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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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最近のブログ記事

国登録有形文化財(建造物)(2)

[CAM] 2016年1月31日 18:00

よし梅芳町亭

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昭和前/1927頃

木造2階建、瓦葺、建築面積81㎡

1棟

東京都中央区日本橋人形町1-5-2

登録年月日:20020821

 

震災復興期に建てられた木造総2階建の住宅で,桁行5間梁間4間半,切妻造,平入である。外壁はモルタル塗に変更されたが,内部は天井板や板欄間など化粧に上質の材を用い,床や下地窓など数寄屋風の意匠も整い,昭和初期の和風の水準をよく示している。(文化遺産オンラインから)

 

江戸屋店舗兼住宅

IMG_2642.JPGIMG_2643.JPGIMG_2644.JPG大正/1924

木造2階建、鋼板葺、建築面積94㎡

1棟

東京都中央区日本橋大伝馬町1-5

登録年月日:20140425

 

 通りに面して建つ、木造二階建、人造石洗出し仕上げのいわゆる看板建築で、正面意匠は刷毛を表す。間口六・二メートル奥行一九・六メートルで、一階は店舗、事務所、倉庫、二階は居室及び倉庫とする。内外共に改修も少なく、建具や金庫も当初のものを残す。(文化遺産オンラインから)

 

 大野屋総本店店舗

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大正/1924頃/1955頃改修

木造2階建、瓦葺、建築面積27㎡

1棟

東京都中央区新富2-6-13

登録年月日:20140425

 

 角地に北面して建つ。木造二階建、切妻造桟瓦葺で、重厚な甍棟を積む。一階は店舗とし、二階で足袋製造を行う。上下階とも軒が高く、二階は出桁造とする。外壁は簓子下見板張で二階窓に手摺を設ける。震災直後に建てられた、当地に残る数少ない戦前の町家建築。(文化遺産オンラインから)

 

 

 

国登録有形文化財(建造物)(1)

[CAM] 2016年1月31日 12:00

ハリオグラスビル(HARIOビル)

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昭和前/1932

登録年月日:20030701

ハリオテック株式会社

 

北西角の角切り部に営業室玄関を設け,北及び西面に溝彫を施したコリント式大オーダーを廻す。銀行支店建築の好例で,設計は川崎貯蓄銀行建築課,施工は竹中工務店。現在は耐熱ガラス食器会社のショールームを兼ねた本社ビルとして活用されている。(文化遺産オンラインから)

 

玉置文治郎ビル 

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昭和前/1929

鉄筋コンクリート造地上4階地下1階建、建築面積97㎡

1棟

東京都中央区東日本橋2-16-8

登録年月日:20050209

 

靖国通り沿いに北面して建つ,鉄筋コンクリート造地上4階地下1階建の薬品問屋店舗兼住宅。震災復興商業ビルのひとつで,筋面タイルやテラコッタを用い,幾何学形を装飾に取り込んだ外観は,昭和初期における建築意匠の特徴をよく伝える。設計は森山松之助。

(文化遺産オンラインから)

 

 

問屋街と不動院コース(4)

[CAM] 2016年1月30日 18:00

両国橋

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「両国橋・両国広小路・両国川開き」についての説明版

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薬研堀不動院

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川崎大師の東京別院・薬研堀不動院は、古くから目黒、目白と並び江戸三大不動として知られ『江戸名所図会』をはじめ多くの文献に紹介されています。

御本尊(不動明王)は、崇徳天皇の代、保延3年(1137)に真言宗中興の祖と仰がれる興教大師・覚鑁(かくばん)上人が、43歳の厄年を無事にすまされた御礼として一刀三礼敬刻され、紀州・根来寺(ねごろじ)に安置されたものです。

その後、天正13年(1585)、豊臣秀吉勢の兵火に遭った際、根来寺の大印僧都(だいいんそうず)はそのご尊像を守護して葛篭(つづら)に納め、それを背負ってはるばる東国に下りました。そして、隅田川のほとりに有縁の霊地をさだめ、そこに堂宇を建立しました。これが現在の薬研堀不動院のはじまりです。

その後、明治25年(1892)より川崎大師の東京別院となり現在に至っています。また、順天堂の学祖と仰がれている佐藤泰然(たいぜん)が、天保9年(1838)に和蘭(オランダ)医学塾を開講した場所でもあります。

薬研堀不動院は講談とゆかりが深く、昭和57年5月に一龍斎貞花先生による第1回奉納講談「山内一豊の妻」がおこなわれて以来、毎月28日のお不動さまのご縁日には奉納講談がおこなわれています。 (「川崎大師」サイトから)

 

順天堂発祥の地

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天保九年(西暦1838年)
順天堂始祖佐藤泰然この地に
和蘭醫學塾を開く

昭和五十七年四月十日
学校法人 順天堂

 

講談発祥記念之碑

IMG_2627.JPG由来の記
元禄の昔、赤松清左衛門は浅草見附辺の町辻で太平記を講じ、江戸講釈の発祥となった。これがのちに「太平記講釈場」に発展して長く庶民に親しまれ、安政年間「太平記場起源之碑」が建てられた。この碑はその後、当不動院境内に移され、大正十二年の関東大震災まで名物となっていた。
この度、当不動院と講談協会との因縁により、真言宗宗祖弘法大師一千百五十年御遠忌を記念し、依って茲に新たに建碑をなすものである。
大僧正 高橋隆天撰書
弘法大師一千百五十年御遠忌記念

大本山川崎大師平間寺
昭和五十九年秋吉祥
東京別院薬研掘不動院
講談協会       建之  

 

納めの歳の市之碑

IMG_2628.JPG碑陰の記
遠く江戸時代の中頃より江戸の街では十二月に入ると各地で歳の市が立った
歳の市とは門松 〆縄飾り 羽子板等の正月用品を売る市を云う かつて東京の歳の市は十二月十四日 十五日の深川八幡に始まり 浅草観音 神田明神 芝の愛宕神社 平川湯島の両天神を廻って最後は二十八日の薬研掘不動尊で終り 特にこの市を薬研堀不動尊納めの歳の市と言われた 初めの頃は梅の盆栽が売られ梅の市とも呼んでいた 戦前は何十軒もの羽子板屋が不動院門前に並び横町には 神佛具 まな板 ざる 箒等の迎春用品の露店が出店し 当時の千代田小学校の通りには「かさ市」が立ち 〆飾り 門松 海老 こんぶ等が 威勢よく売られ 身動き出来ぬ位の人出に下町情緒豊かな歳末風景がみられた
先の大戦の頃は戦火の拡大と共に一時中断してしまい戦後なんとか復活させたものの時勢に合わずさびれる一方であった
時移りようやく昭和四十年地元の町会商店会の有志が是非とも江戸以来の伝統行事下町の風物詩をしっかりと後世に残すべきと「薬研堀不動尊 歳の市保存会」を組織して 同時に近隣問屋街とも協賛し 衣料品 日用雑貨等を市価の半額で販売する「大出庫市」を併催することとなり苦心経営の末 最近になってようやく往時の賑わいを取り戻すことが出来た 有り難いことです
又 想いめぐらせば戦前戦後を通じて 本院の大本山である川崎大師平間寺の厚いご加護を一貫して賜ったことも復興への銘記すべき事柄である
本年は 大出庫市を併催して 丁度 三十年の節目に当たるので 歳の市復活に情熱を燃やした先人達を偲び 此の町の今日までの 歳の市への過ぎ越し方をこの碑に留め一つの証とする
平成八年四月十五日
薬研堀不動尊
歳の市保存会

 

 

東陽院・十返舎一九の墓と住吉神社

[みのり] 2016年1月28日 14:00

こんにちは、みのりです。

今回は、勝どきの方に行ってみました

 

勝どき四丁目には、十返舎一九のお墓がある東陽院と住吉神社があります。

 

東陽院は、本寺浅草の通称新寺町「浅草永住町」(現在の台東区元浅草二丁目)善立寺内の子院(清正公堂)として有名であったが、大正12年(1923)関東大震災で焼失し、大正15年(1926)5月現在の場所に移転した。(ちなみに、本寺は足立区梅田一丁目に移転した)。昭和2年(1927)木道本堂、昭和5年(1930)鉄筋コンクリート造納骨堂、昭和41年(1966)木造庫裡を建築した。

十返舎一九の墓は、東陽院納骨堂(屋内墓地)にあります。東陽院の入口にある一九の碑「十返舎一九墓所」(徳川夢声筆)は、昭和33年(1958)2月、東京映画会社が「弥次喜多道中記」の制作にあたって建てたものです。

「東海道中膝栗毛」は、主人公の栃面屋弥次郎兵衛と喜多八が日本橋から東海道を旅し、伊勢参宮の後、京都にたどりつく旅行記の形式をとる物語であり、続編に続編を重ね、一九の代表作となった。一九は、天保2年(1832)に没し東陽院に埋葬されました。

 

住吉神社は、同じ勝どき四丁目にあります。

住吉神社の大祭の時の御旅所で、月島と勝どきと晴海の埋め立てが進み、氏子区域の拡大に伴い、遥拝所として御旅所ができました。昭和5年(1930)現・勝どき二丁目に、その後昭和59年(1984)、勝どき四丁目に移転しました。新島橋の近くです。

 

朝潮小橋(自転車と歩行者専用の橋、平成15年(2003)3月に竣工)を超えると、「ほっとプラザはるみ」(温水プールや夜景を楽しめ、屋外ジャクジーやトレーニングエリア、最新のマシンが揃えてある)に出ることができます。また、同じ晴海五丁目を海の方にまっすぐ歩いていくと晴海ふ頭公園や晴海客船ターミナルの方にも行けます。

 

<参照>

【十返舎一九の墓】

中央区教育委員会の掲示板

『歩いてわかる中央区ものしり百科』監修中央区観光検定委員会

『中央区の文化財(四) 有形民俗文化財 信仰』編集社会教育課文化係

【住吉神社】

家康公四百年住吉神社大祭 住吉神社三百七十年 二号地 月睦

住吉神社掲示板(御旅所に掲示されています)

 

 

問屋街と不動院コース(3)

[CAM] 2016年1月27日 18:00

蔦屋重三郎「耕書堂」跡

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蔦屋重三郎  1750‐97(寛延3‐寛政9)

つたやじゅうざぶろう

須原屋市兵衛と並ぶ江戸時代の代表的な出版業者。蔦重と俗称される。江戸吉原に生まれ,喜多川氏の養子となる。初め吉原大門外の五十間道に店を開き,細見(さいけん)(遊郭案内)を売っていたが,1774年(安永3)に初めて版元として《一目千本花すまひ》(北尾重政画)を出した。その後,日本橋通油町に店を構え,いわゆる田沼時代の開放的な世情を背景とする江戸出版業の隆盛の一翼を担う。商才は鋭敏,気骨も充困した人物で,多くの文人墨客,戯作者,絵師と交友をもち,世話をした。作家では大田南畝,恋川春町,山東京伝,曲亭馬琴など,浮世絵師では北尾重政,鍬形腿斎,喜多川歌麿,葛飾北斎,東洲斎写楽などと組んで,黄表紙,洒落本,狂歌絵本,浮世絵版画の評判作を相次いで出版し,天明後期から寛政中期の江戸の文化界をまさに席巻した。寛政改革に伴う出版取締令でとがめをうけ,財産の半分を没収されるが,その反骨精神は没するまで続いた。

                        (狩野 博幸・平凡社世界大百科)

 

郡代屋敷跡

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 所在地 中央区日本橋馬喰町二丁目付近
江戸時代に、関東一円及び東海方面など、各地にあった幕府の直轄地(天領)の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった跡です。
関東郡代は、徳川家康が関東に入国した時に、伊奈忠次が代官頭に任命され、のちに関東郡代と呼ばれるようになり、伊奈氏が十二代にわたって世襲しました。その役宅は初め、江戸城の常盤橋御門内にありましたが、明暦の大火(1657)で焼失し、この地に移りました。
伊奈忠尊が罪を得て失脚した寛政四年(1792)以後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねてここに居住しました。
文化三年(1806)に焼失した後、代官持ちとなって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。
平成六年三月
中央区教育委員会

 

両国広小路記念碑

IMG_2619.JPG明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際このあたりで逃げ場を失って焼死するものが多数出た このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた 隅田川は当時武蔵下総両国の境をなしていた また延焼防止のため橋に向う沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした やがてこれが広小路となり 江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した 明治維新のころここには新柳町元柳町横山町吉川町米沢町薬研堀町若松町があったが 昭和7年合併して日本橋両国となり現在に及んだ 維新後百年を経た今日 まちの近代化はめざましく 広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが 300年前火除け地が設定され これが広小路に発展して行った事跡のなかには 先人の英知と努力が偲ばれてまことに意義深いものがある ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため 町会の総意により この碑を建てた
昭和44年11月3日
中央区日本橋両国町会 建碑
 

柳橋

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所在地 中央区東日本橋二丁目
    台東区柳橋一丁目 (神田川)
柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡舟で往き来していましたが、不便なので元禄十年(1697)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌十一年に完成しました。

その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、"柳橋川へ蒲団をほうり込み"と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。
明治二十年(1887)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二年(1923)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ、ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和四年(一九二九)に完成しました。
完成から七十余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成三年に整備し、同十一年に区民有形文化財に登録されています。
平成十四年三月
中央区教育委員会

 

 

 

問屋街と不動院コース(2)

[CAM] 2016年1月27日 12:00

銅鐘石町時の鐘

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 江戸城下の人々に時刻を知らせた時の鐘です。本石町三丁目(現、日本橋室町四丁目)に二代秀忠の時代(1605~1623)に、時の鐘が設置されたといわれています。この鐘は宝永8年(1711)に改鋳されたもので明治初期まで使用され、昭和5年(1930)に現在地に移転しました。
中央区教育委員会

 

石時町時の鐘宝永時鐘
工第四号  指定書
  石町時の鐘一口
所在地 中央区日本橋小伝馬町    所有者 東京都中央区役所
銅鐘   高さ一・七米口径九三糎    宝永辛卯四月推名伊予藤原重休
右を都重宝に指定する。
     昭和二十八年十一月三日   東京都教育委員会

 
江戸時代最初の時の鐘で、二代将軍秀忠の時は江戸城内の西の丸でついていたが鐘楼堂が御座の間近くで差障りがある為、太鼓にかえて鐘は日本橋石町に鐘楼堂を造って納めたのが起源で、明暦三年、寛文六年、延宝七年と三度も火災にあい破損したので、その後身として宝永八年に鋳造されたのがこの宝永時鐘である。音色は黄渉調長久の音という。享保十年旧本石町三丁目北側の新道の間口十二間奥行十九間三尺の土地に鐘楼堂を建て、時銭として一軒につき一ヶ月永楽銭一文ずつ当鐚で四文ずつを商業地区の大町小町横町計四百十ヶ町から集めて維持していた。鐘役は最初から代々辻源七が当たっていたので、辻の鐘とも呼ばれていた。鐘楼下では俳人蕪村が夜半亭と名づけて句会を催して深川の芭蕉庵と共に有名であった。当時江戸には日本橋石町、浅草、本所、横川町、上野芝切通、市ヶ谷八幡、目黒不動、赤坂田町、四谷天竜寺の九ヶ所に時鐘があったが石町時鐘はその最古のものである。石町鐘楼堂から二丁程の所に伝馬町獄があった。囚人たちは種々な思いをこめてこの鐘の音を聞いたことであろうし、処刑もこの鐘の音を合図に執行されたが処刑者の延命を祈るかのように送れたこともあって、一名情けの鐘ともいゝ伝えられている。幕末時鐘廃止後は石町松沢家の秘蔵となっていたが、十思後援会が寄進を受けて昭和五年九月十思公園に宝永時鐘々楼を建設し当時の市長永田秀次郎殿で初撞式を挙行した後東京に寄進した。

 

 

大安楽寺

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伝馬町牢屋敷跡

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都旧跡 伝馬町牢屋敷跡
所在 中央区日本橋小伝馬町一町目五番地先
指定 昭和二十九年十一月三日
江戸の牢屋敷は慶長年間(一五九六~一六一五)に、常盤橋外からこの小伝馬町に移転した。代々大番衆の石戸帯刀が牢屋敷預りに任命されており、管理していた。そして、明治八年(一八七五)五月廃止されるまで存続していたものである。
「御府内備考」の記録によれば、その規模の広大であったことがわかる。すなわち、面積は二、六一八坪(八六三九.四平方メートル)あり、さらに、これの敷地の四方を堀でめぐらしていた。南西部に表門があった。獄舎は、揚座敷、揚屋、大牢および女牢部屋に分かれ、明暦三年(一六五七)の収容因人は一三〇人であり、安政大獄(一八五九)には吉田松陰ら九十余名が収容されたこともある。
昭和四十四年十月一日 建設
東京都教育委員会

 

 

江戸伝馬町牢屋敷跡
史第二十九号  指定書
  伝馬町牢屋敷跡
所在地 中央区日本橋小伝馬町一の五先    所有者 東京都(中央区管理)
地積   一三・四五坪(二二尺四方)
右を都史蹟に指定する。
     昭和二十九年十一月三日   東京都教育委員会
伝馬町牢は慶長年間、常盤橋際から移って明治八年市ヶ谷囚獄が出来るまで約二百七十年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数十万人を数えたといわれる。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。当時は敷地総面積二六一八坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。牢舎は揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があって、揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみであった。今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されてある。牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御□(木+豕)場死刑場役は有名な山田浅右エ門、それに同心七十八名、獄丁四十六名、外に南北両町奉行から与力一人月番で牢屋敷廻り吟味に当たったという。伝馬町獄として未曾有の大混乱を呈した安政五年九月から同六年十二月までの一年三ヶ月の期間が即ち安政の大獄で吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等五十余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。その後もこゝで尊い血を流したものは前者と合わせて九十六士に及ぶという。これ等愛国不尽忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ「わが最期の時の知らせである」と幾度となく覚悟した事であろう。尚村雲別院境内には勤王志士九十六名の祠と木碑が建てられてある。
          昭和二十九年十一月
  江戸史跡保存協賛会

 

杵屋勝三郎歴代記念碑

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松陰先生終焉之地

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(裏面)
萩城址の東麓
宮崎八幡宮の附近より
掘り出したる石
萩市有志者寄贈

句碑
 身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも
  留置まし 大和魂

 

 

吉田松陰先生終焉之地
吉田松陰先生は天保元年(西暦一八三〇年)八月四日長州萩の東郊松本村で杉家の二男として生まれた。幼い頃に吉田家をついだ。成人しての名を寅次郎という。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったので、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究めて、子弟の教育につとめた偉人である。安政元年三月師の佐久間象山のすゝめで海外渡航を計画し、下田から米艦に便乗しようとして失敗、下田の獄につながれたが伝馬町獄送りとなって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが有名な次の歌である。「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」同年九月まで約六ヶ月間伝馬町獄に留置されていたが、国元萩に謹慎の身となって帰って後の松下村塾での教育が最も偉大な事業であろう。薫陶を受けた中から有爵者六名、贈位者十七名、有位者十四名等多くの著名の士が出て中でも伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等は、明治維新の大業に勲功のあった人物である。わが国歴史の上での三大変革といえば大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新の三であるが、その明治維新にこれら松下村塾生の動きが大きな力となったことを深く考えたいのである。後松陰は安政の大獄に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政六年七月九日江戸の長州藩邸から初めて評定所に召出されたが、その時「まち得たる時は今とて武蔵野よいさましくも鳴くくつわ虫かな」と決心を歌にのべている。しかし幕府の役人を動かすことが出来ず、その後の三回の取調べで死刑を覚悟した十月二十二日に父、叔父、兄へ宛て永訣の書を送っているがその中にあるのが「親思ふ心にまさる親ごころけふのおとづれ何と聞くらん」の一首である。また処刑の時の近づいたのを知って十月廿五日より廿六日の黄昏までかゝって書きあげたのが留魂録でその冒頭に「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとゞめ置かまし大和魂」十月念五日 二十一回猛士 と記してある。松陰はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に托したが二十年後当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っている留魂録である。それによって当時の法廷の模様、訊問応答の次第、獄中の志士の消息等がわかり、自己の心境と塾生の行くべき道を示したもので崇高な松陰魂の指南書ともいえるものである。安政六年十月二十七日は処刑の日であった。揚屋を出る松陰は次の詩を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」継いで刑場では「身はたとひ」の歌を朗誦して従容として刑についた。行年三十歳明治廿二年二月十一日正四位を贈位され昭和十四年六月十思小学校々庭に留魂碑が建設された。

 

 

 

 

 
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