[巻渕彰/写楽さい]
2015年4月10日 14:00
坂本町公園の一角に「兜町・茅場町まちかど展示館」が3月開館した(写真下)。町内神輿や山車のほか、消防関係の資料などが展示されている。中には日本銀行の皮半纏(はんてん)など貴重な資料がある。
展示館には茅場町1丁目、2・3丁目、兜町の神輿と兜町の山車がにぎやかに飾られている。この地域には江戸期、日枝神社御旅所だった摂社が鎮座していて、天下祭で知られる山王祭が隔年の夏に挙行される。
注目したい展示物に、「日本銀行皮半纏」がある。大正時代に日銀から贈られた鹿皮製の半纏で、背中に日銀の代紋と漢字で「本」が描かれ、「日本」と読める(写真右上)。
ほかに、昭和の初めに贈られた「清水ビルヂングの鹿皮半纏」や、大正時代に使われたという「刺し子の半纏と頭巾」、江戸町火消二番組百組の「纏(まとい)」も展示されている。
地域の変遷を記した説明板が設置されているので、兜町・茅場町の歴史散歩には格好の展示館といえよう。「中央区まちかど展示館」をめぐる楽しみがまたひとつ増えた。こちら>> @巻渕彰
[巻渕彰/写楽さい]
2015年3月 4日 09:00
京橋税務署と新大橋通りの間に「新富稲荷神社」がある。この辺りは新富座芝居町跡である。神社縁起は不詳だが、七代目坂東三津五郎奉納の手水舎がある。
明治維新後この一帯が新島原遊郭になり、中万字楼という妓楼の前にあったので、中万字稲荷とも呼ばれたという。遊郭廃止後、明治5年(1872)、新富町に守田座(のちの新富座)を移転するときに十二代目守田勘弥が再建したそうだ。明治期当時の新富座界隈絵図に描かれているので芝居町の鎮守社だったのだろうか。現在、境内には「奉納坂東三津五郎」の扁額と「七代坂東三津五郎」名が刻まれた手水舎がある。
守田座座元の十二代目守田勘弥の長男が坂東三津五郎家の養子に入り、七代目坂東三津五郎となったことから守田姓となったそうだ。屋号は大和屋。定紋は三ツ大。十代目坂東三津五郎は、七代目の本名「壽作」(じゅさく)にあやかって「寿」(ひさし)と命名されたという。十代目は去る2月21日、すい臓がんで死去した。享年59。
新富座の前身の守田座は江戸三座のひとつで、当初は森田座として木挽町で櫓を揚げた。「江戸名所図会」に挿絵が載り、跡地には説明板が設置されている。のち浅草・猿若町に移転し、明治期になって新富町へ移って興行した。中央都税事務所前には「新富座跡」説明板がある。@巻渕彰
[巻渕彰/写楽さい]
2015年2月13日 14:00
「新橋色(しんばしいろ)」という伝統色がある。辞書には「染め色の名。青みがかった薄緑色。明治末から大正期に新橋の芸者から流行した色」(『スーパー大辞林』第3版)とある。
新橋芸者の置屋は銀座金春屋敷跡にあり金春芸者と呼ばれたことで、別名「金春色(こんぱるいろ)」ともいわれる。現在、金春通りの街路灯表示はこの新橋色で彩られている(写真上)。
江戸期、この辺りには室町時代から栄えた能役者四家の一つ、金春家の屋敷があった。明治維新後は、日本橋・柳橋とここ新橋が三橋花街として賑わった。近代東京の草創期の当時は、新しいものが好まれ、化学染料を使った染色が新橋色であった。銀座煉瓦街やガス燈など西洋文明が導入されていった銀座にあって、ハイカラな感覚が新鮮に受け入れられたのであろう。
日本画家・鏑木清方の美人画にもこの色が効果的に使われていたという。新交通ゆりかもめ「新橋駅」のテーマカラーは「新橋色」、文様は「柳縞」である(写真下=ゆりかもめHPから)。@巻渕彰
[巻渕彰/写楽さい]
2015年1月27日 14:00
中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)で、企画展「江戸、芝居町発掘!~江戸歌舞伎と考古学~」が1月24日(土)からはじまった。中央区には江戸初期から江戸四座(のち三座)と呼ばれる芝居小屋が置かれていた。今回の展示では堺町・葺屋町(現・日本橋人形町三丁目)の芝居町遺跡の発掘出土資料から特徴のあるものを展示している。会期は3月8日(日)まで、入場無料。郷土天文館HP こちら>>
江戸期から堺町には中村座、葺屋町には市村座の2座が興行し、操り座などの人形芝居小屋があり、それを取り巻くように茶屋が集まる一帯は芝居町として形成していた。この情景は「江戸名所図会」に描かれている。遺跡はその一角で、市村座付近で発掘された。
出土資料から芝居関連の遺物として、木製品に墨書や焼印されたものや「市村」と書かれた板材がある。芝居小道具に使われた数点の模造刀も展示されている。あやつり人形の頭部と足首といった人形芝居の道具は操り座の痕跡のようだ。
茶屋跡と思われる場所からは、「茶店」と記された曲物容器の底板が出土し、屋号が書かれた陶器片も展示されている。茶屋が接客場所であったことで鍋島焼や色絵磁器などの高級品が大量に出土したのも特異という。
化粧道具の鉄漿坏(かねつき)、紅猪口(べにちょこ)や骨に細工された簪(かんざし)、笄(こうがい)も展示されている。遺跡からは石組みの下水や下水木樋、地下倉庫といえる穴蔵、役者の風呂桶なのか埋枡(うめます)などの遺構が見つかったそうだ。@巻渕彰
[巻渕彰/写楽さい]
2015年1月 7日 09:00
中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)で同館サポーターによる、第3回ミニパネル展「区の境目には何がある」が昨年12月20日からはじまった。中央区と隣接する区境はどうなっているのだろうか、写真パネルと地図で紹介している。会期は2月1日まで、区民ギャラリー前で展示している。観覧無料。郷土天文館HP こちら>>
中央区は千代田区、港区、台東区そして隅田川対岸の墨田区、江東区と接している。区境はどうなっているか。南は晴海大橋から北の左衛門橋、西は浜離宮庭園西角まで11地点を写真と解説文で紹介している。
橋が境界線になっているほとんどは橋の中央が区境であるが、相生橋は異なり、越中島寄りの中島跡が区境である。北端の神田川に架かる左衛門橋は複雑で、中央区・千代田区・台東区3区の区境になっている。橋梁管理は千代田区である。
馬喰町の千代田区との境界線は唯一陸地の区境であるため入り組んでいる。郡代屋敷跡が区画整理で整地されたことによる。龍閑川跡は千代田区神田との境となっている。現在復旧工事中の歩行専用石橋の常磐橋も区境であるが、橋の管理は千代田区となっている。
東京駅八重洲口付近は外堀跡が境界。ほとんど気が付かないが地下街にも境界線が走っている。銀座西側の高速道路会社線は外堀跡で、千代田区との境界であるが、いまだに境界が決まっていない「境界未定地域」である。
土橋跡付近も外堀跡と汐留川跡が境界線で、中央区・千代田区・港区3区の境界である。浜離宮庭園までが中央区になっている。古地図を見ると、区境は一部を除き河川や堀割を基準にしているが分かる、現在はその大半が埋め立てられ陸続きになったことで、ここが区境?と迷う場所が多くなった。
これまで3回にわたって展示してきたミニパネル展総集編は2月7日から3月29日まで開催予定である。@巻渕彰
[巻渕彰/写楽さい]
2014年12月 4日 14:00
秋の中央区歴史散歩2014「江戸初期の埋立地を歩く」の後編第2回が11月30日(日)開催された。この歴史散歩は中央区の成り立ちを探訪するシリーズで、春の「江戸前島を歩く」に続く第2弾。明暦の大火(1657年)以前に形成された江戸初期の埋立地を古地図を見ながら歩こうという企画。区報で公募し第1回11/22の京橋・八丁堀・新川編に続き、第2回は大川端・中洲・浜町編で開催された。実施はまち歩きボランティアガイド団体の中央区文化財サポーター協会。くわしくは「区のおしらせ中央」11/1号、こちら>>
第2回のこの日は曇りながらも穏やかな晩秋。茅場町1丁目交差点付近から出発する。今回は日本橋エリアを歩くコース。稲荷堀(とうかんぼり)跡を経て、行徳河岸跡へ。成田詣での舟が行き来した江戸初期からの地だ。湊橋辺りは上空に高速道路もなく見晴らしがよい。高尾稲荷、日銀創業の地から永代橋が望める隅田川テラスへ。
隅田川大橋を越えるとやがて中洲地区。対岸の深川は仙台堀川に沿ってセメント工業発祥の地辺りである。埋め立てを繰り返した中洲に入る。国重要文化財の清洲橋を眺めて真砂座跡へ。女橋跡の碑を経て高速道路下をくぐると浜町。常盤会久松邸跡は正岡子規が寄宿していたところ。色づいた落葉を踏みながら浜町緑道を行く。甘酒横丁を進み、人形町駅付近で解散した。@巻渕彰