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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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ル テアトル銀座 で「男の花道」始まる

[北遊人] 2012年7月14日 08:30

 7月1日~7月5日 大阪公演、7月7日8日 岐阜公演を経て7月12日~26日までル テアトル銀座で東京公演が始まりました。

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左がル テアトル銀座の入り口、右に3階の案内とポスターが見えます。

この題材は、歌舞伎その他の舞台で何度も取り上げられています。

今回は、原案  小国英雄

     脚本  斎藤雅文

     演出  マキノ雅彦

     音楽  宇崎竜童

     出演  中村福助、中村梅雀 他  です。

  名女形加賀屋歌右衛門を中村福助、名医土生玄碩を中村梅若が演じています。

 御二人の共演、宇崎竜童の音楽と楽しませて頂きました。

 最後にもう一度福助さんの踊りが見られるかと期待しましたが残念でした。

                             

 

 

日本橋浜町の清正公寺

[北遊人] 2012年4月 3日 08:30

今年は桜の開花が遅れています。

そのお陰か遅い梅が見られます。

日本橋浜町公園の一角にこじんまりとしたお寺が見られます。

江戸時代、細川藩の下屋敷であったこの地に文久元年(1861)細川斉護が熊本の日蓮宗本妙寺から勧請、創建したものとのこと、熊本本妙寺の別院です。

勿論、祀られているのは"加藤清正公"です。

加藤清正公は名君であり皆から敬愛されていたので、二代忠広が改易された後封ぜられた細川忠利は、大変気を使ったようです。それにより領民からの信頼をかち得たともいわれています。

現在の堂宇は昭和34年(1959)再建されました。

 浜町公園横の通りからのものです。

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 椿と梅が競っています。

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 正面へ回ってみます。

 これが全景です。

 右側の白梅も満開です。

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 お参りした帰りにもう一枚、

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熊本城の場内に加藤神社がありますが、都内では芝白金の"覚林寺"が有名です。

こちらは、熊本藩中屋敷に寛永8年(1631)日延上人により創建とのこと。

清正公さんは、日本各地で広くお目にかかれます。

 

 

やげん堀商店会主催宝探しイベント

[北遊人] 2012年3月28日 08:30

東日本橋2丁目地域 街路灯完成記念イベント と銘打ち宝探しゲームが行われます。

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 ★宝探し実施期間  

  平成24年3月28日(水)~31(土)

 ★景品

  1等  中央スタンプ券 1万円ー10本

  2等  中央スタンプ券 5千円ー20本

  3等  図書券      3千円ー40本

  参加記念品(応募先着順、お一人様1本)

  極薄ポケットフラット傘ー400本

 

ヒントを廻り 薬研堀不動院 、紀文堂 、アスカブックセラーズ の3か所に報告する。

範囲は、東日本橋2丁目に限定されているようです。

街路灯と共に舗道もすっかり整備されています。 ume 013.JPG

清杉通り側からの薬研堀不動院参道です。

 

 

 

旧日本橋両国の薬屋さん

[北遊人] 2012年3月16日 08:30

 浅草御門の説明板を探しに浅草橋へ行ってみました。(江戸地図には神田川の南にある)

交番横に"郡代屋敷跡"の説明板はあるがそれらしいものは無い。

橋を渡った台東区側に、浅草見附跡の碑があり、そのそばに旧町名由来案内として旧浅草橋の説明板がある。


 江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓、門、橋などを築き江戸城の警護をした。

 奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋に当たることから築かれた門は

 浅草御門と呼ばれた。

 また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。

 ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(1636)のことである。

 浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。

(台東区)

 

 神田川を眺めながら中央区側に戻ると、通りの左側一帯は東日本橋2丁目、旧日本橋両国に当たります。両国の地名の残っているのは両国橋のみかなと横を見ると郵便局がある。
その名も"両国郵便局"です。両国の名が残っていました。

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 靖国通り渡ろうと前方を見ますと、立派な建物が目に入ります。

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通りを渡って近付きますと何やら懐かしい看板が見えます。

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お店の前にはこんな看板が出ています。

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お店のオーナーさんに伺ったところ、玉置薬局さんは創業明治38年とのこと。"ベルツ水"についてお尋ねすると、ドイツから東大に来られた先生の名前からとったものとのこと。

調べてみますと、Prof.Dr.Erwin von Baeltz MD PhD  のようです。


 ドイツ人医師ベルツ博士は、明治9年に政府の招きで来日し、東大医学部の前身である東京医学   校で26年間生理学、病理学、内科学、産婦人科学の教鞭をとり、日本医学のために多大な貢献をした、、、とあります。


 "ベルツ水"は、明治16年、箱根富士屋ホテルに滞在中、女中の手が荒れているのを見て処方したのが始まりとのこと。

また草津温泉を世界に紹介してくれた方でもあります。

 いわゆる明治新政府により先進的学問、技術を日本に教えるために招かれました。

日本人の荒井花子さんと結婚し、功績に対して勲一等瑞宝章、旭日大綬章を受けられています。

博士の顕彰碑は、東大構内、同図書館、草津温泉西の河原にあるそうだ。

 なお日本人に見られる"蒙古斑"の命名者である。

 ハインリヒ フォン シーボルトの親友でもあったとのこと。

 

 店内にはサイズ別のベルツ水やはちみつ、一般の薬品も、またタバコやドリンク剤も求められます。

 店内は中央に階段が二つ両サイドに見え、奥には立派な調剤室があるようです。

 カメラは嫌いなようですので、外側を撮影させていただきました。

 

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アーチ型のデザインが素敵ですね。

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壁の黒く汚れているのは、空襲による焼夷弾の跡とのことです。

 明治を残してくれている貴重な建物です。 

 そういえば、シアトル在住の方が"バンクーバーの骨董屋でお宅の金看板があった"と教えてくれた

とのこと。老舗の話はスケールが違いますね、、、。

 

 

真砂座跡碑

[北遊人] 2012年2月21日 08:30

 中央区循環バス、"江戸バス"北循環コース"中州"で下車しますと、道路沿いのマンション脇に"真砂座跡"の碑が見えます。右肩には"漱石「猫」上演の地"の添え書きがあります。

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 右側の説明を読みますと、

  夏目漱石の「吾輩ハ猫デアル」は、小山内薫によって脚色された。

  伊井蓉峰らが出演し、日本橋区中洲の真砂座跡で、
  明治三十九年(1906年)十一月三日から

  三十日にかけて上演された。

    平成十五年十月吉日

     早稲田大学十四大学長 奥島孝康 識    とあります。

 

地域案内図 AREA MAP を見ますと、日本橋浜町から清洲橋へ向かい、高速下を抜け隅田川近く、右に折れた所です。

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 真砂座は、明治半ばからは新派の名門劇場だったようです。も一つの劇場は、"本郷座"とのこと。座頭は、伊井蓉峰であり、小山内薫は脚本や演出を担当していたとのこと。

 小山内薫は、その後市川左団次と結びつき、自由劇場、築地小劇場などを舞台に活躍します。


説明版では、明治39年の漱石の"猫"について書かれているが、37年に小山内薫訳「ロメオとジュリエット」、38年には、尾崎紅葉の"金色夜叉"が上演されている。

永井荷風は、若いころ隅田川で泳いで水着姿で真砂座の芝居を見物している、とのこと。


この頃は花街であり周辺は賑っていたことでしょう。

ここから清洲橋通りへ出ると、向かい側に鳥居が見えます。

金刀比羅宮のようです。

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 右側の碑を覗いてみると、この地にあった船玉琴平宮が関東大震災で焼け、昭和29年再建とある。


 入って左手に"記念碑"がある。

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 後ろに廻ってみると、

昭和61年に建てられたもので"中州築立百周年の記念碑"と判る。

表の題字は 鳩山威一郎 の書とある。

説明書きを紹介する。


  中州は特別な歴史を有する。

 江戸時代の中州は須磨明石に勝る江戸随一の納涼観月の名所であった。

 明和年間に築立され三股富永町として繁栄したが寛政年間には埋め戻された。

 明治十九年、中州は再び築立されて旧日本橋区中洲町となる。

 明治、大正、昭和時代を通し、大川端の地として小山内薫等多くの文化人が往来し、

 その作品の舞台となる。

 明治の築立から本年四月で百周年を迎えるにあたり、ここに記念の碑を建立する。

    昭和六十一年八月吉日

 

周囲の塀に賑いの跡が見られる。

Masagoza 021.JPG Masagoza 020.JPG 現在は、箱崎川も埋め立てられて、高速道路下の公園にかつての菖蒲橋の名残りの"あやめ"の名が残されているのみです。 

 

 

 

平家物語と水天宮

[北遊人] 2012年1月19日 08:30

NHK大河ドラマ "平清盛" がスタートしました。


日本橋七福神で、また安産・子育ての御宮として信仰を集めている"水天宮"は日本橋蛎殻町2丁目にあります。

 先ず東京水天宮の本殿です。

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 参道階段下に"御由緒"を書いた説明板があります。

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紹介します、

 

 <御 由 緒>

御 祭 神  天御中主大神 (あめのみなかぬしのおおかみ)

        安徳天皇   第八十一代

        建礼門院   高倉天皇の中宮、安徳天皇の母君 御名 徳子

        二位ノ尼   平清盛の妻 御名 時子 安徳天皇の祖母 建礼門院の母


 当社は文政元年(一八一八)港区赤羽に在った有馬藩邸に当時の藩主有馬頼徳公が領地(福岡県久留米市)の水天宮の御分霊を神主に命じて藩邸内に御分社を祀らせたのが創めです。

久留米の水天宮は今からおよそ七百年程前に創建されたと伝えられております。 彼の壇ノ浦の戦で敗れた平家の女官の一人が源氏の目を逃れ久留米付近に落ちのび、一門と共に入水された安徳天皇、建礼門院、二位の尼の御霊をささやかな祠をたてて御祀りしたのが創めです。


江戸時代の水天宮は藩邸内に在った為、庶民は普段参拝できず門外より賽銭を投げ参拝したと言います。 ただし毎月五日の縁日に限り殿様の特別の計らいにより藩邸が開放され参拝を許されました。その当時ご参拝の妊婦の方が鈴乃緒(鈴を鳴らす晒しの鈴紐)のおさがりを頂いて腹帯として安産を祈願したところ非常に安産だったことから人伝てにこの御利益が広まりました。 その当時の水天宮の賑いを表す流行り言葉に "なさけありまの水天宮" という洒落言葉があった程です。


明治維新により藩邸が接収され有馬邸が青山に移ると共に青山へ、更に明治五年十一月一日現在の蛎殻町に御鎮座致しました。


関東大震災では神社も被災しましたが、御神体は隅田川に架かる「新大橋」に避難し難を逃れました。その後御復興も相成り、昭和五年流れ造りの社殿が完成、時移り昭和四十二年現在の権現造りの社殿となりました。



 それでは本宮の方をネットで覗いてみましょう。

 福岡県久留米市瀬下町に在る" 全国総本宮 水天宮 "の画像です。

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 祭神・由緒の説明文を紹介します、

  御 祭 神

    天御中主神 (あめのみなかぬしのかみ)

    安徳天皇 (あんとくてんのう)

    高倉平中宮 (たかくらたいらのちゅうぐう)

    二位の尼 (にいのあま)

 

  由 来

寿永四年(西暦1185年)三月二十四日 壇ノ浦の戦の後、高倉平中宮に仕えていた官女 按察使局(あぜちのつぼね)伊勢は千歳川(現筑後川)の辺り鷺野ヶ原(さぎのがはら)に遁れ来て初めて水天宮を祀った。この頃は未だ筑肥の界も明らかでなくただ荒漠たる原野であったという。今日、川を隔てて下野村があるが、近くの鷺ヶ鼻と言う地名は当時の古名が残ったものであると言われる。


伊勢は後に剃髪して名を千代と改め、里人に請われるままに加持祈祷など行っていたが、御霊験のあらたかにして、尊崇するもの日増しに多くなり尼御前と称え慕い社名を尼御前神社と呼ばれるに至った。


その頃中納言 平知盛 卿の孫(従四位少将 平知時の四男 右忠すけただ)肥後より千代女を訪ね来てこれを養いその後嗣とした。 千代女逝去の後、里人その墓を営み松を植えて千代松明神とあがめ奉った。 同女は大和国石上布留神社(現石上神宮)の神官の娘にして、墳墓は久留米市内株式会社アサヒコーポレーションの正門前に在り、奥津城祭(墓前祭)は毎年春に奉仕されている。

当社は古来農業、漁業、航海業者間に信仰が篤いのみならず、子供の守護神、安産の神として或いは病難、火災などの除災招福の御霊験高きを以て聞こえ、畏くも明治天皇御降誕の砌、孝明天皇は当宮へ御祈誓遊ばされた。

かくの如く御霊験あらたかなるを以て明治元年十月三日、禁裏御祈祷所(勅願所)に仰せ付けられた名社である。


 鎮 座

筑後川のほとり鷺野ヶ原に建久初年(西暦1190年)創建せられ、その後兵禍を避けて諸所に移し、還御の遺跡と伝えられる所は幾多あり。 慶長年間に至り久留米市新町一丁目に遷り、更に慶安三年(西暦1650年)9月 久留米藩第2代藩主 有馬忠頼公は社地と社殿を寄進し現在のところに遷し奉った。

爾来御神威弥増に輝かせ給い、第9代藩主 有馬頼徳公殊に尊崇せられ、文政元年11月1日江戸三田の藩邸に御分霊を勧請された。その後明治4年現在の中央区日本橋に御遷座されこれが現在の東京水天宮である。

このほか、国内・ハワイ等各地に鎮座する水天宮はすべて当社を本宮とする御分霊社である。因に当宮境内には幕末の激しい動乱期に勤皇派の旗頭として、王政復古に一生を捧げた明治維新の先覚者 真木和泉守保臣先生(第22代の水天宮宮司)を祀る真木神社がある。

 

 以上のとおり、平清盛 の二番目の妻 時子(二位の尼)との間に生まれた 徳子が 高倉天皇に入内し生まれたのが安徳天皇である。つまり水天宮には、安徳天皇、その母徳子(建礼門院),祖母に当たる時子(二位の尼)が祀られているのです。

平清盛は最初の妻(明子)との間に平重盛、時子(二位の尼)との間に平宗盛、平知盛、盛子、徳子をもうけています。


「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり、、、、」で始まる"平家物語"はどなたも御存じと思います。


建礼門院は壇ノ浦の戦で平家が敗れた時一門の者と一緒に入水したが助けられ、京都大原の寂光院で一生を送ります。 平家物語では、後白河法皇が建礼門院を訪ねる"大原御幸"は有名なくだりです。


歌舞伎でお馴染の"鬼界ヶ島"は、鹿ケ谷事件により俊寛たちが流刑になる話ですが、御赦免船が参ります、、、。この恩赦は、安徳天皇を妊った建礼門院の安産祈願によるものとのことだった、、。

水天宮に祀られている御三人に想いを馳せながらテレビドラマを楽しみたいと思います。