冬の早朝、新亀島橋付近にはアオサギなどが集います。
新亀島橋は明治15年(1882年)3月、長さ十五間(約27m)、幅三間(約5.4m)の木橋から始まりました。
大正15年(1926年)3月に関東大震災(1923年)の復興事業により鋼桁の近代橋として架け替えられ、幅も15mと3倍近くに広がりました。
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仲がよさそうで、ほほえましいです。
昼近くになるといなくなっています。いったいどこに行ってしまうのでしょうか。
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亀島川の鳥たち
冬の早朝、新亀島橋付近にはアオサギなどが集います。 新亀島橋は明治15年(1882年)3月、長さ十五間(約27m)、幅三間(約5.4m)の木橋から始まりました。 大正15年(1926年)3月に関東大震災(1923年)の復興事業により鋼桁の近代橋として架け替えられ、幅も15mと3倍近くに広がりました。 . 仲がよさそうで、ほほえましいです。 昼近くになるといなくなっています。いったいどこに行ってしまうのでしょうか。 ◆ 京橋物語1~銀座から見える曲がり角
今日は銀座シックスの屋上に来てみました。
銀座通りの人混みを歩いたあと、ここに来てみると少し心が落ち着きます。屋上をゆったりと周遊して、東京タワーやスカイツリーを探してみるのも良いものです。でも眺めてみたいものは他にもあります。それは銀座の街並みです。その中でも一番なのは、4丁目交差点方面ではないでしょうか。 和光の時計台は、実に良いです。ですが銀座の街は、思ったよりゴチャゴチャしているんだなぁ、という印象です。
銀座シックスが建つ前、この場所にあったのは松坂屋銀座店。その松坂屋からの戦前の風景は、このような感じでした(昭和8(1933)年頃)。 今と比べればスッキリとした、関東大震災から約10年後の銀座です。4丁目交差点に建つ和光はこの当時、服部時計店と言いました。右の向かいにあるのが銀座三越、服部時計店の向こうに見えるのが教文館です。
歴史を調べてみたところ、この3つが建てられたのは、以下の年でした。 昭和5(1930)年・銀座三越 昭和7(1932)年・服部時計店 昭和8(1933)年・教文館 もし過去に向かって少しずつ遡ることができれば、新しい順に建物が無くなっていくはずです。今回は少し趣向を変え、過去にタイムスリップして、銀座通りの時間旅行にご案内してみたいと思います。
まず、少しだけ遡ってみたのですが、無くなったビルがあります。分かりますでしょうか。 歴史のとおり、教文館が無くなりました。服部時計店は建っているので、教文館が建つ前年の、昭和7(1932)年頃の風景です。
教文館の設計者はアントニン・レーモンド。銀座の街には、彼が設計した建物がいくつか建ちましたが、今いる松坂屋も彼の設計の時代があったそうです。 一方の服部時計店。この時計塔は2代目で、初代の時計塔が建ったのは明治27(1894)年でした。改築のために初代が取り壊された後に関東大震災に遭い、震災から9年後にこの2代目が建ったというわけです。
さらに遡ってみます。昭和4(1929)年頃の4丁目交差点です。 服部時計店の建物が無くなりました。向かいにはクレーンが立っているので、三越は建築中といったところです。その向こうには山口銀行、さらに向こうに見える大きなビルは、百貨店の松屋銀座です。松屋はこの当時、既に営業していたことがわかります。
さらに遡りましょう。 すると服部時計店の場所に低層のバラック風の建物が現れました。昭和初年の風景です。この低層の建物は震災後に建てられ、三越が入居して一時的に営業をしていたといいます。その後三越は、向かいの場所にビルの建設を始め、昭和5(1930)年の帝都復興祭の直後、大規模百貨店として今の銀座三越を開業しています。
さらに遡り、震災の年に近づいてみます。すると松屋のビルが鉄骨に変わります。 写真の一番下には、松坂屋のビルの鉄骨の影が写っているように見えるので、松屋、松坂屋のビルが共に鉄骨だった時代のようです。歴史的にはそれぞれの開業が、 大正13(1924)年12月1日・松坂屋 大正14(1925)年 5月1日・松屋 ですので、大正13年頃の風景ということになります。大正13年といえば、関東大震災のあった翌年で、この風景の中にも建物を再建している様子をあちらこちらに見ることができます。
ご覧のように、現在の銀座シックスの屋上は、関東大震災の後、銀座の街の復興をずっと眺め続けてきた場所でした。
松坂屋は、銀座に初めて開業した大規模百貨店です。この当時、ここ銀座6丁目は尾張町と言い、ビルを建てたのは国光(こっこう)生命保険。上階で国光生命が営業し、下階に松坂屋が入って店を構えました。 今では信じられませんが、全館土足入場ができる初めての百貨店として話題を呼びます。賑わう屋上動物園や、近隣の駅から出る黄色い送迎バスもあり、松坂屋の開店によって銀座は、高級志向の街から一般大衆も楽しめる街へと変化していきます。
一方の松屋銀座はどうだったのでしょう。少し遠くて見えないので、空中移動して近づいてみます。 はためいている旗は、松と鶴からデザインされた松屋のマーク、そして下に見えているのは銀座通りです。ここは完成後の松屋の屋上。銀座3丁目から1丁目の方向を眺めています。
松屋の開業は、松坂屋の開業から約半年後の大正14(1925)年でした。松屋自体は明治2(1869)年に横浜で鶴屋として創業していますので、今年は創業150周年にあたります。8階建てのこの建物は、生命保険会社により建設が始まります。しかし途中で松屋が下階に入居することに決まり、設計変更で大きな吹き抜けが作られることになりました。鉄骨の状態で震災に襲われるも、その20ヶ月後に開店します。 特に内装はとても豪華だったようで、来店する多くの人びとを魅了し、話題をさらいました。このあと松坂屋と共に、銀座の復興を牽引していく立役者となっていきます。
銀座通りに目を移してみると、斜め向かい方向に大きなビルが見えます。これは大正4(1915)年に5階建てとして竣工した大倉組本館。建設当時は東京でも最高層のビルでした。 建てられてた年からも分かるように、このビルは関東大震災を乗り越えました。大倉組本館といえば、アーク灯が灯された初代の建物の頃も知られていますが、それはこの風景の40数年前の話。写真は2代目の建物、昭和初年の風景です。カルティエが入る現在のOkuraHouseは4代目になります。
気になってしまうのは、銀座通りの向こうの「曲がり角の先」に見えるビル群。何だか大正ロマンを感じさせる、雰囲気の良さそうな街並みが広がっています。きっと素晴らしい街に違いありません。
大倉組本館の屋上に空中移動して、少し近寄ってみることにしましょう。 左側の「トンガリ屋根」と、右側の「円形ドーム」の背の高いビルが印象的。昭和初年です。
この場所で大正時代に突入してみます。大正14(1925)年頃の、曲がり角の先の街並みです。 ん?何かが変わりました。 トンガリ屋根が円形ドームに変わっています。大正時代はトンガリ屋根ではなかったみたいですね。 この曲がり角の先にある街は、現在の京橋、この当時は『南伝馬町』という町名でした。曲がり角には京橋川が流れていて、その上に『京橋』が架かっているはずです。震災から数年しか経っていないこの時に、大きなビルが立ち並ぶ街は、どのような発展を遂げたのでしょうか。
今回はここまでに致します。銀座通りのタイムスリップと空中散歩。いかがだったでしょう。次回からは、この「曲がり角の先」の街並みについて、時代順にご紹介していきたいと思います。『京橋物語』のプロローグでした。 (参考文献等はエピローグに纏めて記載予定)
日本橋ふくしま舘MIDETTE(ミデッテ)山のごちそう本舗のふくしまの郷土料理教室
私のイチオシ‼アンテナショップ「日本橋ふくしま舘 MIDETTE(ミデッテ)」で開催された『第1回山のごちそう本舗のふくしまの郷土料理教室』2019年1月26日午前の部11:30-13:00に参加しました。27日午前・午後の部14:30-16:00ー2日間計4回開催され、参加費1,500円でしたが、お土産付(①山のごちそう本舗特製 五目ごはんの素 1ケ ②矢祭産もち米 2合)で、とてもリーズナブルな企画でお得感満載でした。 講師は 増子正代 (山のごちそう本舗・社長)さんでした。チラシのコメントをご紹介します。 「私が暮らす福島県は素晴らしい食材で溢れています。食材の最も美味しい食べ方は郷土に伝わる料理法ではないでしょうか。この教室では、和やかにコミュニケーションを取りながら、作り方のコツを分かりやすく伝えたいです。『五目おこわ』『イモ煮汁』大人気の『イカ人参』もやっちゃいます!保存料を一切使用していない。安全で美味しいお漬物と販売もやりまーっす! 『山のごちそう本舗』〠963-5323 福島県白川郷矢祭町茗荷字歯朶平67-1℡&Fax0247-46-3872 『五目おこわ』矢祭産のもち米使った、しっかりした味付けで、冷えても美味しい主役級の人気メニュー※具材に味を染み込ませることがコツだそうです。 もち米2升分をお釜で蒸かします。蒸したもち米が最高に美味しいそうです! 家庭で作る場合は2合の分量でレシピを教えていただきました。 ゴボウの笹がき1本・人参細切り1本・しいたけ1パック細切り・鶏肉100g小さ目の1口大切りにし酒大1に漬ける・油揚げ2枚細切りを下ごしらえしておく。 鍋にサラダ油大1を入れ、水気を切ったゴボウを入れ強火で炒める。しんなりしたら、人参・しいたけ・鶏肉ー醤油大3・みりん大1・酒大1を入れ全体に炒める。 出汁2カップ(400cc)と油揚げを入れて、アクをとりながら5分煮る。 具材と出汁をザルでこして、水気を切っておく。 もち米を30分水に漬けてから水を切り、分けてあった煮汁を1.5合の目盛まで入れる(足りなければ水を足す) 炊飯出来上がり‼ 具を均等に混ぜ合わせます。この時にしゃもじを縦に切るようにして、米粒をつぶさないようにするのがコツだそうです。 美味しそうに見えますね。お味はいただいて、最高に美味しかったです。なんと、私はおかわりをしてしまいました。 『芋煮汁』里芋とゴボウが入った旨味たっぷりの美味しい芋煮汁 もう出来上がっていました。大きい里芋は柔らかくてとても美味しかったです。寒い冬にピッタリのメニューで、体も心も温かくなりました。柚子味噌やハバネロ味噌を入れるともっと味のグレードがアップ。 食欲を増す試食も沢山用意してありました。 やみつき大根はパリパリ感が気に入りました! 刺身こんにゃく(柚子味噌付)・イカ人参も福島名産でも山のごちそう本舗さんのオリジナルの味がイチオシでした。 なんと、デザートにイチゴ(とちおとめ)までいただきました。至れりつくせりのメニューにお腹もいっぱいになって幸福感に包まれました。 第1回とありましたので、次回にも期待したいです。皆様も是非参加してください。お土産をいただけるばかりかレシピとボールペン、福島民報『民報サロン』の増子さんのコラム記事ファイルも戴けました。日本橋福島館で、山のごちそう本舗の商品ーやみつき大根(324円)・イカ人参(432円)・柚子味噌(270円)を購入して帰りました。レシピをいただいたメニューは家でトライしてみます。 福島民報『民報サロン』のコラムを読んで増子さんの想いを知り、益々人柄にひかれてしまいました。惣菜屋(佃煮・漬物)さんだと思っていましたが、原木しいたけ栽培を中心に筍・山菜・ゴボウ茶・柚子味噌・刺身こんにゃく等、手作りで無添加の商品をたくさん作っていらっるそうです。84歳のお母様も現役だそうです。増子さんは毎日夜8時から12時まで調理して、作り立てを翌日販売に出かけられているとか。安心・安全な食材を届けていただくことが嬉しいです。 食事の間に福島県矢祭町のDVD・スライドショーも見せていただきました。山と川等の自然に恵まれたとっても良い町だと初めて知りました。川では鮎釣り、柚子の名産地だということも教えていただきました。行ってみたいと思うくらい魅力を感じました。矢祭町のホームページhttp://www.town.yamatsuri.fukushima.jp/page/dir000045.htmlで情報を調べてください。 (山のごちそう本舗社長 増子正代様、日本橋ふくしま館 副館長 小林 誠様に承諾をいただいて、記事と写真を記載させていただきました) カステラと文明堂、その歴史に迫ります ~ 文明堂 日本橋本店 ~
『ギフト、そして自分も楽しむ』をビジブルに取材します、rosemary sea です。 文明堂 日本橋本店さん、その歴史につきまして、今回は触れたいと思います。 「カステラと文明堂さん」と「文明堂さん 歴史年表」の2部構成でご紹介します。 今回も株式会社文明堂東京 日本橋本店 星野本店支配人にお世話になりました。 それでは・・・ (スペイン駐日大使館にて、文明堂主人とフランシスコ カステリオ大使) カステラと文明堂さん カステラはスペインの「カスティーリャ王国のお菓子」という触れ込みで、16世紀に南蛮貿易の港として賑わう長崎に伝わりました。 文明堂さんは1900年に九州長崎で創業。 皆さんご存知のとおり、長崎は我が国が鎖国をしていた江戸時代も唯一のヨーロッパとの貿易港として栄えました。 文明堂さんはスペイン・ポルトガルより伝わり長崎で育ったカステラを、日本のお菓子として広めました。 吟味された素材と熟練職人の技による菓子づくり。 文明堂さんはそこから生み出される美味しさに、真心を添えてお届けします。 憩いのひとときに彩りを添えたい、それが創業以来受け継がれてきました文明堂さんの想いです。 全てはお客様の笑顔のために。今も、これからもずっと・・・。 (昭和26年頃の日本橋本店風景) 文明堂さん 歴史年表 【天文年間】 スペインよりポルトガル船で、長崎の地にカステラが伝来。 【1900年(明治33年)】 中川安五郎さん、長崎丸山町にて文明堂創業。 【1914年(大正3年)】 東京で開かれた大正博覧会で、カステラ出張実演販売を行う。 【1922年(大正11年)】 安五郎さんの実弟・宮﨑甚左衛門さんが東京へ進出。上の黒門町に東京1号店出店。これが東京文明堂の創立となります。 【1923年(大正12年)】 関東大震災により店舗焼失。一時長崎へ帰りますが、再び上京し麻布箪笥町に出店。 同年、炭焼釜・ガス釜に代わる電気釜を開発。 【1924年(大正13年)】 全国初となるカステラ実演、併せてカステラの2割増量、いわゆる「オマケ」を始める。 【1925年(大正14年)】 宮内省、現在の宮内庁の御用達(ごようたし)を賜る。 【1935年(昭和10年)】 電話帳の裏表紙全体に「カステラ一番、電話は二番」と、大きく宣伝を出す。 【1941年(昭和16年)】 物資不足でオマケ中止。 【1945年(昭和20年)】 東京大空襲で店舗焼失。 【1950年(昭和25年)】 カステラの製造、三笠山の実演販売を再開。 テレビコマーシャル開始。 「♪カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂。カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂ー♪。」 【2000年(平成12年)】 文明堂創業100周年を迎える。 【2013年(平成25年)】 文明堂 日本橋本店さん、リニューアルオープン。 現在に至ります・・・。 文明堂 日本橋本店 日本橋室町1-13-7 03-3241-0002 無休 営業時間 平日 9:30~19:00 土・日・祝日 10:00~19:00 日本橋三越さんのライオン像のある角、COREDO室町1とCOREDO室町3の間の江戸桜通りの右側を歩き、COREDO室町2の建物が切れるところの向かい側です。 文明堂東京さんのホームページはこちら 「江戸っこ」 再考
「にゃんボク」氏の「江戸っ子とは」という投稿を読んだら、最後に >なお CAMさんの「江戸っ子とは」にも詳しい記述があります。 /archive/2017/09/post-4591.html
と、小生の随分前の投稿に言及していただいており、ありがとうございます。
私は、以前の投稿を、次のように結びました。
>関西人である私は、「江戸っ子」という言葉というか人種に対して生理的嫌悪感を感じ、海保青陵(1755~1817)による「江戸ものは小児のやうなり、馬鹿者のやうなり、甚だ初心なり」(升小談)という論に共感、同感してきたのであるが、「元来の江戸」というべき日本橋の歴史・文化を知り、はじめて、「江戸」、「江戸っ子」に対して、反感のない理性的認識を持つことができるようになったと思う。
現在でこそ、東京一極集中が進み、大阪も「地方のトップ」と言われるまでに衰退しています。しかし、明治になって首都を江戸(東京)とした理由のうち、大きなものが、「大阪は首都でなくても繁栄を維持していけるだろうが、江戸は首都でなくなれば寂れてしまう」ということがあったことを思うと、今昔の念に堪えなくなります。
先日の毎日新聞の「余禄」でしたか、テニスの「大坂時代の到来」を告げる導入部の記述として、「奈良時代、鎌倉時代、江戸時代のように政権の所在地を時代の名にするならば、豊臣秀吉が大坂城で政務をとった時代は『大坂時代』にすべき」と書いていました。歴史区分の「安土桃山時代」というような表現は明らかに不当ですよね。少なくとも「安土大坂時代」というべきだと思います。これも東京の歴史学会の陰謀だったとも考えられます。
府県制を作った際も、「摂津」地方を分割して一部を兵庫県に繰り入れたのは、大阪府が強大になりすぎることを東京政府が恐れたからだとも言われています。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読むと、幕末の頃の神戸などはまだまだ都市化には至っていない状態であったことが分かります。
私は、「原江戸」と言うべき現中央区の域内を歩いて、日本橋、新川などに、大阪、関西が強大であった時代の名残を見いだしたことが、中央区の歴史を研究したいと思うに至った端緒となりました。 ランチのまかない丼〔築地すし鮮 総本店〕
築地1丁目、平成通りに面したアロア築地ビル1階にある「築地すし鮮 総本店」さんです ランチでお邪魔しました こちらは、午前11時から、翌朝の午前5時()まで営業しています。 日曜日も営業しています。 本日は、お店の表の看板にも出ている「まかない丼」を注文 茶わん蒸し、サラダ、味噌汁まで付いています ネタは新鮮、バラエティーに富み、ボリューミー ウニも乗っていて、ランチタイムの至福のひとときです ランチメニューはいずれもリーズナブルです お店のHPはこちら ⇒ |
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