の地蔵尊)。
ところでこの佃地蔵尊の建立がいつ頃なのか、縁起を読んでもよく分からない。磨かれた石板に描かれた線刻の地蔵像をよく眺めると「石地蔵尊八万四千体造立発願主 天台地蔵比丘妙運拝写」とある。これを頼りに、縁起に書かれている「浄名院」を訪ねてみた。
浄名院(じょうみょういん)は台東区上野桜木二丁目にある(写真中央)。寛永寺から北へ、谷中霊園の入口に位置している。「東叡山浄名院」と掲げられた享保期の山門をくぐると本堂が目に入る。その左側に地蔵堂がある。江戸六地蔵の一つ、消失した深川永代寺の第六番地蔵が再建されていた。「地蔵寺」とも呼ばれている。
同寺境内には一面に石造の地蔵尊が建立されていて圧巻の情景である(写真下)。見渡すと3種の地蔵像があるようだ。呼び方は分からないが、彫刻された地蔵立像、墓石形状の地蔵像、佃と同じく自然石に刻まれた線刻の地蔵像である。佃の縁起に「自然石に刻まれたのは珍しい」とあるがこの寺では多く見られ、決して珍しくない。
「八万四千体地蔵」の門柱脇に設置された台東区教育委員会の説明板に解明の鍵があった。そこから抜粋すると、「同寺は寛文6年(1666)寛永寺三十六坊の一つとして創建された。地蔵信仰の寺となったのは第38世地蔵比丘妙運和尚の代からで、明治9年浄名院に入り、明治12年(1879)、八万四千体建立の大誓願をした」とある。
そうすると佃地蔵尊も、明治期に浄名院の妙運和尚が写し取ったという地蔵尊絵が配られて、その後に線刻されたことになろう。佃地蔵尊の縁起には江戸中期からの記述があり、ことさら由来が綴られているが、浄名院を参詣すると建立の謎が解ける。佃地蔵尊に「天台」が付くのは浄名院の宗派からだと納得がいく。@巻渕彰
◆中央区 ここに歴史あり(64) 十返舎一九生誕250年 ~区内ゆかりの地を訪ねる~
「東海道中膝栗毛」でおなじみの戯作者・十返舎一九(じっぺんしゃいっく)、今年は生誕250年にあたる。通油町(現日本橋大伝馬町)の蔦屋重三郎「耕書堂」に寄食し、のち、近くの長谷川町(現日本橋堀留町二丁目)で暮らした。墓所は現在、勝どきの東陽院にある。中央区内の一九ゆかりの地を訪ねてみよう。
十返舎一九は明和2年(1765)、駿府(現静岡市)で駿府町奉行所の与力同心を務めた重田家の長男として生まれ、重田貞一を名乗る。幼少より武芸や学問に励み、槍術の鍛錬に熱心だったという。
寛政6年(1794)30歳の秋ごろから、通油町の蔦屋「耕書堂」に寄食して、ドウサ引き(明礬を溶かした水に膠をまぜた液で、絵具の滲みを防ぐために塗る)をしていたと伝わる。一九はすでに大坂で浄瑠璃作家として知られていた。耕書堂では黄表紙3作でデビューし、著作から作画、筆耕までを一九自身がこなしたという(写真上)。
寛政8年(1796)には蔦屋を出て、長谷川町に住まう。通油町の東南に位置し、版元の村田屋、榎本屋、岩戸屋などとも近く、堺町・葺屋町の芝居町に近接した場所で、役者なども住んでいた。落語「百川」では「三光新道」が話に出てくる。現在は「三光稲荷神社」が鎮座している一帯である(写真中央)。
ベストセラーの初編となった「浮世道中膝栗毛」は享和2年(1802)刊行。「東海道中膝栗毛」として、京・大坂を旅した8編を著したのは文化6年(1809)、45歳のときで、その後も続編が刊行された。
専業作家として、筆一本で暮らした一九は天保2年(1831)に67歳の生涯を閉じた。葬られた東陽院は当初、浅草永住町にあったが、関東大震災後、現在地の勝どきに移転した(写真下)。中央区民文化財登録の墓には「此世をば どりやお暇に 線香の 煙と共に はい左様なら」の辞世が刻まれている。@巻渕彰
◆郷土天文館 企画展「谷崎潤一郎と日本橋~文豪のルーツをたどる~」 開催中!
中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)で、企画展「谷崎潤一郎と日本橋~文豪のルーツをたどる~」が10月10日(土)からはじまった。日本橋蛎殻町で生まれた谷崎は「細雪」「春琴抄」「谷崎訳源氏物語」などの作品を執筆した作家で、ことし没後50年を迎えたことから企画展を開催したもの。会期は12月13日(日)まで、月曜休館、入場無料。同館HP こちら>>
展示は2部に分かれている。第1部は「谷崎潤一郎と日本橋」で、自身の回想録「幼少時代」(昭和30年掲載)をもとに、誕生から阪本小学校、府立一中、一高、帝大と日本橋界隈で過ごした様子や町の情景を、幼少時代の文章とともに写真や絵画で紹介している。当時、谷崎が投稿した雑誌や原稿なども展示されている。
第2部は「文学作品の世界」で関東大震災後、活動拠点を関西に移し、創作に精力を注いだ。「細雪」の原稿や家族の写真などゆかりの資料が一堂に展示されている。生涯研究の集大成である「潤一郎新訳源氏物語」(昭和30年刊)の愛蔵本や装画なども見どころである。晩年の作品を彩った版画家棟方志功の装丁・装画などの貴重な資料も揃っている。
関連企画として、ギャラリートークやシンポジウムの開催が予定されている。@巻渕彰
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