[巻渕彰/写楽さい]
2015年9月 4日 14:00
江戸前期の俳諧師・松尾芭蕉(1644-1694)は江戸で「都市的俳諧」といわれる蕉風を探究し、江戸派として隆盛を極めた。門弟だった日本橋の魚問屋杉山杉風は物心両面で支える。蕉門十哲の一人、榎本(宝井)其角は茅場町に屋敷を構え、その門人で与謝蕪村が師事した早野巴人は日本橋本石町に居住するなど、中央区は芭蕉ともゆかりのある地である。区内の芭蕉句碑を訪ねてみたい。
日本橋室町の日本橋鮒佐の店頭にある句碑(写真上)は、
「発句也松尾桃青宿の春」
延宝7年(1679)、芭蕉36歳の歳旦句。碑石脇の案内板には「寛文12年(1672)29歳のとき伊賀上野から江戸の出て、延宝8年(1680)37歳までの8年間、小田原町の小沢太郎兵衛(芭蕉門人、俳号卜尺)の借家に住んだ」とある。当時の俳号は桃青。
八丁堀の亀島橋西詰南側の句碑(写真中央)は、
「菊の花咲くや石屋の石の間」
元禄6年(1693)秋、芭蕉50歳晩年の作。添書きに「八丁堀にて」とあり、堀割に面した石屋の石材の合間に菊が咲いている詩情を詠んだのか。この句は「江戸名所図会」の挿絵「三ツ橋」の詞書にも取り上げられている。
築地本願寺南門前の法重寺に建てられた句碑(写真下)は、
「大津絵の筆のはじめは何仏」
元禄4年(1691)正月4日、芭蕉48歳。大津絵は「近江国大津の三井寺辺で売り出された民衆絵画。庶民の礼拝用の略体の仏画から始まり、道中土産として世に迎えられた」(広辞苑)。大津絵の絵師は正月三が日は仕事を休んだという。よって4日の書初めにこの句を詠んだのであろう。@巻渕彰
[巻渕彰/写楽さい]
2015年8月 3日 14:00
中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)で、同館サポーターによる第4回ミニパネル展「復興小学校・小公園の今昔」が8月1日(土)からはじまった。大正12年(1923)9月1日の関東大震災で焼失し、再建された中央区内の復興小学校や小公園は今どうなっているか、その全てをパネルで紹介している。会期は9月27日(日)まで、ミニパネル展は観覧無料。同館HP こちら>>
復興小学校は、関東大震災で被災した小学校を耐震耐火構造の鉄筋コンクリート造3階建で再建した建物で、当時東京市内に196校あった小学校のうち、焼失した117校を指す。中央区内では、旧日本橋区12校と旧京橋区13校の全25校が復興小学校であった。
建設を指揮したのは「耐震構造論の父」といわれる佐野利器(さの・としかた)である。震災後東京市建設局長に就き、「復興は教育から」のもとに合理的・機能主義的で規格化・標準化した学校建設を推進し、短期間に多数の小学校竣工を成し遂げた。
関東大震災から92年の現在、区内に現存している復興小学校は7棟あり、うち小学校として今でも使用されているものは4校である。中には東京都歴史的建造物選定の校舎もある(ちらし写真は当時の常盤小学校)。
同時に先進的な復興事業として、東京市は復興小学校に隣接した敷地に52の小公園を付設した。学童の保健体育に寄与するとともに、市民散策の公園、防火・避難場所などの機能を果たした。中央区内には現在でも10か所の復興小公園が残り、児童公園や地域コミュニティー活動などの役割を担っている。@巻渕彰
[巻渕彰/写楽さい]
2015年7月18日 09:00
千代田区は江戸城が「千代田城」とよばれたことから、麹町区と神田区が統合して昭和22年(1947)3月に発足したという。「千代田」とは「千代」非常に長い年月、千年もつづく「御田」、だから永劫吉祥を意することで、中央区内にも「千代田」を付した場所がある。
まずは、「千代田神社」が日本橋小伝馬町に鎮座している。掲出の由来によれば「長禄年間(1457-1459)神霊に依り、太田持資道灌が御霊を千代田の御城に祭り鎮守とす。徳川綱吉の時、太田の旧臣長野亦四郎氏詞を奉じて小傳馬町に遷座す(以下略)」とある(写真上)。
永代通りの兜町と日本橋間の楓川跡に「千代田橋」の遺構が残っている。関東大震災後の復興橋梁で昭和初期に架けられた。千代田という橋名の由来は不明だが、永代通りを西に向かった先には江戸城大手門跡に突き当たる(写真下)。
両国橋西側の矢ノ倉町には「千代田小学校」があった。現在の日本橋中学校の場所である。千代田小学校は明治9年(1876)の開校で、関東大震災で焼失して再建された復興小学校であった。昭和5年(1930)には昭和天皇が震災復興で臨幸したことで知られている。
「千代田」の語彙は普通名詞であることから、中央区内でもめでたい名称として一般に使われたのであろうか。@巻渕彰
[巻渕彰/写楽さい]
2015年6月 5日 09:00
八丁堀と京橋の間の楓川跡に陸上橋の宝橋が架かっている。橋上は楓川宝橋公園で、西詰北側に「宝地蔵尊」の小さな祠がある。楓川は江戸前島の東端とされ、西側は江戸初期の本材木町であった。宝橋は関東大震災後の架橋である。
この宝地蔵尊の由来はなんであろうか。地蔵像台座にわずかに刻文がみえる。昭和29年(1954)夏の午後6時55分、当時8歳の児童が楓川に落ちて亡くなった、とある。愛しい子どもを供養するお地蔵様だった。
この楓川は江戸初期から物流を担った重要な堀割で、八丁堀舟入から日本橋への舟運路であった。50年前の東京五輪の際に埋め立てられ、川底が首都高速1号線に変わった。
かつて宝橋の欄干には、廓門橋(後の呉服橋)から撤去された擬宝珠が赤坂の弁慶橋とともに取り付けられたという。橋の西側の町名は現在京橋であるが、住居表示変更前は「宝町」であった。都営地下鉄浅草線に「宝町駅」にその名が残る。
60年前、子どもの転落事故を追悼する宝地蔵尊は、当時の地域環境を語るとともに、子どもたちが元気に遊んでいた情景が思い起こされる。二度と悲惨な事故が起こらないことを願って見守り、祠に寄り添うビワは実をつけ始めてきた。@巻渕彰
[巻渕彰/写楽さい]
2015年5月18日 09:00
亀島川に架かる「高橋(たかばし)」の脇に古い親柱が残っている。「高橋」は江戸初期の絵図にも載る古くからの橋で、赤穂浪士引揚げの際に通ったともいわれている。最近は近くに小型船舶の係留保管施設もできて、水辺も整備されてきた。この「高橋」の歴史をみてみたい。
現在の「高橋」は昭和59年(1984)3月開通で、亀島川の八丁堀と新川を結ぶ鍛冶橋通りに架かる。ここから下流は南高橋を経て隅田川に注いでいる。残された親柱は新川側の「高橋南東児童遊園」にある。これは大正8年(1919)に架け替えられたコンクリートアーチ橋のものと思われる。(写真上:左が旧橋、右は現橋の親柱)
「正保元年(1644)より翌2年(1645)7月までの図と考えられる『正保江戸図』に、無名橋ながら記載されている。また、名前の由来については、亀島川の河口付近に架けられたため船舶の出入りが頻繁で、橋脚の高い橋を架けたことに由来するといわれている」(『中央区の橋・橋詰広場』中央区近代橋梁調査(中央区教育委員会、1998))とある。
江戸期は、高橋が亀島川最下流の橋であり、江戸湊から稲荷橋は八丁堀(堀割)への舟入の地点で大型船はここまでしか入れなかったところである。『名所江戸百景』「鉄炮洲稲荷橋湊神社」(広重)にその風景が描かれている。新川側は将監河岸であった。
さらに、「明治15年(1882)10月竣工の鉄製ホイル・トラス橋は、初めて日本人技術者原口要によって設計されたという国産橋であった」(同書)とあり、この景観は井上安治画『霊岸島高橋の景』に黒塗りのトラス橋が描かれている。
現在、高橋と南高橋間の水域には、公益財団法人東京都公園協会が管理する亀島川係留保管施設が設けられ、10隻ほどの船舶が係留できるように利用されている(写真下:高橋から見た左岸の新川側、右岸は八丁堀舟入)。@巻渕彰
[巻渕彰/写楽さい]
2015年4月16日 14:00
中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)で、企画展「築地小劇場とその周辺~新蔵資料を中心に~」が4月11日(土)からはじまった。日本初の新劇常設劇場「築地小劇場」にまつわる公演ポスターや舞台装置模型のほか新蔵資料群を展示している。会期は5月24日(日)まで、入場無料。
築地小劇場は大正13年(1924)、土方与志(ひじかた・よし)、小山内薫を中心に結成された。当時の「新劇運動」のなかで上演が続けられ、そこから今日につながる劇団も生まれた。昭和20年(1945)3月の東京大空襲で焼失してその幕を閉じる。跡地は築地2-11-17で、記念碑・説明板が建立されている。
展示品には小劇場の配置図や昭和戦前期を彩った公演ポスターが数多く出品されている。500席弱の客席を備えた劇場内は観客から舞台を見やすくするため、床面に傾斜が付けられていたという。今では当たり前だが、当時としては日本初の設備だったそうだ。
築地小劇場で舞台装置を担当し、戦後は映画界で活躍した田辺達の原画や衣装イメージ図など新しい収蔵資料が数多く展示されているので、舞台づくりの真髄が垣間見えてくるようだ。@巻渕彰