[巻渕彰/写楽さい]
2014年6月19日 14:00
中央区郷土天文館(タイムドーム明石)で企画展「京橋・日本橋・月島 魅力再発見!~中央区にやってきた外国文化~」が同館区民ギャラリーで開かれている。会期は7月6日まで、入館無料。詳しくは、こちら>>
江戸期は朝鮮通信使やオランダ商館長の江戸参府、明治期には外国人居留地の開設、戦前は幻となった万博計画など、中央区の歴史の中で外国とのつながりを絵画、写真パネルを中心に展示している。
明治37年(1904)、築地の海軍操練所で打ち上げられた気球から撮影した写真は注目される。高度約200m上空からの眺めは品川から浜離宮、皇居、銀座、日本橋付近まで撮影された「東京パノラマ写真」である。セピア色の俯瞰風景からは往時の町並みがよみがえってくる。@巻渕彰
[巻渕彰/写楽さい]
2014年6月18日 09:00
日枝神社「山王祭」は日本三大祭(祇園祭、天神祭)や江戸三大祭(神田祭、深川八幡祭)の一つに数えられている。江戸期には天下祭として知られ、現在は神田祭と隔年で執り行われるが、今年は日枝神社が例大祭にあたる。
13日(金)の神幸祭は中央区中心部の八重洲、八丁堀、茅場町、兜町、摂社(御旅所)、日本橋、京橋、銀座の順路を約300mにわたる祭礼行列が練り歩いた。(写真下:中央通りの日本橋三丁目交差点付近を練り歩く鳳輦と干支山車)
15日(日)には下町連合神輿渡御が行われ、氏子町内の山車と神輿12基が京橋北詰から日本橋南詰までの中央通りに繰り出した。(写真下:日本橋橋上中央で折り返し、日本橋高島屋への神輿表敬訪問(日本橋丸善3階から見る))
@巻渕彰
[巻渕彰/写楽さい]
2014年5月12日 09:00
中央区の地域情報を届ける、区民がつくった中央区初のテレビ番組が4月からはじまった。番組名は「中央区発 こちらみんなの情報局」で、区民ならではの視点でとらえたテーマを取り上げて、映像で紹介していこうというもの。制作は区民カレッジ講座の修了者で構成された「中央区区民メディアリポーターの会」が担当している。
テレビ局はケーブルテレビの「東京ベイネット」(111チャンネル=リモコン11)。放送日時は毎日、午後8時半から15分間。4月から毎月更新で、5月号は研修で制作した4人の作品と会員紹介(後編)が放送されている。@巻渕彰
[巻渕彰/写楽さい]
2014年4月22日 14:00
春の中央区歴史散歩2014「江戸前島を歩く」の後編第2回が4月20日(日)開催された。この歴史散歩は中央区の原型とされる「江戸前島」といわれる江戸前期の地形をたどりながら、周縁の名所旧跡を巡ろうと企画されたもので、前編・後編の2回にわたって実施された。参加者は区報「区のおしらせ中央」で応募した皆さんで、企画主催は中央区まち歩きボランティアガイドの「中央区文化財サポーター協会」。関連記事 こちら>>
第2回の後編は、前編に引き続き築地川跡から八丁堀、兜町へ楓川跡の江戸前島東縁辺をたどるコース。50人ほどの参加者は中央区役所前に集合し班別の分かれて出発した。三十間堀・京橋川・楓川に架かっていた通称三つ橋は「江戸名所図会」にも描かれた場所であった。現在は首都高1号線にその痕跡がある。京華スクエア前の「八丁堀与力同心組屋敷跡」説明板はこの一帯が組屋敷跡であったことを物語っている(写真)。天祖神社は江戸期、伊勢外宮の別宮の遥拝社・伊雑(いそべ)大神宮跡で江戸名所図会にも登場する。
八重洲通りを越え「江戸もみじ通り」の辺りは旧本材木町で江戸初期の木場であった。新場橋辺りは「新肴場」が置かれ、日本橋と並ぶ江戸2大魚市場であった名残である。日枝神社摂社・茅場町薬師は天下祭りの御旅所、植木店で知られ、江戸の守り神。兜神社の場所は江戸期牧野家の屋敷跡、明治期には渋沢栄一邸が置かれた。この辺りは江戸前島の東縁辺で、楓川が日本橋川と接していて舟運の一番輻輳していたところであった。現在は首都高高架橋の交通混雑がとってかわった。日本橋で今回の歴史散歩は終了した。@巻渕彰
[巻渕彰/写楽さい]
2014年4月15日 09:00
春の中央区歴史散歩2014「江戸前島を歩く」の前編第1回が4月12日(土)開催された。この歴史散歩は中央区の原型とされる「江戸前島」といわれる江戸初期の地形をたどりながら、周縁の名所旧跡を巡ろうと企画されたもので、2回にわたって実施される。区報「区のおしらせ中央」で応募した皆さんが参加した。関連記事 こちら>>
第1回のこの日、好天のもと新芽がほころび始めた数寄屋橋公園(泰明小学校側)には50人ほどの参加者が集まり出発した。この付近はかつて外堀があったところで、西に向かうと日比谷入江に近い。JR高架線に沿って南に歩く道は江戸前島の西縁辺と思われる一帯である。新橋寄りの土橋跡付近は堀割の交差点であった。西に虎の門・溜池方面へ外堀が、東へは汐留川が流れていた。中央通りを越え東に行くと三十間堀跡がある。蓬莱橋跡付近が前島の南縁部辺りだろう。
昭和通りを北上すると、旧木挽町の「森田座跡」説明板がある。江戸前期の芝居町跡である。歌舞伎座(写真)を見ながら、明治会堂跡を経て、築地川跡(現首都高)を東に渡った辺りは前島の東縁辺付近とされる。解散場所の中央区役所前で約2時間の歴史散歩は終了となった。
今回の歴史散歩は「江戸前島」という砂州の地形を生かした江戸の都市形成・町づくりが今もって体感できるようである。国土地理院「土地条件図」と照らし合わせて歩くと、より理解が深まってくる。@巻渕彰
◇後編の第2回は4月20日(日)、区役所前から楓川沿いに江戸橋までのコースで開催される(申込締切済)。
[巻渕彰/写楽さい]
2014年3月12日 09:00
近年、住んでいる土地や地形への関心が高まっている。中央区の地形の成立は、江戸前島と呼ばれる半島状の砂州を中核として、その後、周辺が埋め立てられた、といわれている。
今回の歴史散歩は、その江戸前島の周縁付近を歩きながら沿道の名所旧跡を、4月、2回にわたって探訪するコース。主催は中央区まち歩きボランティアガイドの「中央区文化財サポーター協会」
→ただいま、申込受付中! 詳しくは「区のおしらせ中央」 3月11日号をご覧ください。こちら>>
(左図)「江戸の原型」(鈴木理生著『江戸はこうして造られた』ちくま学芸文庫版、2000年1月発行、p21から部分) (右図)国土地理院の電子国土ポータルサイトから「土地条件図」と「明治前期の低湿地図」を合成
江戸前島と現代の地形を見ていこう。
左図で中央の半島状一帯が江戸前島と呼ばれている。御茶ノ水と記された本郷台地の南に位置し、日本橋台地ともいわれる。尼店が日本橋付近で、将門首塚は大手町辺りであろうか。江戸前島の西は日比谷入江、東が海上である。
この江戸前島の地形をもとに江戸が造られていったといわれている。神田山を取り崩して日比谷入江を埋め立て、旧平川を外堀や日本橋川の源流とし、堀割で水路をつくる。旧東海道は江戸前島の尾根部辺りを通したとされる。江戸初期の町の様子は絵地図『武州豊嶋郡江戸庄図』が物語っている。
右図は最近公表された、地形構造が分かる最新データである。中央に逆「く」の字に折れ曲がった黄色の場所は「砂州」と分類される微地形で、左図の江戸前島とほぼ重なることが分かる。東京駅辺りはやや異なるが、新橋辺りが江戸前島の南端であることは合致している。右図は明治前期、つまり幕末期の中央区の姿ともいえる。水路が張りめぐらされ、月島はまだ存在しない。
この2図を重ね合わせると、今日の中央区中心部は江戸前島と呼ばれる砂州から誕生したといえるようだ。では現在、その痕跡はあるのだろうか。晴海通りや永代通りを東西にわたる地点で標高差を調べてみると、江戸前島の尾根部、現在の中央通りは周辺より標高(海抜)が高くなっている。外堀跡や楓川跡は江戸前島の外縁部付近と思われる。
今回の歴史散歩は中央区の地形形成の原点を探り、江戸・東京の歴史を見つめる、これまでにない新しい試みである。@巻渕彰