中央区観光協会オフィシャルブログ

中央区観光協会特派員ブログ

中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

執筆者一覧

>>このブログについて

最近のブログ記事

2015年「べったら市」(寶田恵比壽神社)

[CAM] 2015年10月25日 18:00

  1019日、「べったら市」をのぞいてきました。

 

『ものしり百科』168頁では、江戸時代、大伝馬町にある寶田恵比壽神社の門前では1020日に恵比寿講が開かれる習わしがあった。・・・前日の19日には、供え物を売る市が立った。・・・いつの頃か、市では、大根の漬物が売られはじめた。・・・・店側も「べったら、べったら」と威勢のよいかけ声で客を呼び込んだため、恵比寿講前日の市は「べったら市」と呼ばれるようになった、と説明しています。

 

IMG_1913.JPG

IMG_1918.JPG

IMG_1922.JPG

 神輿も出ていました。

 

IMG_1912.JPG

IMG_1925.JPG

 

 

10月19日「べったら市」(椙森神社)

[CAM] 2015年10月25日 18:00

『ものしり百科』168頁では、開催日は通例どおり1019202日間で、寶田恵比壽神社から椙森神社にかかる一帯には、べったら漬けを販売する露店をはじめ、数百軒にも及ぶ露店が軒を連ねる、と説明していますが、まさしく、寶田恵比壽神社から椙森神社にかけて全く切れ目がなく、露店の列が続いていました。

 

IMG_1936.JPG

IMG_1934.JPG

IMG_1932.JPGIMG_1929.JPG

IMG_1926.JPG

 

 

 

日本橋茅場町百景

[見たい行きたい伝え隊] 2015年10月25日 14:00

現在、このパンフレットは

「ここから江戸力!日本橋百景」として、東西線茅場町の証券会館(東京証券信用組合)及び、日比谷線茅場町近くの郵便局、全国中小企業会館やスマイルホテル 等々に設置されています。

 

そして見ているだけで癒される、上野啓太氏によるやさしく親しみのある水彩画のハガキ等々は、大成印刷株式会社(日本橋マーチング委員会)やアンザイ文具店さん、及びホテルヴィラフォンテーヌ東京八丁堀、相鉄フレッサインにて取扱いされているとのことでした。

 

"日本橋マーチング委員会"とは、地元の印刷会社の有志で結成され、「マーチング」とは「街ing」を表した造語で、

街+ing=街の進行形、すなわち、街を元気にかえていく、活気ある街づくりを目指しています。と、パンフレットには記されていました。

 

残念ながら、銀行ロビーにおいての水彩画展示は期間限定により終了してしまいましたが、証券会館の自動ドアから一歩入った左側のカベに見ることができます。

ご興味ある方は是非どうぞ

 

 

諸井こんにゃく店(諸井食品有限会社)

[オールドローズ] 2015年10月25日 09:00

10月でもまだ暑い日、築地にある諸井こんにゃく店の前を通りました。

 

ある男性が、袋に入った棒状の寒天を買っていました。

ご自身でアレンジしてあんみつを作るそうです。

 

私も棒状の寒天を買い、缶詰のみかん、パイナップル、つぶあん、黒みつを入れて食べてみました。

 

何ともいえない、寒天の新鮮さに感動しました

 

昔は同業種の店が何店かあったそうですが、今は諸井こんにゃく店のみになってしまったそうです。

 

次の週は、黒こんにゃくも買いました!

これまた美味

築地でできたものと思うと、さらにおいしく感じます

 

【諸井食品有限会社】

東京都中央区築地3丁目8-2

 

 

海水館跡

[CAM] 2015年10月24日 16:00

 『ものしり百科』では、109頁と146頁に説明があります。なお、147頁にある写真の掲示板は新しくなっていました(英文と絵画入り)。

 

IMG_1871.JPG

 

ここは明治29年に完成した新佃島埋立地の一部で、当時は房総の山々も雲霞のうちに望むことのできた閑静な景勝地でした。
 ここに坪井半蔵氏が建てた下宿旅館「海水館」は、文士、詩人、画家など多くの文化人が下宿しました。
 明治40年、島崎藤村が『春』を、翌年には藤村の紹介で、小山内薫が『大川端』を執筆したのを始めとして、大正2~3年頃には、佐藤惣之助、木村荘八、竹久夢二、三木露風、日夏耿之助、松崎天民、横山健堂等がここに寄宿し、文士たちの集会もしばしば行われたといいます。
 この碑は昭和43年、藤村の母校である明治学院大学の藤村研究部によって建てられたもので、裏には『春』の執筆由来の記が記されています。

 

 藤村は、『春』執筆の準備から連載を終えるまでの間、明治40年(1907)9月から約1年を過ごしたようです。この「春」は夏目漱石の「坑夫」の後をうけて明治41年4月7日から朝日新聞に135回掲載されました。

 

 執筆中、藤村はこの海水館の様子などを知人に「今年中に半分を―出来得べくんば三分の二位を書き置く必要より ・・・ 小生は閑静なる境地に身を置くべく考え ・・・ 昨日よりこの海岸にある宿へ引移り申候。この宿は友人にも告げず ・・・ 朝日新聞執筆のことも、未だ世上には発表いたさず候。二階の西隅にある一室にて、寺院の如き閑静と、旅舎の便利とを兼ね候」と伝えています。

 

 現在の海水館跡近くから豊洲方面を臨む(20151018日撮影)

 

IMG_1874.JPG

 

 

銀座・花椿通り

[CAM] 2015年10月24日 14:00

 

 

 銀座のメインストリートである中央通りの7丁目~8丁目付近を交差する通りが「花椿通り」です。出雲市から寄贈された出雲椿が街路樹として植えられたことから、現在の呼び名がつけられたようです。

 

 「銀座花椿通り公式ウェッブ」では、「(江戸幕府創始のころ)『日比谷入江』と呼ばれた海を埋め立て、城下町の拡張を目指した整備が30年の後に終了、その地に手伝普請に駆り出された諸藩の大名の江戸屋敷が建ちはじめます。この辺り一帯には松江藩の上屋敷が建ちました。松江藩は出雲一国を領有していたことから、『出雲町』と名付けられ、通りも町名と同じく『出雲通り』と呼ばれた」ということ、そして、「昭和9年に通りの名の由来となる椿が寄与された」と説明しています。

 

 現在は、御影石がきれいに敷きつめられ、その整備の記念として椿の花を持ったポニーテールの少女「はな」の像が置かれています。出雲から寄与された8本の椿は健在で、3月~4月にかけてきれいな赤い花を見ることができます。また、街路樹としてはアメリカハナミズキも植えられています。そして、1年を通して老若男女を問わず、各国からの観光客も訪れる活気あふれるストリートとして愛され続けています。

 

バックの建物は銀座資生堂ビル

 

IMG_1937.JPG

 椿屋珈琲店本店

 

IMG_1938.JPG少女「はな」の像

 

IMG_1942.JPG昭和通り歩道橋はエスカレーター付きです

 

IMG_1941.JPG
 なお、従来から、「資生堂」のシンボルマークは「花椿」と呼ばれ、資生堂に関連する活動にも「椿」の名称がよく用いられてきました。ところが、このシンボルは1987年に広告での使用を中止し、1989年以降は製品からも外すなど対外的な使用を取りやめ、使用範囲は株券など極めて狭い範囲に限定されていたのですが、その後方針を変更し2004年から復活しています。「椿」ファンとしては、この資生堂の方針の伝統復帰はうれしいですね。

 

 

 資生堂グループのサイトを見ると、「資生堂のシンボルマーク『花椿』は、1915年に初代社長福原信三が自らデザインし誕生しました。その後も何度か微調整が加えながらも、資生堂の揺るぎないアイデンティティーとして、現在に至っています」とあります。

 

   私事ながら、私のブログ・ネーム「CAM」とは、「Camellia」の頭三文字をとったものです。

 

 

 

 
<<前のページへ 1234567891011