一枚の写真が目につきました。京橋あたりを写した古い写真です。
大正8年(1919)5月7日東宮殿下(皇太子)であった昭和天皇の成年式(注1)を祝うために京橋の橋詰めに設置された2基の「奉祝門」が高々と写っています。
市電が通る京橋通りは、昔も人力車や荷車が往来する賑やかな通りだった様子が分かります。この4年後に関東大震災でビルや家が倒壊してしまいます。
さて、そして写真をよくご覧ください。ビルの上に「カブトビール」の文字看板が上がっています。
カブトビールは今は目にしませんが当時は有名だったようですね。それでカブトビールについて少し調べましたのでご紹介します。
カブトビールの発祥
「カブトビール」は、愛知県知多半島にある半田市で生まれました。
今でもビール工場の赤レンガの建物(注2)が3分の2ほど残っていて、観光スポットにもなっています。
明治時代から太平洋戦争末期に掛けて「カブトビール」を製造して、全国に送り出した工場です。
昨年(2010年)9月、赤レンガの建物の内部が一般公開されたそうです。
知多半島は古くから醸造産業が盛んで、お酢の「ミツカン」(本社・愛知県半田市)をはじめ、酒、味噌、たまりなどの発酵酒や調味料が育まれました。
「カブトビール」は明治32年(1899年)に丸三麦酒株式会社が発売をはじめました。
アサヒ(大阪)、サッポロ(札幌)、キリン(横浜)、エビス(東京)の大都市を控えた4大メーカーに対して、半田という地方都市から果敢に挑戦しました。
なんと明治33年(1900)のパリ万博では金牌を受賞しています。
大手メーカーに対抗したカブトビールは趣向を凝らした宣伝を展開しました。20世紀初頭には全国5位のシェアを占めるようになったそうです。
その後、赤レンガの建物でのビール製造は昭和18年(1943年)に中止され、第二次世界大戦中に中島飛行機製作所の衣料倉庫として使用されました。そして終戦後になってもカブトビールの製造は行われませんでした。
カブトビールの復刻
知多半島の半田の「赤煉瓦倶楽部」が復刻プロジェクトを進め、明治・大正時代の「カブトビール」を平成15年(2005年)6月4日に3000本限定で復刻させることに成功しました。
復刻カブトビールは、明治のビールの特徴の「赤褐色、味が濃くてホップが強く、熟成3カ月、アルコール度は強め」を持っているそうです。瓶も当時に近い形を選んだとのこと。
東京で1軒だけですが復刻のカブトビールを飲むことができます。
中央区新富町にある店名「ハントコ」Cafeです。店の名前「ハントコ」は、ビール工場のあった愛知県知多半島からとっています。
http://r.gnavi.co.jp/p606501/
http://blog.hantoco.jp/
是非、一度幻のビールをご賞味あれ!
なお、カブトビールの名称の由来は、ビールを喉で勢いよく飲む「かぶる」がなまったという説や、日清戦争後の戦意高揚のために勇ましい「兜」の商標を採用したなど諸説あります。
(注1)成年式とは、ある年齢に達した人を、子供から一人前の人間として社会的に認めるために行う種々の儀式で、一般に15歳から18歳までに行われていました。
貴族社会では加冠(かかん)とか元服(げんぷく)等とよばれ、士族社会では烏帽子着(えぼしぎ)、農民の間では男性は名替(ながえ)祝い、女性の場合は鉄漿付(かねづけ)祝い、ユモジ祝いなどとよばれたそうです。
(注2)赤レンガのビール工場は、日本橋をデザインした妻木頼黄(つまき・よりなか)氏が設計。建物は平成16年(2004年)に国の登録有形文化財に登録されました。レンガの数は東京駅、北海道庁、横浜赤煉瓦倉庫に次いで日本で4番目だそうです。なお、壁面の煉瓦には第二次大戦中のP51の機銃掃射の痕が残っています。