[銀造]
2015年12月24日 12:00
日本橋三越の新館入り口です。大きなモミの木が綺麗に飾られています。
道行く若いお嬢さんの着物姿も素敵です。
三越では、日本橋でも銀座のウインドウでも見かけたのですが、
JENKA makes you smile. と言うキャッチコピーを目に致します。
ウインドウに描かれた、天女(まごころ)像も元気に飛び跳ねていますね。
このウインドウの前には、「けんけんポイ」の様に、飛び移る足が記されていますので、
1960年代に一世を風靡した坂本九さんの歌、
Let's Kiss , ほほ寄せて、Let's kiss, 小鳥の様にくちびるを重ねてを口ずさみながら、楽しむのも一興ですね。
本館を入ったすぐの所では、JENKAの記念撮影をする舞台がセットされていて、親子連れが楽しそうでした。
なお、本館の建物は、「東京都選定歴史的建造物」に指定されています。
その歴史など、詳しいことはこちらのページでご覧下さい。https://mitsukoshi.mistore.jp/store/nihombashi/history/list01.html
[滅紫]
2015年12月24日 09:00
忘年会酣の季節ですが、最近は一昔前のような深夜までの忘年会は少なくなったようです。
でも一年の締めくくりに「気の合った仲間とちょっと一緒にランチでも」というのはまだまだ多いかと思います。そんな時にぴったりのお店です。
講座の仲間たちと「忘年ランチ」と繰り出したのは新橋演舞場からも近い このお店。この時期同じことを考える人が多いと見え他のテーブルも女性ばかりのグループで満席です。
前菜、パスタ、デザート、飲み物で2000円(込)なり。前菜、パスタともに4~5種類からチョイスが出来ます。私が選んだ「豚肉ラグーのタリアテッレ」は手打ち麺でした。お店の方の話によると「昼間は手打ち麺は1種類、夜は4~5種類出来る」とのこと。
5人でワインを1本(お昼なので)頂き、一人2500円、グラスワインは何と300円です。(良心的)。「新年会ランチにもいいわね」というのが仲間たちの感想です。
トラットリア・ダ・フェリーチェで年末のちょっとFELICE「幸福」な時間を。
中央区銀座5-14-9石和田ビル2F TEL3547-6940
LUNCH 11:30~14:00 DINNER 18:00~22:00
[皐月の鯉の吹き流し]
2015年12月23日 14:00
水天宮から隅田川方面へ行くと首都高速箱崎ジャンクションがあります。
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このジャンクションは6号向島線・7号小松川線・9号深川線が合流、分流し
またロ-タリーがある首都高速道路要所の1ヵ所です。
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ロ-タリーや料金所からの合流地点には一時停止や、信号機もありますので、
ここを通過する際は注意をしてください。
向かうべき方向に迷いやすい場所でもあります。
また、このロータリーをうまく利用すると首都高速道路をUターンすることもできます。
( 道順がWebサイトに掲載されています )
このジャンクションを下から見上げると、ご覧の通り道路が集中し何層にも重なっています。
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この箱崎ジャンクションの下に東京シティエアターミナルがあります。
多くの首都高速道路が川を埋立てて建築されたのと同様に、
ここも川を埋立てて1972年(昭和47年)に完成しました。
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この写真を見ると、かつて川であったことが推測できます。
[之乎者也]
2015年12月23日 09:00
新幹線で東北方面へ出張の帰り道、JR京葉線の八丁堀駅で電車を降り、改札口を出ると、ふと駅スタンプのスタンドが目に入ります。子供のころは旅先で駅スタンプをスタンプ帳に集めるのが愉しみでしたが、最近はすっかりご無沙汰です。八丁堀駅にもあったとは。。。
どんなスタンプなのかなと興味津々、反故紙の白地に押してみると、「八丁堀駅 長谷川平蔵生誕の地」の文字とともに鬼平こと長谷川平蔵の絵が出てきます。~長谷川平蔵については、改めて説明の要も無いかもしれませんが、あまり歴史に詳しくない方のためにここでミニ解説を。
長谷川平蔵(1745?~1795)は、江戸時代中期に活躍した「火付盗賊改役(江戸の特別警察である火付盗賊改方の長官)」で、石川島(現、中央区佃)に無宿人の収容施設である人足寄場を作った功績もあります。(/archive/2014/06/post-2075.html)
池波正太郎の時代小説「鬼平犯科帳」では主人公として凶悪犯罪の取り締まりに活躍し。その取り締まりのすさまじさから小説では「鬼の平蔵(=鬼平)」と呼ばれます~
【鬼平犯科帳 1(池波正太郎)文春文庫版】
「へえ~、長谷川平蔵って八丁堀に住んでいたんだ!」
小説の設定では平蔵夫婦の住む役宅は「清水門外(現、千代田区九段。千代田区役所あたり)」ということでしたし、若いころには家庭環境の複雑さから一時グレて「本所の銕(てつ)」と呼ばれ、本所菊川(現、墨田区)にも住んでいたなど、長谷川平蔵は江戸のいろいろな場所に住んだようです。
平蔵の出生地については、故瀧川政次郎氏(元國學院大学教授)や重松一義氏(元中央学院大学教授)といった法学者までが議論しているようですが、決定的な検証にまでは至らず、複数の可能性があるようです。。。
赤坂・築地町(父、宣雄の住居のあった拝領屋敷。現在の赤坂5丁目)で生まれて5歳まで育ち、その後築地本湊町に移ったという説、本所・菊川で生まれ、そのままずっとそこで育った説、または出生から19歳までずっと築地本湊町で育ったという説などなど。。。
どの説も決め手に欠け推定の域を出ないとしても、平蔵は後に石川島に人足寄場を設けていることから、築地本湊町、すなわち現在の中央区湊地区とは深い縁がありそうです。地元の郷土史家(中央区郷土史同好会)は「5歳から19歳まで築地本湊町の津田七右衛門屋敷に住み、その後19歳に本所菊川に移った」ことに着目し、古地図により津田屋敷は松平阿波守の向かいであったことから、平蔵が住んでいたのは現在の中央区湊1‐10あたりと推定しています。ちなみに、この場所は、12月14日付のブログ記事でご紹介した「御菓子司 しげ田」(/archive/2015/12/post-2928.html)のあたりになります(明治時代に鉄砲洲稲荷神社が、稲荷橋東詰から松平阿波守屋敷跡に遷座したため、平蔵の家は、現在の鉄砲洲稲荷神社の向かいあたりということになります)。
【長谷川平蔵 湊地区住居跡(推定)】⇒左端に「御菓子司 しげ田」、真ん中あたりに「都バス・鉄砲洲バス停」が見える。
ただし、これもあくまでも郷土史家の推定説であり、現地に行っても教育委員会による説明版などは立っていませんが、地域住民としては平蔵が近所に住んでいたという話にはロマンを感じます。
まあ「鬼平犯科帳」は小説で池波正太郎によるフィクションの要素も多いので、事実とは別に「お話」としてあまり肩肘張らずに楽しめればと思います。例えば、平蔵が密偵との連絡場所に使ったという軍鶏鍋屋の「五鉄」は、本所(墨田区両国あたり)にあったとされますが、そのモデルは人形町「玉ひで」であったといいます。平蔵の出生地についての謎についても、ここでは特定の説に肩入れせず、今後歴史学者など専門家による研究成果を気長に待つことと致しましょう。
【長谷川平蔵 湊地区住居跡(推定地)】
所在地:〒104-0043 中央区湊1‐10(鉄砲洲稲荷神社向かい)
(*ただし、文中説明の通り、こちらには説明版などは立っていません)
交通:都バス「東15」・江戸バス「南循環」鉄砲洲停留所下車目の前。中央区コミュニティサイクル「B01鉄砲洲児童公園」サイクルポートそば。
[CAM]
2015年12月22日 20:00
「細雪」からの引用を続ける。
>・・・・・・午後には四人で池の端の道明、日本橋の三越、海苔屋の山本、尾張町の襟円、平野屋、西銀座の阿波屋等を廻って歩いたが、あいにく残暑のぶり返した、風はあるけれども照り付ける日であったので、三越の七階、ジャアマンベーカリー、コロンバン等々、方々で一と休みしては渇きを癒さねばならなかった。お春は夥しい買物の包を持たされて、荷物の中から首を出したようになりながら、今日も顔じゅうに汗を沸かして三人の跡から附いて来たが、三人も皆めいめいに一つか二つ提げていた。 (417)
「尾張町の襟円」は、元和装小物店だと思われる。 「ゑり円ビル」(銀座4-6-10)として残っており、9Fには表示があるが、店はなくなっているか?
現在の「ゑり円ビル」(屋上にライトブルーの保険会社の広告塔があるビル。撮影は2015年12月20日)
「平野屋」は同社サイトでは、「1808年(文化5年)創業、江戸・日本橋において装剣具商を営んでおりました。・・・・・(しかし、明治維新後)装剣具が表看板では商いにならなくなりましたので、目貫、小柄、こうがい(これを三所物と称します)等の技術を生かした小物類へと扱い商品も変わり・・・・・その後、その後店を浜町に移し前記刀剣小道具、印籠、根付、刻煙草入れを商っておりました。・・・・・・大正12年の大震災に被災し、焼け跡の区画整理の結果、浜町1丁目あたりは店として不便になりましたので、昭和9年春、銀座8丁目(現在の金春通り)に移転しました。第2次世界大戦の戦火も逃れた古い建物も皆様に親しまれておりましたが、バブルの影響もあり、建て直しも不可能な状態になり、今は銀座6丁目外堀通りの土屋ビル5階で営業をいたしております。」ということである。現在はバッグ、財布、根付などを扱っているようである。
現在の「平野屋」(銀座6-4-5)
「阿波屋」は、現在、銀座6-4-15トニービルで、履物、和洋傘を扱っているよう。同社サイトによると、「明治4年(1871年)八官町(現銀座8丁目)と呼ばれていた地に創業致しました。以来品質の優れた履き易い履物にこだわり続けています。昭和初期、コルクの芯に牛革を巻いたぞうりを考案し好評を博しました。これは現在の革ぞうりの原型となっております。
又、谷崎潤一郎の「細雪」の一節に阿波屋の履物が登場するなど多くのお客様のご愛顧を得てまいりました。年季の入った職人が、当時ながら手作業で丹精込めて仕上げた「手縫いぞうり」は工芸品と呼ぶに相応しく今も主力商品として販売しております」とある。
この「阿波屋」については、雪子が悦子への東京土産として、履物を買って帰った際の状景にも登場する。
>「ふん、有難う」
「まだもう一つあるわ、その下の方見てごらん。── 」
「あった、あった、これやろ」
そう云って悦子は、銀座の阿波屋の包紙に包んである箱を取り出したが、中から出て来たのは紅いエナメルの草履であった。
「まあ、ええこと。穿き物はやはり東京やわなあ。── 」
と、幸子もそれを手に取って見ながら、
「これ、大事に直しといて、来月お花見に穿きなさいや」
「ふん。いろいろ有難う、姉ちゃん」 (222)
ここで、「大事に直しといて」というのは、関西弁で「大事にしまっておいて」の意。東京で使った際に、誤解される代表的例である(笑)。
[下町トム]
2015年12月22日 16:00
ぼくは海外旅行に時たま出かけます。最近は羽田空港発着の便も増えましたが、まだまだ路線数、キャリアの種類、便数など成田空港の国際線における存在感は大きいですね。したがってやはり成田を利用する機会がいまだ多いです。
成田空港は都心から決して近くはないので、いかに効率よく短時間で快適にたどり着けるかは重要なポイントです。ぼくは基本的には公共交通しか使いませんので、これまでいろんなルートを試してみました。よくよく考えてみると、中央区は成田へのアクセスにおいて都心でも最も便利なまちであることに気づきます。
まず、JRでいうと、東京駅(もちろん中央区側の八重洲口を利用する前提です)から特急「成田エクスプレス」が利用できます。また京成「スカイライナー」を始発の上野駅から利用する場合でも銀座線か日比谷線「上野駅」あるいは都営大江戸線「上野御徒町駅」から「京成上野駅」へはすぐですので、効率よく移動できます。
区内からダイレクトに移動する場合も選択肢がたくさんあります。JRの総武線快速「成田エアポート」は乗車券だけで乗れます。少しリッチな気分でグリーン車を利用するのもいいでしょう。「新日本橋駅」「馬喰町駅」から空港まで乗り換えなしです。
京成の場合も、都営浅草線から相互直通で乗り入れている「アクセス特急」が便利です。乗車券のみで快適に移動できます。京成3050系が使われることが多いのですが、新しくて機能性豊かな車両です。
バスの場合は、銀座駅から格安のバスが発着しています。空港まで千円という価格は画期的で、いつも多くの方が並んでおられます。とにかく移動コストを低く抑えたいという方にはコストパフォーマンスのいい交通手段として最適です。
従前からおなじみの「リムジンバス」は箱崎シティエアーターミナルの利用をお勧めします。ビルの中に乗り場や待合室があり、雨の日でも大きな荷物を持ってうろうろする心配がありません。ビルの中にレストランやカフェもあり、出発前にくつろくこともできます。最近はハイグレードの車両も導入され、一層快適になりました。区内各地から箱崎までタクシーで移動してリムジンバスに乗り換えるというのも、荷物のある時には有効で楽なルートでしょう。
中央区は交通インフラのとても整った地域です。日本から海外に行く場合だけではなく、インバウンドの外国人観光客にも気軽に中央区に来てもらうことも可能ですから、今後の国際化推進にもこの利点は活かせるでしょう。中央区の観光振興を期待しています。
この年末年始、成田空港から海外にお出かけの方、どうぞご自身の最適なルートを選んで、お気を付けて行ってらっしゃいませ。
旅の始まりの気分を高めるのには快適な空港アクセスが重要ですよ。