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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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◆中央区 ここに歴史あり(52) 木挽町芝居 ~江戸三座のひとつ「森田座」跡

[巻渕彰/写楽さい] 2013年4月16日 14:00

江戸歌舞伎の発祥地であり、隆盛を極めた中央区には、歌舞伎ゆかりの史跡が残る。そのひとつが木挽町芝居町跡で、江戸期、山村座や河原崎座そして森田座が櫓を上げていた場所である。新装なって話題の歌舞伎座も旧木挽町であるが、そこからやや離れたところに江戸三座のうち森田座が芝居人気を集めていた。

 

0913_52_130416moritaza.jpg現在地は銀座六丁目の昭和通り西側付近(写真上)で、このほど説明板(写真中央)が設置された。あらためて今日まで継承されている歌舞伎の歴史を再認識する機会となっている。

 

江戸歌舞伎の発祥は寛永元年(1624)、中橋南地での「猿若座」(のちの「中村座」)がはじめとされ、その後、堺町に移転する。つづいて「市村座」が葺屋町で櫓を上げた。両町は二丁町芝居町(現・人形町)と呼ばれた。

 

一方、江戸期の木挽町五丁目に明暦の大火後の万治3年(1660)、森田勘弥を座元に芝居小屋「森田座」が櫓を上げた。この3つが江戸三座で、官許の芝居小屋であった。

 

森田座の南隣、当時の木挽町六丁目には寛永19年(1642)開場とされる「山村座」芝居小屋がすでにあった。一時はこの座を含めて江戸四座と呼ばれた。このつぎに「河原崎座」も建つが、やがて廃座になる。山村座は例の「江島生島事件」で正徳4年(1714)廃座となった。

 

木挽町と堺町・葺屋町の江戸三座は、天保の改革で猿若町に移転させられるまでの約200年ほど、江戸市中の歌舞伎人気で栄えた。現在の中央区が江戸期から歌舞伎興行の中心地であったといえる。

 

その後の森田座は幕末期に守田座と改称し、明治5年(1872)に新富町で再興した。のち「新富座」(写真下)と座名を変える。明治22年(1889)開業の歌舞伎座とともに、両座は目と鼻の先で歌舞伎興行を競った。新富座は関東大震災で被災・廃座になる。現在地は京橋税務署の場所である。@巻渕彰

 

 

 

中央区観光協会加盟店紹介 ハマヤ

[銀造] 2013年4月16日 08:51

富貴豆と佃煮で有名な、人形町の名店ハマヤさん。水天宮の交差点から明治座の方へ向かって200mほどのところにあります。

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今日は、その評判の富貴豆を買いにやってきました。

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評判どおりの美味しい富貴豆です。 ご飯に、お茶請けにも相性が良いですよ。 人形町にお出かけの際には、是非お求め下さい。

住所:中央区日本橋人形町2-15-13電話:03-3668-1886

 

 

 

 

「新」歌舞伎座 あれこれ

[滅紫] 2013年4月15日 18:12

「もう行きました?」というのが2日初日以来の仲間内の挨拶に。かくいう私は同行者のスケジュール調整に手間取り、やれやれの後は今度は「何を着るか?」。これも芝居見物の楽しみのひとつとはいうものの・・・。というわけで漸く本日、先ずは第3部、3人連れで2列目のまん真ん中に収まりました。

正面玄関を入ると眼を惹くのは鳳凰をデザインした新しい絨毯。階段が減ったせいかロビーが広々と見えます。流石に杮葺落興行の最初の月、和服姿の方が一際多い。

100_1038.JPG開場を見ずに亡くなった芝居好きの丸谷才一氏が「新しい歌舞伎座には要望がいくつかあるがその一つは是非ロビーを広くしてご婦人方の着物姿が映える様にしてほしい。幕間に着飾ったご婦人方をみるのも芝居の楽しみのひとつ」と書いていらっしゃたのを思い出しました。

松竹さんの案内によると座席の幅が3cm、前後のピッチが6cm広くなったとのこと。早速感じを確かめてみることに。

100_1032.JPG確かに。確かに広いでしょう!これだと他の方の移動の際、立ち上がらなくてもよさそうです。隣の方の侵食する腕に悩まされることも少なくなるかも。・・・

次に今までのイアホンガイドの他に「字幕ガイド」が出来たというので、試してみることに。4月中は特別料金でレンタル料500円、「解説チャンネル」と「台本チャンネル」があり

「台本チャンネル」の方は役者さんのせりふと義太夫さんの語りの部分も表示されます。お馴染みの演目でも「え!こんな詞章だったのか!」と実は今日吃驚しました。(無知だった!だけです)そのうち英語バージョンも出来るとのこと。100_1037.JPG

歌舞伎グッズやお土産の売り場は凄い混雑。幕間が1回しかないので仕方ないかも知れません。新しい商品がたくさん増えているようなので次回の楽しみに。そうそう嬉しいことにトイレの数も飛躍的に増えましたよ。

さて、肝心のお芝居ですが、「盛綱陣屋」の子役、金太郎くんと大河くんがとても可愛く、かつしっかり演じていて、「初お目見え」の時からあっという間の成長振りです。「勧進帳」の四天王は2人のお父さんである染五郎さんと松緑さん、それに左団次さんと勘九郎さんという豪華版。杮葺落公演ならではの贅沢さです。4月公演のチケットは完売のようです。6月までは3部制、「見逃せない」演目ばかりでお小遣いを松竹さんに貢ぐ日々が続くことに。期せずして自然なダイエットが出来るという効果もあるかもですが。・・舞台との距離が以前より近くなったような気がしたのですが「寸法はすっかり建替前と同じ」ということなので新・舞台にかける役者さん方の熱気が伝わってきたのかも知れません。1年続く杮葺落公演是非ご覧ください。

 

 

「書」の美術館〔銀座金澤翔子美術館〕

[ジミニー☆クリケット] 2013年4月15日 08:25

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銀座マロニエ通りを、昭和通りから築地警察署に向かって歩くと、左手にナチュラルローソンのお店があり、そのビルの地下1階に「銀座金澤翔子美術館」はあります。今年2月にオープンした新しい美術館です。常設で、今後数ヶ月毎に展示物の入れ替えを行うそうです。

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テレビでは何度か金澤さんが揮毫されるのを見たことがありましたが、実際に書かれたものを見ると圧倒されます。墨痕淋漓というのか、筆を運んだその勢いが、とても生き生きとしてみずみずしく、その漢字自体が持っている意味と相まって迫ってきます。

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当初、「美術館」という名称に、いまいち違和感があったのですが、金澤さんの書を拝見し、それが力強く見る者に訴えかけてくる、美しい芸術作品であるとわかりました。元気がもらえます!

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「銀座金澤翔子美術館」のHPは ⇒ http://www.shokokanazawa.net/

 

 

 

中央区の不思議な(珍)百景

[さとけん] 2013年4月11日 14:00

特派員2年目。まめに投稿しようと思います。


さくら並木の続く通りに前から不思議に思っていたものがあります。

新大橋通りを背にして、昭和通り方向へ歩いていくと、その先に高島屋がある通りです。


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ビルの前にあるポンプです。何も説明書きもなく、ただ、「この水は飲めません」

と札がかかっているだけです。でもポンプからは水は出ません。

何とも不思議な光景です。いわれをご存じな方いらっしゃれば教えてください。


今年は意外な光景をテーマに中央区の魅力を発信していこうと思います。

 

 

◆中央区 ここに歴史あり(51) 京橋川「竹河岸」と「大根河岸」

[巻渕彰/写楽さい] 2013年4月11日 09:00

今は埋め立てられた京橋川に沿った北側の道路に、このほど「京橋竹河岸通り」(写真上)と「京橋大根河岸通り」(写真下)の中央区道路愛称が付けられた。場所は京橋三丁目の中央通りを挟んで、警察博物館から昭和通りまでの東側が「竹河岸通り」、反対の西側は外堀通りまでが「大根河岸通り」だ。名前のとおり、それぞれ河岸地であった。

                                                      

0913_51_130406takegashi.jpg江戸期、河岸地は物資の荷揚場であり、保管・貯蔵所の役割を果たした。幕府直轄地で、町人は上納金を払ってそこを利用していたようだ。日本橋の魚河岸をはじめ塩河岸・西河岸・行徳河岸など区内には数多くの河岸地が史跡として残っている。現在の中央区が舟運の中心地であり、集積地であったことがわかる。

 

京橋川は昭和30年後半から埋め立てられ、首都高速会社線となっている。その北東側が「竹河岸」で、広重「名所江戸百景」の「京橋竹がし」が知られている。江戸近郊から竹材が運ばれたことによる。明治期なっても竹問屋があったことがスケッチされている。現在はその面影はまったくないが、「竹河岸ビル」という建物は往時を語ろうとしているかのようだ。

 

京橋川の北西側が「大根河岸」で、現在は「江戸歌舞伎発祥の地」碑や「京橋大根河岸青物市場跡」碑が建っているので分かりやすい。江戸初期、この辺りで野菜などの立ち売りがはじまり、やがて大根河岸と呼ばれるようになり、市場化していったという。関東大震災後の昭和10年(1935)に築地市場へ移転した。@巻渕彰