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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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弁松さんの歴史  ~ 日本橋弁松総本店  ~

[rosemary sea] 2019年3月 7日 12:00

『ギフト、そして自分も楽しむ』をして取材します、rosemary seaです。

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中央区観光協会発行の「はじめて物語マップ」によりますと、"折詰料理専門店発祥のお店"として紹介されています日本橋弁松総本店さん。

前回のご紹介はこちらです。

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今回は弁松さんの歴史につきましてご紹介させていただきます。

 

今回も日本橋弁松総本店 八代目 樋口純一さんにお世話になりました。

一番上の画像、半纏姿でお店前、撮らせていただきました。

それでは・・・

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 食事処の「樋口屋」さん開業から、お弁当販売専門の「弁松」さんへ

 

皆さんご存知のとおり、江戸開府より関東大震災まで、日本橋に魚河岸がありました。

文化7年(1810年)、越後生まれの樋口与一さん、その日本橋魚河岸に「樋口屋」という食事処を開業しました。

これが「弁松」さんのはじまりです。

樋口屋さんはお料理の盛りの良さで評判になり、とても繁昌していたそうです。

でも魚河岸の人々はとてもせっかち、忙しくて自分の時間が持てません。

せっかくお食事が出てきても、全部食べ終わる前に席を立たなければいけないことも。

そこで与一さん、余り残ったお料理を経木(薄い木の板:この場合は木製の折詰)や竹の皮に包み入れてのお持ち帰りを勧めました。

この気配りが更に好評となり、お持ち帰りを希望するお客様が増えました。

これが弁松さんの折詰弁当のルーツ。

IMG_20190130_110445 (2)a.jpgそして二代目の竹次郎さんの時代には、最初から竹の皮で包んだお弁当を販売するようになりました。

更に三代目松次郎さん、食事処から折詰料理専門店へ変えました。これがお弁当販売の専門店として日本最初、と云われております。

屋号もこの時「弁当屋の松次郎」が縮められ「弁松」さん、となりました。

ですから中央区観光協会発行の「中央区はじめて物語マップ」にも「折詰料理専門店発祥のお店」として弁松さんが掲載されています。

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 西郷従道が手配した、弁松さんのお料理

 

大久保利通・・・明治維新の元勲、初代内務卿。

西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」と云われています。

その大久保利通、明治11年(1878年)5月14日、暗殺されてしまいます。

これが「紀尾井坂の変」。

それより前、征韓論を巡る対立から下野した西郷隆盛、西南戦争で敗れ亡くなりました。

既に袂を分かった盟友の大久保は、その余波で不平士族によりこの変で討たれてしまいます。

大久保を慕い、兄である西郷隆盛に従わず政府に留まった西郷従道は、幾重にも衝撃を受けたでしょう。しかし本当はとても冷静で、細やかでした。

この事件のことを聞き及んだ西郷従道は、大久保の屋敷に、大重箱のお料理を用意して届けさせました。

これは弁松さんのお料理、150人前。その事件で集まってきた人々のために。

届けるお料理、お弁当といえば弁松さん、ということだったのでしょうね。

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 明治から現代へ 受け継がれる「濃ゆい」味

 

甘い、辛い、濃いめの味付け。これが受け継がれている弁松さんの味。

当初は日本橋の魚河岸で働く肉体労働者向けの、高カロリーを目指しての手段であったのかも知れません。

そしてお弁当としての特質上、日持ちをさせる意味も考えられます。

ただ、当時高価であったお砂糖などをふんだんに使ったそのお弁当は、見得でもなくハイソサエティーの層にも受け入れられたようです。

経木の折詰も現在まで続けられております。

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画像の上部は弁松さんの広告。明治29年のものです。

形状は少し変わっておりますが、明治の頃のお弁当、その前の江戸の味、今でも弁松さんに脈々と受け継がれています。

 

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弁松さんのお店に入って正面には木製の看板とのれん。

看板は恐らく戦後のもの、これを持って大空襲を逃れた、とは聞いていない、と、樋口社長。弁松さんの八代目です。

 

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 六代目片岡愛之助さんごひいきのお店

 

店内右側、歌舞伎役者の六代目片岡愛之助さんのサインとお店前で撮られた写真。松嶋屋、ですね。

愛之助さん、弁松さんのお弁当をごひいきにされています。

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はっきりとした味を好まれる故の、「濃ゆい味」の弁松さん。

味を薄めることは簡単なこと、とおっしゃいます。しかしそれではせっかくの伝統の味がボケてしまう、とも。

そういった変化は弁松さんのお弁当ではなくなってしまう、と言われます。

よそでは真似できない味、この味を好まれるお客様が一人でもいらっしゃる限り、守り続けたいとの意志を持たれています。

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 東都のれん会につきまして

 

先日の日本橋鮒佐さんの記事でも申し上げましたが、日本橋弁松総本店さんも「東都のれん会」に加盟されています。・・・

樋口純一社長は東都のれん会さんのホームページ内「大旦那のちょっといい話」のコーナーで『<日本橋弁松総本店>樋口純一さんの「日本橋絵葉書びっくり展覧会」』を連載されています。

現在第5回まで載っています。全10~12回の連載となる予定、と伺いました。

樋口社長は個人的に「日本橋の古い絵葉書」を蒐集しておられ、それを厳選してご紹介しています。

ぜひご覧になってください。

東都のれん会さんのホームページはこちら

⇒  http://www.norenkai.net/

 

・・・次回はこのブログでの樋口社長の蒐集する日本橋絵葉書の展覧会、そして社長インタビューへと続きます。

 

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日本橋 弁松総本店

日本橋室町1-10-7

東京メトロ半蔵門線・銀座線 三越前駅 より徒歩3分

03-3279-2361

営業時間  平日 9:30~15:00

      土日祝 9:30~12:30

電話受付  平日 8:30~16:00

      土日祝 8:30~13:00

日本橋弁松総本店さんのホームページはこちら

⇒ http://www.benmatsu.com/

 

 

 

 

 

◆ 京橋物語6~曲がり角の先の街

[隅田の花火] 2019年3月 7日 09:00

京橋物語のエピローグ。今回が最後となりました。

前回まで → 【①】 【②】 【③】 【④】 【⑤】

 

下は、戦後昭和37(1962)年頃の、銀座から見た京橋の街並みです。

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写真提供:中央区立京橋図書館

 

京橋通りに立つ建物は、前回の最後の戦前絵葉書からほとんど変わっていません。南伝馬町だった頃の大正時代の面影は、太平洋戦争を乗り越えて、昭和30年代も続いていたことがわかります。

 

しかし、東京オリンピックを前にして昭和38年に京橋川の埋め立てが始まり、京橋が無くなり、そのあと京橋の街の建物も一つ一つ姿を変えていきました。

 

今からちょうど50年前の昭和44(1969)年5月、京橋で最も名が知られていた建物「第一相互館」の解体式が行われています。今までずっと、この京橋のランドマークを眺め続けてきた都民から、「せめて屋上にそびえる、あの赤レンガのドーム屋根だけでも残せないものか」という投書もあったようで、惜しまれながらの解体でした。しかし、関東大震災と太平洋戦争を乗り越えたこの頑丈な建物は、解体するだけでも難工事だったそうです。

 

一方、川に架かる橋のほうですが、橋が無くなった現在も京橋跡に残されているものがあります。親柱です。親柱は3基残されていて、そのうち2つは明治8年の石橋のものと伝わる、擬宝珠の意匠の親柱、もう1つはロケットのようにも見える大正時代架橋の親柱です。

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わりと人気のあるほうは、江戸時代の香りが残る明治時代の親柱で、大正時代の親柱は、その時代に馴染みが薄いせいなのか、デザインが異様に感じられてしまう方もいらっしゃると思います。

 

この親柱はいつも、南伝馬町の街と一緒でした。大正時代に南伝馬町と一体感を持って街並みを作り、震災を乗り越え、銀座の復興を見守り、太平洋戦争も一緒に乗り越えました。しかし今はその仲間がいなくなってしまい、ある意味ひとりぼっちでかわいそうな感じもします。

 

そんな大正時代の親柱ですが、このデザインはそもそも何をモチーフとしているのでしょうか?

 

現在の京橋跡橋詰の「京橋大根河岸おもてなしの庭」には、大根河岸の記念碑や江戸歌舞伎発祥の碑があるのはご存知の方も多いと思います。しかしこの場所に、大正時代架橋の京橋の「袖柱」が残されていることは、あまり知られていないようです。

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現在、公園の車止めとして、重要な役割が与えられているこの袖柱。最近の公園の改修で、位置が少し移動したようですが、これを見て昔の袖柱だと想像するのは難しいかもしれません。

 

 

しかし、このデザインは立派です。よく見てみましょう。真ん中に大きい半球がモコッとしており、まわりに小さいのが4つ、モコモコモコモコッとしています。これ、何かに似ていませんか?。これまで、この長い物語にお付き合いして頂いた方であれば、想像してしまうものがあると思います。

 

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昭和初期・写真提供:中央区立京橋図書館

 

私には、南伝馬町のビルの「3つのドーム屋根」にしか見えてきません。

 

としたら、親柱の方も単純に、南伝馬町のビルの屋根をモチーフにしているだけではないのでしょうか。袖柱のイメージをグィ~~ンと上に引き伸ばしただけではないかと。かつての大同生命ビルのドーム屋根がトンガリ屋根になったかのように。

 

まあ、想像するのは自由で楽しいもの。歴史というものは謎があって、正体を知らない方が想像する余地があって面白いものです。せっかくなので、もう少し想像してみることにします。

 

大正時代の親柱にはまだ仲間が残されています。

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京橋跡の橋詰にある、銀座一丁目交番です。銀座のハシから、銀座の街をいつも見守っています。

 

この交番建築は80年代に建てられたそうですが、屋根のデザインは、間違いなく、大正時代のトンガリ屋根の京橋の親柱です。

 

しかし、それだけでしょうか。

 

ひさしや窓のデザインを見ると、明治の銀座の煉瓦街ではなく、大正から昭和初期にかけて、銀座の復興を見守ってきた「曲がり角の先」の街並みが見えてきました。豊国銀行、大同生命ビル、第一相互館、星製薬、三十四銀行、千代田館・・・。そしてトンガリ屋根の京橋。

 

かつての橋と南伝馬町の街並みが1つの建物になり、今は交番として銀座の街を見守っている。そう思うと、この交番のデザインは、とても素晴らしく思えてしまうのです。

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銀座通りを歩くと「曲がり角の先」に見える街、それが京橋です。明治や大正の頃を図書館で調べようとした時、日本橋や銀座の本はたくさんあるのですが、その中間にある京橋の街の本はほとんど無く、調べ方も分からず、街のイメージや時代背景を掴むこともできませんでした。そう思っていた時、あるものを見つけました。絵葉書の写真です。絵葉書は、過去の街並みをイメージできる一級史料であり、しかも京橋の街は日本橋や銀座に負けない位の絵葉書が残されているのです。その京橋の絵葉書を集め、時代順に並べ、文章で紡ぎ合わせてみました。

 

この物語で、明治・大正・昭和初期の街並みをイメージしていただきながら、今の「曲がり角の先」の街を歩いて頂ければ幸いです。きっとその先に、素晴らしい何かが待っていることと思います。

おわり。

***

<京橋物語・参考資料>

『日本近代建築の父アントニン・レーモンドを知っていますか』同プロジェクト委員会・㈱教文館/2016

『松坂屋・銀座とともに八十年』㈱松坂屋/2004

『松坂屋百年史』㈱松坂屋/2010

『松屋百年史』㈱松屋/1969

『震災復興<大銀座>の街並みから(清水組写真資料)』銀座文化史学会/1995

『明治・東京時計塔記改訂増補版』平野光雄・明啓社/1968

『第一相互館物語』第一生命保険相互会社/1971

『人民は弱し官吏は強し』星新一・新潮社/1967

『中央区沿革図集京橋篇』中央区立京橋図書館/1996

『銀座通聯合会六十年史料』銀座通聯合会/1980

『中央区の橋梁・橋詰広場~中央区近代橋梁調査~』中央区教育委員会社会教育課文化財係/1998

『東京再発見~土木遺産は語る』伊東孝・岩波新書/1993

『彩色絵はがき・古地図から眺める東京今昔散歩』原島広至・㈱中経出版/2008

『歩いてわかる中央区ものしり百科』中央区観光協会/2018

『京橋図書館画像データ』HP内記載の資料詳細欄

『戦前絵葉書』自己所有(特派員の活動費を使い収集)

***

*建物の名前や社名は時代により変遷しているものがありますが、物語の都合上、統一して記載しました。

*文章と絵葉書の年代を極力合わせるよう努めましたが、物語の都合上、合っていないものがあります。

*画像のいくつかをクリックすると拡大画像や解説画像が現れるよう施しました。

 

ご参考・現在の京橋の街並みの記事 →こちら

 

 

 

東京スカイツリー 「桜特別ライティング」

[サム] 2019年3月 6日 14:00

DSC08778ELS'.jpgDSC02029'RS'G.jpg 3月1日、東京スカイツリーでは、「桜特別ライティング」の点灯が始まりました。

17:30~18:30は、白一色の、輝くように明滅する交点照明のシンプルな演出。

18:30~22:00は、桜の花びらが舞う美しさをテーマにしたライティング「舞」。塔体がピンク色の濃淡で彩られ、桜の花びらのように白色の交点照明が煌めきます。

22:00~24:00は、定番ライティングのひとつ「幟」を点灯。

この時期、周辺の観光スポットを "桜カラー" を見つけながら巡る「桜わくわくスタンプラリー2019」、参加型ダンスプログラム「ソラカラちゃんのサクラ☆ダンス!」、「SKYTREE ROUND THEATER」特別映像上映など、さまざまな春のイベントが予定されています。

中央大橋から、春らしい雰囲気を醸し出した色合いの輝きが望めます。

 

 

中央区平成31年度予算(案)を読んでみた

[wienerhorn] 2019年3月 6日 12:00

ほっとプラザはるみIMG_5710.jpg中央区のホームページに掲載されている平成31年度予算(案)に目を通してみました。
一般会計は、当初予算として初めて1,000億円を超えました。
人口増加、東京2020大会とその後、その先にある「20万都市」を見据えた基盤整備委などを考慮した予算とのことです。
新規の主要事業のうち、私が注目したのは、以下の事業です。

・地域ねずみ防除促進事業
・橋梁長寿命化修繕計画の改定
・地下鉄新線検討調査
・「江戸バス」フリーWi-Fiの整備
・能楽・歌舞伎鑑賞教室
・ブラジリアン・ユース・スクール・ゲームズへの参加
・常盤小学校(別館)の整備
・折り鶴プロジェクト(仮称)
・温浴プラザ「ほっとプラザはるみ」のリニューアル

特に、地下鉄新線、ほっとプラザはるみなどは気になります。
皆さんはどんな事業に関心がありますか?

 

 

特派員のひとり反省会 その4~第11回中央区観光検定より~

[えだまめ] 2019年3月 6日 09:00

子連れ特派員のえだまめです

その1→ /archive/2019/02/11-14.html

その2→ /archive/2019/02/11-15.html

その3→ /archive/2019/02/11-16.html

に引き続きまして、

2月3日(日)実施の「第11回中央区観光検定」の中から

気になった問題を取り上げたいと思います。


問34 毎年10月19・20日に開催される「べったら市」は中央区の秋の風物詩です。

10月20日に行われる行事の供え物を販売していた市が起源と言われます。

では、10月20日に行われるのが習わしだった行事とは次のうちどれでしょう。

ア.十九夜講  イ.酉の市  ウ.茅場町薬師詣  エ.恵比寿講


ちょっと中央区のことを勉強したりお散歩したことがある方にとっては

答え自体はそれほど難しくなく導けるのでは?と思いました。

正解は・・・私のスマホの中にあった過去のべったら市の写真を。

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右上の方にものすごく大きな提灯が。

その中に「恵比寿神社」と書いてあります。

「べったら市」は大伝馬町にある「宝田恵比寿神社」の門前で行われていた

「恵比寿講」が始まりなのです。

ちなみに「恵比寿講」とは。

商業・農業の紙である恵比寿様をまつる行事で、

神像や打出の小槌・懸鯛・切山椒などの縁起物を添えて

商売繁盛を祈願したものです。

そういえば・・・

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えだまめ、べったら市に行ったときに切山椒、買ってました。

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これも恵比寿講のお供え物だったから、あそこで売られていたのですね。

山椒のさわやかな風味が心地よかったのを覚えています。

というわけで、こたえはエ、なのです。


が。

なんでえだまめがこの問題で「気になる」だったのか。

「・・・十九夜講ってなに・・・??」

イ.の酉の市

中央区内でも人形町にある松島神社で行われていますし。

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(写真はいつかの年のお正月です)

以前に先輩特派員の「柴犬」さんが酉の市のことを取り上げてくださってましたしね。

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ウ.の茅場町薬師詣についてもたっぷり公式テキストで1ページを割いて

解説がくわしく載っていますよね。

茅場町にある智泉院にあった薬師如来像は江戸庶民の篤い信仰をあつめていました。

そし毎月8日と12日の縁日には植木市も開かれ、とても賑やかだったそうです。

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(こちらは茅場町薬師のあった智泉院の境内にある地蔵菩薩立像)


ですが、十九夜講については聞いたことが無かったので

ちょっと調べてみることにしました。

【子安神(こやすがみ)】

安産子育ての神。『日本三代実録』貞観 18 (876) 年7月 11日の条に

すでにその名が出ていることからもわかるように,古くからある信仰で,

広く各地で行われた。

現在では子安観音,子安地蔵,子安八幡など他の信仰と結びついたものが多い。

東日本には子安講といって,婦人が集って子安様を信仰しているところがあり,

月の 19日に集るので十九夜講とか十九夜様とも呼ばれている。

(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の記述より)


なるほど。子安神信仰の「講」だったのですね。

そして「べったら市」の行われる19日と日にちがかぶってる!

「間違い選択肢」にするにはある意味ぴったりだったかもしれません(笑)。

・・・そして、中央区内に子安神を祀るところはあるのかしら?

不勉強につき、えだまめは見つけられなかったのですが・・・。

都内だと「子安」の名前がつく神社もいくつかあるようですね。

今後はお散歩のときに神社の御祭神もチェックしておこうと思います。


そんなわけで「江戸時代の信仰について」

少しおさらいできた問題でした。

解けた問題でも掘り下げてみると発見はたくさんありそうです。

疑問に思うこと、引っかかることを見逃さずにいたいものですね。

 

 

KH GALLERY GINZA, HIROKO KOSHINO 

[銀造] 2019年3月 5日 18:00

KH ギャラリー銀座は、銀座4-3-13 和光並木通りビルB!にあります。 ビルの1階は、HIROKO KOSHINO さんの BOUTIQUE です。

 並木通りを散歩していて、「小篠弘子 X HIROKO KOSHINO アートとデザインの循環」というテーマの展示が開催されているのを見て、ギャラリーを訪問しました。

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 今回は、素敵な展示を拝見した後の写真撮影は許可して下さいました。

大胆な色彩で描かれたデザインと風景。 パリの街角に立った気分に浸れます。

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 3月16日まで開催されていますが、HPで休館日などをお確かめ下さい。http://www.kh-gallery.com/ginza