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「重量挙会館」なくなるかもよー!

[五月雨ジョージ] 2018年3月 8日 14:00

 以前「ディープな中央区"会館編"」でご紹介した、あの通称「重量挙会館ビル」(安部ビル)ですが、ついに解体もしくは改修が予定されているようです。

⇒前回の記事(/archive/2017/11/post-4731.html)

重量挙会館2.jpg

【重量挙会館の歴史】

 2014年に56年の歴史に幕を下ろした国立競技場。そこには重量挙げワールドカップメダリストや全日本出場選手用の練習場もありました。しかし国立競技場の終焉とともに重量挙げ練習場も場所を移しました。その代替の重量挙げ練習施設が、2014年3月にこのビルの2階に「日本橋重量挙倶楽部」としてオープンしたのです。「重量挙会館」という袖看板はその時に取り付けられたようです。


 なお、昨年(2017年)の段階で、日本橋重量挙倶楽部はすでにこのビルから撤退していることを確認しており、ビルの入口にあった「日本橋重量挙倶楽部」の名前は消されていました。「重量挙会館」の袖看板だけが寂しく残っていたというわけです。なので、今回のビルの解体・改修によってその看板もあとわずかで見られなくなります。

IMG_0888.JPG

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 そして、ビルの1階にあったお弁当屋さんが、なんとこの場所で21年間も頑張っていたという事実には、また別の意味で感慨深いものがあります。ご苦労様でした。

「ディープな中央区 "会館編"」に記事はこちら

→ /archive/2017/11/post-4731.html

 

 

日本橋中洲地区

[五月雨ジョージ] 2018年2月 6日 09:00

 日本橋中洲(にほんばしなかす)は、日本橋本町や日本橋人形町のように末尾に「町」は付きませんが、れっきとした東京都中央区の町名です。中州には「丁目」もありません。日本橋地区唯一の単独町名です。

2018-02-02_122152.jpg 

 

この中洲地域と、隅田川を挟んだ向こう岸(江東区)とはもともと「中洲の渡し」で行き来していたようです。現在は清洲橋で結ばれています。ちなみに「清洲橋」の名前は建設当時の両岸である深川区の深川清住町(現・江東区清澄)と日本橋区中洲町から付けられました。

 

 中洲はかつて文字通り隅田川の中洲でした。この一帯は「みつまた」(三ツ俣など)とも呼ばれましたが、どの流れを指してそう読んでいたかには諸説あるようです。いずれにしても隅田川、箱崎川、浜町川に囲まれた「中洲」であったことは間違いないようです。

 浜町川が隅田川に注ぐ付近は「浜町河岸」と呼ばれ、また、砂洲の埋め立てにより浜町と地続きになり、大川中洲新地が整備され、富永町と号し、江戸中期は花街のような賑わいを見せていた時期もあったようです。
 その後、度重なる洪水などから葦の生い茂る浅瀬に戻ったりしたようですが、明治になると再び埋め立て整備が行われ、真砂座が出来たりして料亭がひしめく娯楽街になっています。しかし、この繁栄は長く続かず、大正年間の頃には早くも衰退したと言います。

 

【江戸時代の中洲】
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 江戸時代の中洲の様子は、歌川広重の図絵で想像することができます。この絵は、江戸の名所を描いた広重の10冊の絵本の中の1枚。絵の右上にある詞書には

「新大橋より南の方、むかしこゝに茶坊ありて、その賑ひ、はんかたなし。今とり払ひて洲となれど、猶月雪の風景よし」

と紹介しています。

 
【金刀比羅宮】
金刀比羅宮1.JPG 

 清洲橋北西の袂には金刀比羅宮があります。境内を取り巻く玉垣には、歓楽街だったことを忍ばせる料亭の名がたくさん刻まれています。

金刀比羅宮3.JPG

 
【真砂座】
 真砂座4.JPG

 真砂座の劇場跡の石碑は、マンションのエントランス脇の植栽の中に、ひっそりと佇んでいます。この真砂座は、夏目漱石の『吾輩は猫デアル』が小山内薫によって脚色され演劇「猫」として上演された劇場としても知られています。「真砂座跡」の石碑の横には碑文には以下のように書かれた石板があります。

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  夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』は、
  小山内薫によって脚色された。
  伊井蓉蜂らが出演し、
  日本橋区中洲の真砂座跡で、
  明治三十九(一九〇六)年
  十一月三日から三十日にかけて
  上演された。
  平成十五年十月吉日
   早稲田大学第十四代総長
      奥島 孝康 識

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【女橋】
女橋1.JPG 

 中洲の町と隣の浜町との間にあった箱崎川。昭和46年(1971)埋め立てられて、現在は頭上を首都高が走っていますので、水路跡の面影が確認できます。
 その箱崎川には男橋と女橋、二つの橋が架かっていました。
 マンションの入口に埋め込まれた記念プレートには、以下のように刻まれています。

 

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おんなはし

     由来

           おんなはし
    女橋伊井を見むとてそのむかし
            幾たび渡りい往きける子ぞ
    真砂座の幟の音に誘はれて
            君もかへらぬわれもかへらぬ
    かにかくに中洲風流は
            おもしろし声舟もたまたま来て
    宵ながら闇ふかき夜は男橋
            君とわたりてゆくへ知らず
                吉井 勇「大川端」より
                        昭和二年

 

 日本橋中洲は明治四十年版「東京安寧」によれば「浜町三丁目
東南の大川中に築立たる市街地。安永元年一旦填築して三町余の
地を得、三股富永町と称せしが寛政元年之を撤し、後漸次洲渚と
なし、?葦叢生の地たりしが、明治十九年再び埋築して、今の町
名を加ふ」と記されている。
 当時、中洲は小さな島の町で、浜町との間には箱崎川をまたい
で、男橋と女橋の二橋が架せられていた。
 その後昭和の戦災で男橋は焼けおち女橋だけとなったが、箱崎
川埋立と高速道路の建設により姿を消した。
            女橋 明治三十四年十一月創架 木橋
               長さ二十一間 幅三-四間
            経費 六五九五円七〇銭
            その後昭和四年六月に架替
                 中洲青年部 吉田  尚
                       吉沢 伸明
                     贈   正志会一同

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日本橋そば三昧

[五月雨ジョージ] 2018年1月12日 09:00

 日本橋と名の付く地域だけでも、そば屋さんは50店以上あります。他の地域と比べても多い方だと思います。
 小生、生まれたところが「そばやうどんが打てなければ嫁にいけない」と言われた地域、だから物心ついた時からそばが大好き。体の3分の1はそばでできていますので、現在日本橋についつい足が向いてしまうのも納得できます。

十六文そば七1_天ざる(海苔なし).jpg

 そばの歴史は日本橋の歴史と言っても過言ではありません。今から約400年前、日本橋新縄町(現・日本橋本町4丁目)にあった東光院というお寺のお坊さんが江戸で初めてそば(そば切り)を食べたのだという文献を読んだ記憶があります。
 さらに、江戸における初めてのそば屋も日本橋に開店した「信濃屋」というお店だとか。この信濃屋では、その後「ぶっかけそば」(現在のかけそば)が生まれたさきがけでもあったようです。

 さて、今回は昨年7月から12月までの6か月間に食べ歩いた日本橋地域のそばをアップで紹介します。まだまだ全店制覇には程遠いですが、いずれも個性的なそばを出すお店です。

 皆さんも日本橋で、自分好みのそばをみつけてみませんか?

 

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▲左から、浹(日本橋小舟町)、あり賀(日本橋富沢町)、かねこ(日本橋浜町)、きよ川(日本橋)

 

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▲左から、SUSULU(日本橋人形町)、そば助(日本橋人形町)、たむら(東日本橋)、はせ川(日本橋人形町)

 

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▲左から、もとじま(日本橋人形町)、花吉辰(日本橋堀留町)、花乃蕎麦(日本橋堀留町)、亀島(日本橋茅場町)

 

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▲左から、吉田(日本橋室町)、御清水庵清恵(日本橋室町)、更科丸屋(日本橋茅場町)、更科丸屋(日本橋本町)

 

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▲左から、紅葉川(日本橋室町)、高松(日本橋堀留町)、志な乃*(東日本橋)、室町砂場(日本橋室町)

 

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▲左から、十六文そば七(日本橋小伝馬町)、江戸橋松月庵(日本橋)、松月庵(日本橋人形町)、須坂屋そば越佐庵(日本橋久松町)

 

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▲左から、水天宮長寿庵(日本橋蛎殻町)、誠や9号店(日本橋人形町)、双庵(日本橋人形町)、長寿庵(日本橋茅場町)

 

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▲左から、東京バッソ(日本橋馬喰町)、東嶋屋(日本橋人形町)、尾張屋(東日本橋)、浜町藪そば(日本橋浜町)

 

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▲左から、堀留屋*(日本橋堀留町)、満る賀(日本橋浜町)、利休庵(日本橋室町)、うさぎや(日本橋浜町)

 

※なお、*印は移転または閉店したお店です。

 

 

医学・薬学と中央区

[五月雨ジョージ] 2017年12月 7日 14:00

 日本医療の転換期となった江戸時代から現代にいたるまで、現在の中央区地域には様々な医療・医学・薬学の起点となった人や施設の痕跡を見ることができます。

 そして現代においても、中央区には医学・薬学に関連する多くの企業や施設が存在しています。

 主なところを写真に収めてきましたのでご紹介します。


(1)史跡


●玄冶店跡:三代将軍家光の痘瘡を全開させた幕府お抱えの名医・岡本玄冶の屋敷跡。(日本橋人形町)

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●桂川甫周の屋敷跡:杉田玄白らとともに『解体新書』の翻訳作業に参加した蘭方医の屋敷跡。(築地)

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●蘭学事始地碑:この地にあった中津藩奥平家の中屋敷で『解体新書』出版に取り組んだことに関する記念碑。(明石町)

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●土生玄碩の墓と石碑:シーボルトに眼科の治療法を学んだ蘭方医の墓と記念碑。(築地本願寺境内)

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(2)医学関連


●順天堂発祥の地(東日本橋・薬研堀不動院境内)

tf14_薬研堀不動院5_順天堂発祥の地1.JPG

●東京慈恵会医科大学発祥の地(銀座)

gk03_東京慈恵会医科大学発祥の地.JPG


●漢方医学復興の地の石碑:明治後期、当時消滅しそうだった漢方医学の復興に努めた和田啓十郎医師の偉業をたたえる石碑。(日本橋浜町)

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●海軍軍医学校跡:明治期、海軍軍医を養成した医学校跡。(築地)

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(3)その他


●シーボルト胸像:日本の蘭学発展に貢献したドイツ人医師の胸像。(築地)

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●薬祖神社:大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)を御祭神とし、無病健康・病気平癒をご利益とする神社。2016年9月に福徳の森に第三代目の薬祖神社が遷座。

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(4)現在、中央区に本社(本社機能)をおく主な製薬メーカー・団体など

kくすりミュージアム2.JPGt田辺三菱製薬2.jpgzゼリア新薬.jpgeエスエス製薬2.JPGaアステラス製薬1.JPG


・公益社団法人 東京薬事協会(日本橋本町)
・日本製薬株式会社(明石町)
・EAファーマ株式会社(エーザイ+味の素)(入船)
・大日本住友製薬株式会社(東京本社)(京橋)
・昭和薬品化工株式会社(京橋)
・明治製菓株式会社/Meiji Seika ファルマ株式会社(京橋)
・武田薬品工業株式会社(東京本社)(日本橋)
・山田製薬株式会社(日本橋)
・田辺三菱製薬株式会社(東京本社)(日本橋小網町)
・新日本薬業株式会社(日本橋小伝馬町)
・ゼリア新薬工業株式会社(日本橋小舟町)
・有機合成薬品工業株式会社(日本橋人形町)
・エスエス製薬株式会社(日本橋浜町)
・アステラス製薬株式会社(日本橋本町)
・岩城製薬株式会社(日本橋本町)
・興和株式会社(東京支店)・興和創薬株式会社(日本橋本町)
・第一三共株式会社(日本橋本町)
・鳥居薬品株式会社(日本橋本町)
・わかもと製薬株式会社(日本橋本町)
・日本ジェネリック製薬協会(日本橋本町)
・キッセイ薬品工業株式会社(東京本社)(日本橋室町)
・デンカ生研株式会社(日本橋室町)
・中外製薬株式会社(日本橋室町)
・トーアエイヨー株式会社(八丁堀)
・シオノケミカル株式会社(八重洲)

・・・・・

 

 

ディープな中央区「会館編」

[五月雨ジョージ] 2017年11月 4日 14:00

中央区にはさまざまな「○○会館」があります。一企業が所有している建物はもちろんですが、中には日本の業界団体の中心組織が運営管理しているものも多いようです。


中でも、私が勤務する会社の近くに2つの気になる会館がありましたのでご紹介します。


(1)重量挙会館
 清洲橋通り沿い、明治座から清洲橋方向に目を向けると「重量挙会館」の袖看板が目に入ります。以前、1階に"ほか弁屋さん"のある古いビルの2階に「日本橋重量挙倶楽部」がありましたが、現在は使用されておらず、袖看板はその名残りのようです。

 

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▲重量挙会館:日本橋浜町 2-28-1

 

 
(2)日本マーガリン会館
 全日本マーガリン協会(一般社団法人)が所有する建物で、日本食品油脂検査協会(公益財団法人)などが入っています。

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▲マーガリン会館:日本橋浜町3-27-8 

  

  

のほか、中央区には様々な業界の「○○会館」があります。例えば、食品関係だけ見ても、醤油会館、製粉会館、東京海苔会館、アミノ酸会館などがあります。

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▲醤油会館:日本橋小網町3-11

 

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▲製粉会館:日本橋兜町 15-6

 

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▲東京海苔会館:日本橋人形町2-35

  

 

の他の業種では、繊維会館、綿商会館、紙パルプ会館、全国燃料会館、鉄鋼会館などを見つけることができました。

 

綿商会館1.jpg
▲綿商会館:日本橋富沢町8-10

 

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▲鉄鋼会館:日本橋茅場町3-2-10

   

 

央区の街中を歩くとき、ちょっと建物の名前に気をつけてみませんか? 思わぬ施設を見つけたり、面白い名前に出会うことも散策する楽しみの一つになりますよ。

 

(アミノ酸会館:日本橋3-15-8、繊維会館:日本橋本町3-1-11、紙パルプ会館:銀座3-9-11、全国燃料会館:銀座8-12-15)

 

 

歌舞伎座で江戸の食文化を学ぶ

[五月雨ジョージ] 2017年10月 4日 09:00

 中央区銀座にある歌舞伎座には、その2階、3階にお食事処があります。歌舞伎のに幕間に食事をすることができ、幕の内弁当の他、お寿司などのメニューが取り揃えられています(※観劇日2日前までの予約が必要です)。

 

gk13_.歌舞伎座1.JPG そして、3階のお食事処「花篭」は、各種イベントスペースとしても利用されています。今回は、9月28日(木)に行われた歌舞伎座とちくま大学(筑摩書房)とのコラボセミナーに参加してまいりましたので、その内容を簡単にお伝えします。

  

 

 タイトルは「下級武士の食日記」

 

 江戸時代に紀州和歌山藩の勤番侍(単身赴任の武士)である酒井伴四郎が詳細に残した日記をもとに、ドラマの時代考証などでおなじみの青木直己先生が講師となって「江戸の驚きの食生活」について解説していただきました。

 

「食は江戸一、大坂二、京三」と言われるように、参勤交代などで全国各地から食材や料理法が集まった江戸の食べ物が一番おいしく、現在世界的に注目の"和食"は、江戸で完成したと言ってもよいようです。豊かな江戸湾のおかげで、海産物の漁獲量も日本一だったそうです。

 

 さらにインフラ整備や火事の多さから、全国から職人も集まり、人口100万人を超える大都市となった江戸の胃袋を支えるため、近郊に野菜の産地が生まれ、流通システムも効率化されていきました。練馬・亀戸の大根、小松川の小松菜、千住・砂村・大井の葱、谷中の生姜、目黒の竹の子、府中・砂村のまくわ瓜、等々‥‥。

170928_花篭4.jpg

 

 そのほか、以下のような江戸時代の食にまつわるさまざまな知識も教えていただきました。(上の写真は青木先生の著書)

 

単身赴任の下級武士は2、3人で一緒に生活していた。

●「二八そば」はやはり元々は値段の十六文を洒落て「二八の十六」と言ったところから始まった。そのほか、二七そば、二九そば、三七そば、三八そばがあったが、末広がりで縁起の良い八が好まれ、二八と三八(二十四文)が一般的。そば粉とつなぎの配合比で言われ始めたのは幕末になってから。江戸でそばが流行ったのは玉川上水に多くの水車があり、そこで大量のそばを粉に挽くことができたことが大きい。

●酒はほとんどの場合、お燗にして飲んでいた。お銚子(とっくり)を使うのは幕末以降で、それまでは"ちろり"(金属製)でお燗していた。人が集まれば、まず酒を酌み交わすのが当たり前だった。

●脚付き膳は食事用で、酒宴の席では脚なしの膳(お盆)を使っていた。

●獣肉(豚、猪、鹿など)も結構身近な存在だった。露店でも肉を売っていた。「薬食い(やくぐい)」といって、"獣じゃなく薬を食べているんだ"と言っていた。

●カツオはニンニクや生姜ではなく、からしで食べていた。

●江戸城に上る武士はほとんど弁当持ちで、外食はしなかった。武士が外食するときは手ぬぐいや頭巾で顔を隠していた。

●町人でも上層の人たちは外食は少なかったようだ。

●天麩羅は家庭で揚げるのはご法度だった(火事になるから)。屋台で売っていた。

●油の普及で夜の食事が一般的になった(灯が取れるようになったことで)。

●お茶は男のたしなみだった。

●店では座敷に上がるか、縁側に腰掛けるかして飲食していた。時代劇でよく目にするようなテーブルと樽桶の椅子はなかった。

 

・・・・・・・・・・・・

170928_花篭1.jpg そして、講義の後は食事の時間です。幕末の江戸で食べられていた下級武士の食事の一部を再現した料理をいただきました。この料理は、青木先生指導の下、花篭でこの日のためにわざわざ特別に作っていただいたものです(右写真)。

 

 歌舞伎座の館内お食事処「花篭」では、毎月さまざまなイベント・勉強会を開催しています。お食事処だけに、イベントには食事やお土産等が付き、満足度の高いイベントが多いようです。

 

 また、花籠は、会議・セミナー・懇親会・各種パーティなどのスペースとして、一般の方のご利用もできるということです。