[之乎者也]
2015年12月31日 09:00
12月3日付ブログ記事(/archive/2015/12/post-2910.html)にてお知らせの通り、鉄砲洲稲荷神社では11月から平成の大改修(社務所の建替えなど)のための工事が進行中です。境内にはダンプや建機が入り白いボードで囲まれていたので、このままでは初詣も行けないのではと心配していましたが、先週来、一時工事が中断され正門からの出入りもできるようになりました。本殿前には大晦日の大祓い(おおはらえ)のための茅の輪(ちのわ)も既に準備され、社務所があった部分は白いボードで囲まれたままではありますが、例年通りこの正月も無事にお参りができそうです。
ブログ読者の皆様にもご心配のことかと思いましたので、取り急ぎお知らせ致します。
追記:1月10日(日)の寒中禊(寒中水浴大会)は、午前11時から、鉄砲洲公園にて行われるようです。【鉄砲洲稲荷神社】
所在地:〒104-0043 中央区湊1丁目6-7
電話:03-3551-2647
交通:都バス「東15」・江戸バス「南循環」鉄砲洲停留所下車目の前。中央区コミュニティサイクル「B01鉄砲洲児童公園」サイクルポートそば。
[之乎者也]
2015年12月30日 14:00
この時期、ヨーロッパはクリスマスや新年を祝う飾付けできれいな季節。普段であれば年末にパリを訪れる方も少なくないかと思いますが、今年はちょっとテロも心配です。そんな方に今回は中央区のフランス探しのお話です。中央区にはプランタン銀座をはじめとして、フランスにゆかりのあるお店や施設なども少く無いですが、本日はその一つ、銀座にあるMMM(Maison des Musées du Monde(メゾン・デ・ミュゼ・デュ・モンド))を訪ねてみました。
こちらはDNP(大日本印刷)が文化活動として2003年から行っている、フランスのミュージアム(美術館・博物館)の情報提供や公式ミュージアム・グッズの展示・販売を行う文化施設です。2013年からは「世界のアートとデザインを暮らしに」をコンセプトに、フランスに限らず欧州・世界へ対象を拡充して活動を続けています。
場所は中央通りの1本西側のスズラン通りと交詢社通りの交わる辺りです。近くには慶應義塾創設者の福澤諭吉が、1880年に日本最古の社交倶楽部として設立した交詢社があり、また食事処も多いおしゃれな雰囲気のエリアです。特派員のCAMさんが12月26日付「細雪シリーズ(7)(/archive/2015/12/post-2972.html)」で紹介している関西割烹の「浜作」も隣にあります。
【交詢ビル】⇒交詢社のファサードが建物の一部として残されています。
ガラス張りの建物の入口には赤地にMMMの3文字が白抜きされたサインが映えるおしゃれなデザインです。中に入ります。1階と2階はミュージアムショップで、ルーヴル他フランスを中心とした欧州のミュージアムの情報提供と、ミュージアムグッズの展示・販売がされています。あまり大きなスペースではありませんが、ルーヴル(パリ)、オルセー(パリ)、ベルサイユ(パリ)、リュクサンブール美術館(パリ)、カルヴェ美術館(アヴィニョン)などのフランスのミュージアムのみならず、クレーセンター(ベルン)、大英博物館(ロンドン)、テート・ギャラリー(ロンドン)、ウィーン美術史美術館(ウィーン)、ゴッホ美術館(アムステルダム)などが紹介されておりプチ欧州旅行の気分を味わえます。
エレベーターで3階に昇ると、アートスペースということで美術館とは離れて、グラフィックアートやデザインをテーマとした企画展が行われています。ちょうど「クリスマステーブルグッズ特集」を開催中(12月25日まで)でした。こちらは写真撮影不可でしたので、ブログ読者の皆さんに様子をお伝えすることができないのは残念ですが、季節の雰囲気を反映したほっこりとする展示でした。
続いて地下1階のMMMライブラリに行ってみます。
【MMM ライブラリー(地下1階)】⇒こちらの撮影はMMMから許可を頂いています。
ほかのスペースが展示・販売であるのに対して、こちらは世界各国のミュージアムの展覧会カタログ、MMMの収蔵するアート関連の資料が閲覧できるスペースとなっています。テーブルで資料をゆっくり見たり、パソコンを使ってマルチメディアソフトの閲覧など、実際にパリや欧州へでかける前に現地のアート情報を調べるのに役に立ちそうですね。
隣接する交詢社通り沿いにはギンザ・グラフィック・ギャラリー(ggg)がありますが、現在改装のため休館中で4月15日にオープンの予定だそうです。こちらはフランスなどの欧州に限らず、グラフィックデザインを発信する場ですが、再開の際にはMMMとも連携した活動も行われるようです。
【MMM(Maison des Musées du Monde)】
所在地:〒104-0061 中央区銀座7‐7‐4(DNP銀座アネックス)
電話:03-3574-2380
営業時間:11:00~19:00(日祝休)
入場料:無料
[之乎者也]
2015年12月29日 16:00
11月1日の日曜日。中央区ではまるごとミュージアム2015が開催され、今年が2回目の「之乎者也(ちーふーちゅ~いぇ)」を含む26名の中央区観光協会特派員は、無料巡回バスに乗務しマイクを片手に街の案内役を務めました。当日は、乗車人数の調整やら運行間隔の時間調整があったり、さらには銀座地区でのデモ行進による大渋滞等様々なハプニングもありましたが、「お客様に中央区の魅力を伝える」というタスクは我々特派員にとっては、普段の研鑽の成果を披露する絶好のチャンスです。
右回りの無料巡回バスに添乗中、浜町バス乗り場に向うため東日本橋のバス乗り場を出発し左に曲がったところで、お客様の一人から「みゆき(御幸)通りって女の人の名前ですか?」と素朴な疑問が寄せられます。窓の外の道路名称案内板には「御幸通り(MIYUKI DORI)」と書かれており、また女性の名前で「みゆき」という名前(字は美幸や美由紀などもありますが)もよく聞きます、人気漫画の主人公にもありましたね!
「御幸」という漢字を辞典で調べると「みゆき、ごこう、ぎょこう」と読み、源氏物語や歴史の教科書に出てくる「行幸」と同じ意味であると載っています。とすれば、こちらの「御幸通り」も天皇陛下がお通りになった通り?ということになりますが、丸の内にある皇居前広場から東京駅前まで結ぶ「行幸(ぎょうこう)通り」であれば、東京駅からお召し列車にご乗車になる時にお通りになったのだろうと察しがつきますが、東日本橋となると「ちょっと皇居からもちょっと遠いけど、どうして?」となります。
理由は東日本橋のバス乗り場横にある「臨幸記念碑」にありました。現在日本橋中学校が建っている場所には、戦前には千代田尋常小学校がありました(明治10年創立、昭和20年廃校)。
【昭和初期の千代田尋常小学校(中央区教育委員会説明版より)】
1923年東京は関東大震災に襲われ、千代田尋常小学校を含む多くの地域が焼け野原になりました。千代田尋常小学校は、その後震災復旧事業による復興小学校として鉄筋コンクリートの不燃化構造で1929年12月に竣工しましたが、翌年の1930年3月に天皇陛下が復興した帝都を巡幸した際、車を学校脇の現在「臨幸記念碑」がある辺りに停め、休憩を兼ねて学校を訪問したということが記念碑に記されており、どうやら、この時の「御幸」が道の名前となったようです。
【臨幸記念碑】
さて、中央区の「MIYUKI DORI」といえば、もう一つ有名な銀座の「みゆき通り」がありますね。こちらは東日本橋のMIYUKI DORIが漢字であるのに対し、平仮名で書かれますが、新橋演舞場と日比谷公園を結び、晴海通りに並行して銀座5~6丁目を貫くこちらの通りは、「みゆき族」の聖地として名を馳せました。東京オリンピックが始まる少し前の1964年、アイビールックをちょっと崩した格好の独自のファッションの若者がたむろし、みゆき通りを闊歩したという社会現象が「みゆき族」と言われました。現在はご覧の通りブランドショップが立ち並ぶ華やかな通りとして人気を集めています。もちろん銀座の「みゆき通り」も「行幸(=御幸)」から来ており、こちらについては、明治天皇が築地にあった海軍兵学校、海軍大学校、浜離宮などへ行幸される際に通られた道ということで「みゆき(御幸)通り」という名前になったようです。
【御幸通り】
所在地:中央区東日本橋2-2から東日本橋2-10まで。
【臨幸記念碑】
所在地:〒103‐0004 中央区東日本橋1-10-1(日本橋中学校 浜町河岸通り側)
【みゆき通り】
所在地:中央区銀座5-1から銀座6-4まで。
[之乎者也]
2015年12月29日 09:00
正月のメインイベント第92回箱根駅伝まであと1週間余りです。鍛冶橋通りには「交通規制のお知らせ」というサインが出て、新年の1月3日にこちらが箱根駅伝のコースとなることを教えてくれます。往路では大手町の読売新聞社本社前からスタート後、千代田区内の日比谷通りをまっすぐに南下しますが、復路1月3日のラストの第10区は中央区内を走ります。このように新春の大きなイベントである箱根駅伝ですが、一番盛り上がる最終区で中央区を走ることに加えて、このレース、実は中央区との縁も深いのです。
現在、スタート/ゴール地点は読売新聞社本社のある大手町となっていますが、戦後から1971年までは読売新聞社の本社が銀座(現在、プランタン銀座のある場所)にあったこともあり、中央区の銀座がまさに箱根駅伝のスタート/ゴールでした。
さらには、今年参加の21チームの中には残念ながら中央区の大学の参加はありませんが、そのうち3校は歴史上中央区と縁の深い大学です。
一つは順天堂大学。こちらは現在は本郷や佐倉(千葉県)などにキャンパスがある大学ですが、1838年(天保9年)薬研堀(現、東日本橋)に佐藤泰然が蘭方医学を学ぶ和田塾を創立したことが起源です。
【薬研堀の「順天堂発祥の地」記念碑】
2校目は中央学院。こちらは現在は我孫子市(千葉県)が本部となっていますが、その起源は1900年に新川に設立された日本橋簡易商業夜学校。その後、日本橋簡易商業夜学校は、中央商業学校、中央商科短期大学となり、短大は2000年に廃止されましたが、その流れを汲むのが今回参加の中央学院大学です。
【新川公園内の「中央商業学校(中央学院)発祥の地」記念碑】
そして3校目は、昨年優勝の青山学院。こちらも現在の本部は渋谷にありますが、その起源は1878年にジュリアス・ソーバーにより築地明石町に設立された耕教学舎。耕教学舎は、その後、麻布の女子小学校(後に明石町に移転して海岸女学校となる)、横浜山手の美會神学校と合併し、東京英学校、東京英和学校を経て青山学院になりました。【明石町の「青山学院記念の地」碑】
1月3日の復路第10区、日比谷通りを上ってきたアンカーのランナーたちは馬場先門(千代田区丸の内)で右折して鍛冶橋通りに入ります。新幹線のガードと外堀通りを越えて中央区に入ると、東京スクエアガーデン前を左折して中央通りに入り、日本橋を渡って常盤橋まで一気に区内を駆け抜けます。実はこのコース17年前までは別のコースでした。平成11年に日本橋架橋88周年、箱根駅伝75回大会を記念して、京橋、日本橋を通るコースに変わりました。この沿線には明治生命館(千代田区丸の内)、三菱一号館美術館(丸の内)、第一生命相互館(京橋)、明治屋(京橋)、高島屋(日本橋)、三越(日本橋室町)、日本銀行(本石町)など、伝統のある美しい建物が多く立ち並び、各校アンカーのデットヒートが予想される最終区ですが絵になるコースです。応援とともに街並みを楽しむのにも良いコースですね!
なお、昨年の箱根駅伝の様子は特派員・江戸旅太郎さんが詳しく写真入りでレポートしています(/archive/2015/01/post-2270.html)。
【順天堂発祥の地 記念碑】
所在地:〒103‐0004 中央区東日本橋2-6-8(薬研堀不動院境内)
【中央商業学校発祥の地 記念碑】
所在地:〒104‐0033 中央区新川1-32(新川公園内)
【青山学院記念の地の碑】
所在地:〒104-0044 中央区明石町6-26(ニチレイ明石町ビル目の前)
[之乎者也]
2015年12月28日 17:00
別の記事(順天堂発祥の地)の取材のため、薬研堀(東日本橋)まで出掛けて行きます。薬研堀は同じ中央区ではあるものの家からちょっと遠いのと地下鉄でも行きにくいこともあり、いままではあまり足を伸ばすことも無かったのですが、今年は強い味方「コミュニティサイクル(CCC)」があるので安心です。
産業会館(A04)のポートに自転車を停めようと横道へ入っていくと、薬研堀不動院のちょっと手前から、提灯が飾られ出店が出て縁日状態になっています。そうです、恒例の納めの歳の市、歳末出庫市(でこいち)が開かれていたのでした。薬研堀の歳の市・歳末出庫市に来るのは、もちろん今回が初めてなのですが、婦人服、靴、カバンなどが売る屋台が目につきます。横山町なども近くにあるし土地柄でしょうか?
香港や台湾などでは、道路から完全に車をシャットアウトして開かれる夜市・縁日も珍しくはないのですが、東京では(単に私が知らないだけなのかもしれませんが)あまり見たこともなく、非常に新鮮でした。そぞろ歩きも楽しいです。3色の提灯がきれいに飾られているので見ていると「大本山 川崎大師」と書いてあります。薬研堀不動院は真言宗のお寺なので弘法大師さんの系統なのだろうなと思いながら調べてみると、こちらは「真言宗智山派大本山川崎大師平間寺」の東京別院で、目黒不動と目白不動とともに江戸三大不動のひとつとして知られるようです。
にわか勉強ですのでこれ以上は化けの皮が剥げてしまいますので、詳細は、地元の特派員・橘さんの昨年12月の記事「薬研堀 歳の市と大出庫市(/archive/2014/12/post-2264.html)」をご覧下さい。
「何故今の時期に歳の市が開かれるのか(納めの歳の市の名前の由来)」とか「何故、こちらで衣料品や靴などが売っているのか」など、丁寧に説明がされています。
こちらの納めの歳の市、今年も29日(火)までやっています。
【薬研堀不動院 納めの歳の市】
会場:東日本橋二丁目(薬研堀不動院周辺)
期日:12月27日(日)~29日(火)
開催時間:11:00~19:00
[之乎者也]
2015年12月28日 12:00
もういくつ寝るとお正月。。。
ブログ読者の皆さん、そろそろ年賀状の準備は終わりましたか?来年は申年ですね。「申」には「果実が成熟し明らかになる」という意味があるらしく、来年は「努力の成果が実る年」のようです。前向きに頑張って行きたいですね。
さて、ちょうど家族で京橋に夕食に行く前だったので、そんなことを話しながらレストラン近くの郵便局に無地インクジェットの年賀状を買いに行きます。
【京橋にある京橋通郵便局】
郵便局には同じように年賀状を求める人がたくさんでしたので順番を待っていると、例によって「質問小僧」の息子から素朴な質問が出されます。
「この郵便局って京橋通(きょうばしとおり)という名前だけど、この前にウチに不在配達票が入っていて、伯母さんからの小包を受け取りに行ったのは京橋郵便局だったよね。京橋にある『京橋通郵便局』というのはわかるけど、どうして(晴海通りの)あっちは『築地郵便局』ではなくて『京橋郵便局』なの?」
~~京橋通郵便局は、中央通りを挟んで東京スクエアガーデン向かい側にある道を少し昭和通り方面へ入ったところにある郵便局です。こちらの通りは鍛冶橋通りと京橋竹河岸通りの間の通りで、このあたりはむかし具足町、南伝馬町などと言ったようですが、現在は特に通りの名前はありません~~
「そうだね、こちらの京橋通郵便局は、京橋にある郵便局くらいの意味なんだろうね。目の前の通りの名前が「京橋通り」とでも言うのかと思ったけど特に通りに名前も付いていないみたいだしね。」【goo地図 明治時代の京橋付近】⇒中央にある京橋の少し北に「京橋郵便局(現在の京橋通郵便局の前身?)」が見える。
~~日本郵便総務部に京橋通郵便局の由来について伺いました。京橋通郵便局は昭和の初め(昭和4年?)に設立されたとのことでしたが、名前の由来は残念ながら郵便局でも判らないとのことでした。一方、明治時代の古地図(goo地図 古地図)を見ると、京橋の北詰あたりに「京橋郵便局」というやや小さめの郵便局があったことが見て取れます。あくまでも推定ですが、こちらの郵便局ももとは京橋郵便局としてスタートしたものの、2つ同じ名前の郵便局があるのも紛らわしいので、昭和の初めに(京橋のそばにある)「京橋通郵便局」と改名したということでないでしょうか(この点についてご存知の方があればご教示頂ければ有難いですし、私も質問小僧と一緒に更に調べてみたいと思います)。~~【晴海通り沿いの京橋郵便局】
「。。。『京橋郵便局』というのは、昔中央区が京橋区と日本橋区で別々の区だった時代の『京橋区』の郵便局という意味だったんじゃないかな。こちらの郵便局は、現在でも集配達も行う大きめの郵便局だけど、昔からこの地域(旧京橋区全体)の中心となる郵便局だから京橋郵便局という名前になったんじゃないのかな。」
~~明治時代の古地図(goo地図 古地図)を見ると、築地4丁目の現在地に「京橋郵便局」の名前が見えます。明治初期の地図(別の内務省などの地図)を見ると「海軍省属地」、「農商労省用地」などで未だ郵便局にはなっていないことから、明治後期(明治39年(1906年)?)に京橋郵便局が設置されたことが推定されます。~~
【goo地図 明治時代の築地付近】⇒左中央あたりに「京橋郵便局」が見える。右下のピンク色の土地は築地本願寺、赤線は都電。
「へぇ~、京橋区ってなんかかっこ良い名前だね!」
「今の中央区ができたのは1947年で、京橋区と日本橋区が一緒になって中央区ができたのは知ってるよね。今は東京23区と言うけれど、明治時代には50区があった時代、100区(正確には、11大区と103小区があり大区小区と呼ばれた)の時代、15区の時代、35区の時代と区の数も大きく変わっていったんだ。京橋区と中央区は1878年に15区になった時代に誕生したんだ。」
「ちなみに、中央区は日本の郵便の歴史とも縁が深いのは知っているかい?日本で初めて郵便局ができたのは日本橋だし、今は総務省の外局で郵政事業庁と云うのだけれど、そのもととなった逓信省は明治時代に木挽町(現在の銀座中学校、銀座郵便局あたり)にできたんだよ。」
ちょうど、ここで待っていた順番が来たので話は終わりましたが、息子も中央区と郵便の歴史について興味を持った様子。冬休みを使って京橋図書館や押上(墨田区)の郵政博物館などへ行っていろいろ調べてみるようです。
【京橋通郵便局】
所在地:〒104‐0031 中央区京橋3‐6‐3
電話:03‐3561‐1086
営業時間:9:00~18:00(土日祝休)
【京橋郵便局】
所在地:〒104‐8799 中央区築地4‐2‐2
電話:03‐5546‐1068
営業時間:9:00~19:00(土は~17:00、日祝は~12:30)