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2015年12月26日 20:00
「細雪」からの引用を続ける。
>・・・・・幸子は・・・・・・・・・資生堂の美容室へ出かけた。それというのは、ここのホテルの地階にも美容室はあるけれども、資生堂ではパアマネントをかけるのに、ゾートスと云う薬液を使う新しい遣り方をしている、それだと電気器具などを頭へ取り附ける面倒がなくて楽であるから、あそこでやってお貰いなさいと、昨夜光代に教えられたからであったが、行ってみると、十二三人もの先客が控えており、これでは何時間待たされるかも分らない形勢であった。・・・・・・・待合室に待っている間も、周囲がいずれも見も知らぬ純東京の奥様や令嬢ばかりで、誰一人話しかけてくれる者もいない。二人は小声で語り合うのさえ、上方訛を聞かれることが気が引けるので、さながら敵地にいる心地で身をすくめながら、あたりでぺちゃくちゃ取り交される東京弁の会話に、こっそり耳を傾けているよりほかはなかったが、今日は大変込むんだわね、と、一人が云うと、そりゃそうよ、今日は大安だもんだから御婚礼がとても多いのよ、美容院は何処も大繁昌よと、一人が云っている。・・・・・・(862)
「さながら敵地にいる心地で身をすくめながら」という表現が、関西人が東京へ出てきた際の心情をよく表しており、おもしろい。
>・・・・・・朝から銀座を歩き廻って尾張町の交叉点を三四回もあちらへ渡りこちらへ渡りしてから、浜作で昼飯を食べて、西銀座の阿波屋の前から道玄坂へタキシーを飛ばした。妙子はその日も、絶えずしんどいとか疲れたとか云いながら附いて来、浜作の座敷では座布団を枕にして足を投げ出したりしていたが、二人の姉がタキシーへ乗る時に、自分は行くことを差控えたい、本家は自分を勘当したことになっているから、 訪ねて行っては姉ちゃんが挨拶に困るであろうし、自分もそんな所へ行きたくない、と云い出した。・・・・(867)
現在の「浜作」(銀座7-7-4)
「浜作」のサイトでは「東京・銀座「本店浜作」は、大正13年大阪新町にて創業。
昭和3年、銀座でお客様の目の前で調理するカウンター割烹というスタイル<オープンキッチン>を東京に初めて取り入れた関西割烹料理店でございます」とある。
(訂正) 「"十文字の川から川へ、四つは架っていないけれども、三つは橋が架っていた"」というのは、距離的には三吉橋のことを言っているのだろう。三つ橋は少し距離がある」と述べたが、蒟蒻島(霊岸島)、新川からは、「三つ橋」が近いので、この「三つは橋が架かっていた」というのは「三つ橋」(ものしり百科;40頁)を指しているのだろう。
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2015年12月26日 20:00
https://twitter.com/zmp_robot
私は中央区・佃の住民なのですが、Twitterを見ると、今話題のZMP社谷口社長も佃かいわいをジョギングしているようですね。 住居は近くか?
ZMP社では、2020年までにロボタクシーを実用化すると言っています。
オリンピックの頃には、晴海通りがロボタクシー特区のようになって、自動運転タクシーが選手村との間を走り回るというのも夢ではないようです。
[之乎者也]
2015年12月26日 14:00
ある土曜の夕方、私以外の家族が外出なので今晩は何を食べようかと雑誌をパラパラとめくっているとカレー特集があって、突然無性にカレーが食べたくなりました。
そういえば、家の近くにあるカレー屋でいつも前を通るのですが入ったことが無かったので、ちょうどよい機会と思い出かけることにしました。
場所は鍜治橋通り沿いのビルの一階。。。
土曜日の夜ということでリーマンの姿も見当たらず、人通りもまばらでしたがお店はやっていました。早速中に入りメニューを見てみます。今日はお客さんも少なくてゆっくりできそうです。
。。。ということで先ずはマハラジャビールから。そしてつまみとしてラム・チャーシューとダールスープ(レンズ豆のスープでインド人にとっては毎日頂く、味噌汁のような存在)も頼みます。
お店の方に話を聞いてみるとこちらのお店、店のつくりなどからインド系のお店なのかなと思いきや、日本人の方の経営とのこと。近くのカレー屋さんではインドやネパールなどの店員さんを見かけることが多いのですが、こちらのスタッフは全員日本人とのことで、逆にびっくり。もともと湯島にあった人気店(デリー上野店)からのれん分けしたとのことで、湯島の本店は「1956年に日本人の手による、日本で本格的なインドカレーをもてなす専門店として誕生」という日本のインドカレーの老舗。銀座6丁目、東京ミッドタウン(六本木)にも支店があるそうです。
いい感じでラム・チャーシューをつまみながらマハラジャビールを飲みます。ようやくおなかも落ち着いてきたところで、真打ちのカレーのチョイスに入ります。おすすめは「カシミールカレー ★★★★★ 深みある極辛味」とのこと。
。。。赤い星★が5つもついていて、ちょっと気圧されます。こちらは人気メニューだそうですが、かなり辛そうなので今回は断念して、中級コースの「インドカレー★★★さらりとした辛口」からチャレンジしてみることにしました。「う~ん、絶妙。はじめはシンプルな辛さと思ったものの、後からじわっとスパイスの辛さが沁みてくる感じです。」
寒い日でしたが、お腹も満たし中からスパイスでぽかぽかと温まったので、帰り道にちょっと腹ごなしのためのお散歩です。今まであまり気が付かなかったのですが、新川周辺には結構カレー屋さんが多いみたいです。
「ふくてい(新川1-25-20)」、「カリーシュダ(新川1-9-9)」、「ナワブ(新川2-8-2)」、「ラティーノ(新川2-7-7)」、「サンガム(八丁堀4-14-1)」。。。
それもそのはず、家に戻って調べてみると「新川・八丁堀・茅場町地区」は31軒のカレー屋(カレーを出す店)がひしめく激戦区とのこと(食べログ)。そして、こちらの「新川デリー」は、この地区堂々のカレーランキング第1位とのことでした。。。「ごちそうさまでした!」
【新川デリー】
所在地:〒104-0033 中央区新川1-28-35
電話:03‐3297‐8922
営業時間:11:00~22:00(日・祝休)
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2015年12月26日 12:00
「蒟蒻島」については、荷風もふれている。
昭和3(1928)年8月31日 「陰雲四散し碧空拭ふが如く烈日燬くが如し。・・・新大橋より乗合の汽船に乗り永代橋に往く、・・・・阿歌と蒟蒻島芸者屋の間を歩み茅場町薬師堂に賽し九段を過ぎて家に帰る。夜既に三更を過ぐ。」
「新大橋」は、明治44(1912)年に鉄骨橋に架け替えられた。現在の橋は昭和51(1976)年に竣工(ものしり百科83頁)。 したがって、当然のことながら、荷風が見た新大橋は現在のものではない。
「蒟蒻島」 現在の新川地区は、江戸時代には、霊岸島(霊厳島)と呼ばれていた場所で、霊岸橋際請負地は享保年間の埋め立てにより、富島町一・二丁目は弘化2年(1845)島西側の埋め立てによって成立したが、亀島川沿岸部は埋立が十分でなかったため足場が悪く、蒟蒻島と俗称された。 同地域には岡場所が形成され、所属する私娼は蒟蒻芸者と呼ばれた。
「霊巌島碑」 霊巌島の由来碑が昭和52年(1977)3月、霊巌島保存会によって建立されている。(設置場所は中央区新川1-12-1、越前堀児童公園内)
「当地区は、今から370-80年前、江戸の城下町が開拓されるころは、一面の沼地葭原であった。寛永元年(1624)に、雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建して、土地開発の第一歩を踏み出し、同11年(1635)には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が27000余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。邸の北、西、南3面に舟入堀が掘られて後に越前堀の地名の起こる原因となった。
明暦3年(1657)の江戸の大火で、霊巌寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町々が替地として集団的に移ってきた。
明治大正年間には富島町、浜町、塩町、大川端町、川口町、長崎町、霊巌島町、銀町、東港町、新船松町、越前堀、南新堀の13町に分かれ、多額納税者も多数居住して検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心地であった。大正の大震災により全部焦土と化し、昭和6年(1931)7月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川1、2丁目・霊巌島1、2丁目・越前堀1、2、3丁目と改称され、さらに昭和46年(1971)住居表示制度の実施により新川1、2丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐かしい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。」
「茅場町薬師堂」 ものしり百科165頁
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2015年12月25日 20:00
「細雪」からの引用を続ける。
>・・・・・・・そしてもう一度尾張町へ出、最後に服部の地下室でまたいくつかの買い物をすると夕飯の時刻になったので、ローマイヤアは気が変らないからと、数寄屋橋際のニュウグランドへ上ったのは、宿へ帰って食べるよりも時間が省けるからでもあったが、一つには、今夜限りでまたしばらくは会えなくなるであろう雪子のために、彼女の好きな洋食の卓を囲み、生ビールを酌んで当座の別れを惜しもうと思ったからであった。それから大急ぎで宿へ帰り、荷纏めをし、東京駅へ駈けつけて、見送りに来ていた姉と待合室で五分ばかり立ち話をし、午後八時三十分発急行の寝台車へ乗り込んだ。・・・・・(418)
>・・・・・・・どこかで三人落ち合って一緒に食べたいから、銀座あたりまで出向いてほしい、と姉は云った。妙子は銀座まで出かけるなら、話に聞いているニュウグランドかローマイヤアへ行きたいと云うので、ローマイヤアと云うことにしたが、あたしも行ったことないねん、数寄屋橋で降りてどう行くのん、と、姉が却って幸子に尋ねる始末であった。(529)
ここで出てくる、「ローマイヤ」、「ニューグランド」については、三島由紀夫も「わが銀座」(昭和31年2月『銀座百点』)において、次のように書いている。
>そのころマツダ・ビル楼上のニュー・グランドの部分が、赤、青、緑、黄に変幻して、サーチライトの光芒をひろびろと投げかけてゐた。
私は父母につれられて、そのニュー・グランドや、ローマイヤ・レストランへ行くとき、子供らしい虚栄心を満足させられた。・・・・・・(評論全集2-251)
この「ニュー・グランド」とは、横浜のホテルニューグランドが、1934(昭和9)年に数寄屋橋のマツダビル8階に「レストラン・ニューグランド東京」を開店したものである。スイス人の総料理長が、横浜店と掛け持ちで面倒を見ていたようで、かなり本格的なフランス料理店であったという。
この「マツダビル」(銀座TSビル、東芝ビル)については、下記のサイトの説明を下記に引用しておく。
http://bb-building.net/tokyo/deta/228.html
銀座数寄屋橋交差点角に立つオフィス・商業の複合ビルで低層階はモザイク銀座阪急(旧・数寄屋橋阪急)が入居していた。
かつては「マツダビルディング」と呼ばれたオフィスビルで、東芝の前身の1社である東京電気が本社を構えていた。 なお"マツダ"とは東京電気が白熱電球のマツダランプをライセンス生産したことに由来しており、自動車メーカーのマツダとの関連はない。 1939年に芝浦製作所と合併し、東京芝浦電気になった後も"マツダ"と印字した標章は使用され続けていた。
1956年、低層階に数寄屋橋阪急が開業。1966年に新橋側に増築。外装もリニューアルして「銀座東芝ビル」に改称した。 2007年に東急不動産が1610億円でビルを取得し、新たな商業ビル「東急プラザ銀座」へと建て替えた。
「東急プラザ銀座」は、2016年3月31日(木)に開業の予定。「Creative Japan~世界は、ここから、おもしろくなる。~」がコンセプトで、銀座エリア最大級となる地下2階~地上11階の商業施設となる。
「ローマイヤ」レストランは、既に紹介したように、現在は日本橋で「銀座ローマイヤレストラン日本橋店」という名称で営業を行っているようで、そのサイトを見ると「大正14年。銀座で一番初めに本格的なドイツ料理店を始めたレストランローマイヤ。日本で最初にロースハムを作ったことで知られる創業者アウグスト・ローマイヤが提供する本物の味と心温まるおもてなしは、長い間銀座の名店として多くの人々に愛され続けてきました。その名は、昭和23年に発表された谷崎潤一郎の代表「細雪」にも登場しています」とある。
[滅紫]
2015年12月25日 16:00
年賀状はもうお書きになりましたか? 「25日までに投函を」と郵便局はPRしていますが、私は漸く昨晩から!作成に取り掛かりました。ギリギリにならないと取り掛からないのは長―い習慣で時間がたっぷりある(はずの)現在でも進歩なし。何とか文面完成、さあ印刷といったところでプリンター故障。近所の商店街を探してみましたが以前はあったはずの印刷屋さんが見当たりません。困った!!「そういえば」と看板を見たのを思い出し、おぼろげな記憶で八丁堀へ。ありました!!「年賀状印刷受付中」の文字が後光が差して見えました。店内には同じような方が結構来店中で少しほっとしました。
10枚―1600円、100枚3400円、200枚4900円 私はデータを持参しなかったので作業料1500円かかりました。今からでも間に合いますよ。
ACCEA 八丁堀店 八丁堀2-22-6 高野ビル1F
TEL 3555-8690 平日24時間営業土曜日は19時まで日曜は10時~17時
年内は29日まで営業