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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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中央通り「はな街道」

[O傘] 2011年5月14日 16:17

季節の花々で彩る中央通りの「はな街道」。ご存じの方も多いと思います。

はな街道マップ.jpg京橋から日本橋そして室町まで、歩道の車道寄りに何気なく花壇が続いています。

IMG_9883compcol.JPGのサムネール画像この春は色とりどりのパンジーが行き交う人の目を楽しませ、心を和ませてくれています。

 


「はな街道」は、平成14年(2002年)12月に江戸開府400年を記念し1年間の社会実験としてスタートし、

その後「名橋「日本橋」保存会」・「日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会」の後援により、

国土交通省東京国道事務所との共催でNPO法人「はな街道」が、水奉行(地元沿道の町会員のボランティアによる花壇の水撒きや歩道の清掃活動)・花奉行(年4回、季節の花々を咲かせる費用を提供する人や企業・団体)、そして町会・商店会・地域活性化団体などの協力を得て実行しています。

IMG_9343tcolcomp.JPGのサムネール画像 160_2.jpgのサムネール画像 IMG_9332tcolcomp.JPGのサムネール画像


常盤小学校の児童も地域ボランティアとして花壇の花植え体験を通して中央通りの美化に一役買いました。 昨年まで、夏には真っ赤なサルビア、秋にはフレンチゴールドの花で中央通りが彩られました。 

IMG_9338compcol.JPG 花壇を良く見ると、花奉行水奉行になった企業・団体や、花壇が所属する町会の名前が記された小さなパネルが花壇ごとに立てられています。


IMG_9352tcolcomp.JPGのサムネール画像のサムネール画像  IMG_9902tcolcomp.JPGのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像   IMG_9931tcolcomp.JPGのサムネール画像   

  IMG_9370comp.JPGのサムネール画像のサムネール画像

そして、パネルにはもう一つ、立春・春分・秋分・夏至・冬至などの「二十四節気」(にじゅうしせっき)や、季節の気象の動きや動植物の変化を知らせる「七十二候」(しちじゅうにこう)の漢字熟語が書いてあり、その読みと意味が記されていて季節を表す熟語として大変参考になります。

江戸時代の人が季節を感じながら自然を受け入れながら生活を営む様子が察せられ、思わず立ち止まって読んでしまいました。これを知っていると博学だと思われるかも・・・。

 中央通りの「はな街道」、花を楽しみながら時々はよく見てみましょう。新発見があるかもしれません。


 

 

 

「江戸通り」のコブシが満開!!

[O傘] 2011年4月 7日 09:00

今年も「江戸通り」のコブシ並木の白い花が一斉に満開を迎えました。

  IMG_8967tcomp.JPG写真は室町3丁目交差点付近の江戸通りのコブシです。

 

  IMG_8963tcomp.JPGコブシは漢字で「辛夷」と書き、別名は「田打ち桜」。

早春に他の木々に先駆けて白い花を枝いっぱいに咲かせますが、

今年は三月から四月初めにかけて寒かったので開花が遅れ、今満開を迎えています。

是非ご覧ください。見事ですよ!


 

IMG_8968colcomp.JPG

 

コブシの花蕾(からい)は鼻炎や鼻づまりなどに効果があるそうで、生薬名は「辛夷(しんい)」といい漢方薬に配合されるそうです。また、花は香水の原料にもなります。


 

IMG_8969comp.JPG

 

千 昌夫さんが唄う「北国の春」(白樺 青空 南風 こぶし咲くあの丘 北国の ああ 北国の春・・・)を思いだしました。

震災の被害が大きかった東北でももうすぐ満開を迎えることでしょう。 

東北がんばれ!!!

 

 
  

 

 

「江戸古町祭り」の開催

[O傘] 2011年3月 5日 08:30

ポスター.jpg3月12日(土)17:30から日本橋・神田エリアの中央通り(神田駅高架下より日本橋北側交差点まで)を解放して「江戸古町(えどこちょう)祭り」が開催されます。

IMG_8518tcomp.JPG該当する中央通りの区域では、提灯や交通規制の看板など、すでに祭りの準備が行われています。


IMG_8509ccomp.JPG提灯には、「江戸古町」、そして「祝/日本橋架橋100周年」の文字が・・・。

 「江戸古町祭り」では、
・「江戸古町賑(にぎ)わい屋台
・「江戸の駕籠(かご)乗り
・「江戸古町名店ラリー
・「江戸古町はしご酒大会
などのイベントが用意されています。

主催は、「東京都商店街振興組合連合会/江戸古町祭り実行委員会」、後援は中央区と千代田区、および各区の観光協会・商店街連合会です。

 

 神田・日本橋・京橋エリアですが、江戸の寛永年間(1624-1644)より前にできた江戸時代初期の古い町で、このエリアを総称して「江戸古町」と呼ぶそうです。

この江戸古町が、江戸を世界一の都市にまで発展させていく源(みなもと)となったところで、400年の時を超えて、「江戸古町祭り」は現代の神田・日本橋エリアの商店街の活性化を目指しています。

一体どんなお祭りなのか、百聞は一見にしかず・・・足を運んでイベントに参加してみてはいかがでしょうか。

詳細は下記のホームページにアクセスしてみて下さい。
http://www.edokocho.jp/about/index.html


 

 

 

 

幻のビール ~カブトビール~

[O傘] 2011年2月25日 17:00

一枚の写真が目につきました。京橋あたりを写した古い写真です。

大正8年(1919)5月7日東宮殿下(皇太子)であった昭和天皇の成年式(注1)を祝うために京橋の橋詰めに設置された2基の「奉祝門」が高々と写っています。

IMG_8350tcomp.JPG市電が通る京橋通りは、昔も人力車や荷車が往来する賑やかな通りだった様子が分かります。この4年後に関東大震災でビルや家が倒壊してしまいます。

さて、そして写真をよくご覧ください。ビルの上に「カブトビール」の文字看板が上がっています。

カブトビールは今は目にしませんが当時は有名だったようですね。それでカブトビールについて少し調べましたのでご紹介します。

カブトビールの発祥
半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場).jpg「カブトビール」は、愛知県知多半島にある半田市で生まれました。

今でもビール工場の赤レンガの建物(注2)が3分の2ほど残っていて、観光スポットにもなっています。

明治時代から太平洋戦争末期に掛けて「カブトビール」を製造して、全国に送り出した工場です。

昨年(2010年)9月、赤レンガの建物の内部が一般公開されたそうです。

知多半島は古くから醸造産業が盛んで、お酢の「ミツカン」(本社・愛知県半田市)をはじめ、酒、味噌、たまりなどの発酵酒や調味料が育まれました。

半田カブトビール工場t.jpg「カブトビール」は明治32年(1899年)に丸三麦酒株式会社が発売をはじめました。

ポスターt.jpgアサヒ(大阪)、サッポロ(札幌)、キリン(横浜)、エビス(東京)の大都市を控えた4大メーカーに対して、半田という地方都市から果敢に挑戦しました。

なんと明治33年(1900)のパリ万博では金牌を受賞しています。


大手メーカーに対抗したカブトビールは趣向を凝らした宣伝を展開しました。20世紀初頭には全国5位のシェアを占めるようになったそうです。

その後、赤レンガの建物でのビール製造は昭和18年(1943年)に中止され、第二次世界大戦中に中島飛行機製作所の衣料倉庫として使用されました。そして終戦後になってもカブトビールの製造は行われませんでした。

カブトビールの復刻 

  IMG_8461tcomp.JPG知多半島の半田の「赤煉瓦倶楽部」が復刻プロジェクトを進め、明治・大正時代の「カブトビール」を平成15年(2005年)6月4日に3000本限定で復刻させることに成功しました。


復刻カブトビールは、明治のビールの特徴の「赤褐色、味が濃くてホップが強く、熟成3カ月、アルコール度は強め」を持っているそうです。瓶も当時に近い形を選んだとのこと。

東京で1軒だけですが復刻のカブトビールを飲むことができます。

中央区新富町にある店名「ハントコ」Cafeです。店の名前「ハントコ」は、ビール工場のあった愛知県知多半島からとっています。
http://r.gnavi.co.jp/p606501/

http://blog.hantoco.jp/

是非、一度幻のビールをご賞味あれ!

なお、カブトビールの名称の由来は、ビールを喉で勢いよく飲む「かぶる」がなまったという説や、日清戦争後の戦意高揚のために勇ましい「兜」の商標を採用したなど諸説あります。

 (注1)成年式とは、ある年齢に達した人を、子供から一人前の人間として社会的に認めるために行う種々の儀式で、一般に15歳から18歳までに行われていました。
貴族社会では加冠(かかん)とか元服(げんぷく)等とよばれ、士族社会では烏帽子着(えぼしぎ)、農民の間では男性は名替(ながえ)祝い、女性の場合は鉄漿付(かねづけ)祝い、ユモジ祝いなどとよばれたそうです。

(注2)赤レンガのビール工場は、日本橋をデザインした妻木頼黄(つまき・よりなか)氏が設計。建物は平成16年(2004年)に国の登録有形文化財に登録されました。レンガの数は東京駅、北海道庁、横浜赤煉瓦倉庫に次いで日本で4番目だそうです。なお、壁面の煉瓦には第二次大戦中のP51の機銃掃射の痕が残っています。
 

 

 

◎特派員の商店街訪問(第12回) 両国橋、薬研堀不動院とともに/東日本橋やげん堀商店会

[O傘] 2010年12月 7日 10:30

商業の中心地・ 中央区 には元気な、にぎわい商店街が数多くあります。

地元から愛され、住民とともに栄え、親しみのある商店街を、特派員が訪ねて、見て、聞いた商店街の"今日そして明日"。そのイキイキとした魅力と活力、とっておきの情報などをお伝えしている、 中央区 の商店会・商店街を紹介する「特派員の商店街訪問」第12弾です。

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◎特派員の商店街訪問(第12回)◎

両国橋、薬研堀不動院とともに/東日本橋やげん堀商店会

 

 

日本橋紀文堂のご主人で商店会会長の尾崎和雄さんにお話を伺いました。

 

まず始めに商店会の区域について

東日本橋やげん堀商店会は、薬研堀不動院のある「東日本橋二丁目」の小売や問屋などの物販店の集まりだそうで、中央区の北東の端にあります。

IMG_7401coltcomp.JPG
街の東側には隅田川が流れいて両国橋があり、北側の神田川には隅田川の出口に柳橋や浅草橋があります。

 

IMG_7716coltcomp.JPG薬研堀不動院へのアクセスの特徴的な地点があります。そこはめずらしい6差路です。ここは、不動院のある「不動院通り」、「柳橋通り」、「仲通り」が交差しているポイントです。

交差点にガソリンスタンドがあるので、そこを目標に行くとわかりやすいようです。

 

②街の歴史的なお話を伺いました。お店に張ってある江戸時代の地図を見ながらお話して下さいました。

この地区には、両国橋のこちら側の橋詰(はしずめ)には、江戸の大火の火除け地として両国広小路がつくられ、芝居小屋や茶見世、屋台などで賑わった江戸でも屈指の盛り場だったそうです。

 

また、神田川の柳橋の両側には、江戸時代から有名な料亭があったそうです。

 

昭和の前半ごろまでは、芸者さんが、柳橋の料亭に来た旦那衆を連れて、よくこの界隈に買い物に来て賑わったそうで、黒塗りの車もいっぱい来たそうです。

 

両国橋の花火大会では、この付近の隅田川べりに桟敷(さじき)が設けられ、川舟もぎっしり並んで、大勢の見物客が押し寄せて活気を呈したそうです。

 

最近は、商店街にコンビニや居酒屋チェーン店が進出し、またビル化による人口減少や問屋街の低調などにより小売店が少なくなったそうですが、昔ながらの伝統を守ってつづけているお店もあるとのこと。

 

③商店会のお店について伺いました。

この東日本橋二丁目には、江戸時代や明治初期から続いているお店があるそうです。

 

大木屋「七色唐辛子」t.jpg IMG_7431coltcomp.JPG七色とうがらしの「大木唐からし店」は江戸中期の創業といわれ、尾崎会長はこの辺では最も古いのではないかとおっしゃっていました。

 

 

 

 

 

IMG_7718coltcomp.JPGほりつ茶舗(ちゃほ)」さんは、享保2年創業でここも古いです。

今の東日本橋「すずらん通り」に店を構えて90年という老舗(しにせ)の日本茶専門店です。

 

リトルマーメイド」さんは、6差路の交差点にありますが、前身は明治時代に創業したパン屋さんだったそうで、ミルク・ホールでも有名だったそうです。


IMG_7762tcolcomp.JPG日本橋中学の前の合鴨(あいがも)料理の「鳥安(とりやす)」さんは、創業明治5年の老舗で、

 

合鴨料理店 「あひ鴨すき焼きコース」ただ一品だけを、140年近く出し続けている有名な老舗の一つだそうです。

 

IMG_7473coltcomp.JPG尾崎会長が経営する「日本橋紀文堂」さんは、人形焼や煎餅などの焼き菓子で有名です。

 

ご主人の尾崎会長は「うちは歴史的には新しい方です。」とおっしゃっていますが、昭和のはじめの創業で、70年ほどになるそうです。

これらの古いお店には、昔の両国橋、薬研堀不動院のあるこの町の古い写真が飾ってあるそうで、お店にいったら是非それも見てほしいそうです。

 

IMG_7758coltcomp.JPG尾崎会長は、大正初期の薬研堀町会の手書きの地図や、両国の花火大会の時の隅田川岸のお客で賑わう桟敷(さじき)の様子を撮った大きな写真を、上の階のご自宅からわざわざ出してきて見せて下さいました。

(貴重な地図や写真を見せていただき、ありがとうございました。)


IMG_7725coltcomp.JPG
この商店街には薬屋さん「玉置」が一軒あります。玉置さんのビルに津村順天堂で販売した有名な婦人薬「中将湯」の看板がありました。

IMG_7415tcomp.JPG

そしてこの薬研掘には、江戸時代には医者も多く、天保年間に蘭方医学塾「和田塾」ができ、「順天堂大学発祥」の地となりました。

 

 

 次にこの地区のイベントについて伺いました

この東日本橋やげん堀商店会は、いろいろイベントを行っているそうですが、薬研堀不動院の縁日に当たる毎月28日の前後に行うそうです。

 

イベントで有名なのは、「やげん堀移動商店街」と「やげん堀 納めの歳の市」です。 IMG_7770coltcomp.JPG今年の「第12回やげん堀移動商店街」は1029日(金)、30日(土)に開催されました。

 

(ミス中央)薬研堀移動商店街.JPG薬研堀不動院前でのイベント・ワゴンセール等を行い、中央区観光大使・ミス中央の皆さんも応援に来ています。

 

やげん堀 納めの歳の市」は、42回になるとのことですが、間もなく1227日(月)~30日(水)の3日間の開催です。

 

 

IMG_4804coltcomp.JPG正月用品を売る東京の「歳の市」は、12月に入り「深川八幡」を皮切りに、「浅草観音」、「神田明神」、「湯島天神」などをめぐり、

最後に「薬研堀不動院の歳の市」で納めますので、「やげん堀 納めの歳の市」と呼ばれるそうです。

 

昔は羽子板市(はごいたいち)も回ってきましたが、最近はなくなったそうです。

 

正月用品の市は、いわゆる「がさ市」とも言われたそうで、「やげん堀 納めの歳の市」は、昭和50年頃は200店が出店し、清杉通りまで店が溢れたそうです。

IMG_4805tcolcomp.JPG最近は、問屋さんにも協力を依頼して衣料品などを破格値で売る「大出庫市(おおでこいち)」を併設しているそうです。


IMG_7730coltcomp.JPGまた、この薬研堀地区は「講談発祥の地」でもあり、毎月、不動院縁日の28日に「薬研堀縁日講談の会」を不動院本堂で開いています。一度いってみたいですね。 

 

⑤ 最後に今後の商店会活性化について伺いました

活性化計画の第一弾として、薬研堀不動院のすぐ近くの6差路をこの商店会のランドマークとなる地点としてとらえ、

その交差点の道路だけ「江戸紫」の色に着色することを計画しているそうです。

(業者作成のデザイン図面やイメージ図をご自宅から持ってこられて説明されました。)

 

東京スカイツリーの夜の照明の色「江戸紫」とのコラボレーションだそうです。薬研掘不動院へのアクセスの便にも一役買いそうです。

 

また、近くの歩道には、江戸時代の大門(おおもん)の柱に似た、上部が金色に彩られた柱もたくさん配置するそうで、江戸風の華やかさを演出するようです。

 

来年(2011年)の9月完成を目標にしているとか、新しいランドマークができて地域の進化・活性化に一役買いそうです。

 

【取材後記】

売り場での立ち話のような取材になりましたが、尾崎会長は信仰心の篤いお祭り好きの江戸っ子とお見受けしました。

 

取材の途中、お店に買い物に見えた馴染みのお客さんや、町会のことや冠婚葬祭で相談にお店にお見えになった方との会話を横で聞いていますと、とても頼りされる、たのもしい存在であることを感じました。

 

きっとこの「東日本橋やげん堀商店会」の活性化に向けてお力を発揮されるのではないかと思います。

 

IMG_7755tcolcomp.JPG取材中に、小さなお孫さんを連れて人形焼を買いにきた近所のおばあちゃん・・・何となく古き良き時代の住民のつながりも感じました。

(写真の中で、お客さんの対応をしていらっしゃる方が尾崎会長です。)

 

紀文堂さんの七福神人形焼き、栗入りのワップル他を買いました。それぞれつぶし餡(あん)、白餡、こし餡入りでそんなに甘くなく、包んでいる皮がしっかりしていておいしかったです。

 

暮れの「納めの歳の市」の準備などでお忙しいこの時期にご対応いただきありがとうございました。

 

【参考】薬研、薬研堀、薬研堀不動院

薬研.jpg薬研(やげん):、深くV字にくぼんだフネと木製のハンドルのついた円盤状のローラーからなる薬作りの道具。

 

薬研堀(やげんぼり):正保2年に大きな堀を持つ徳川幕府の米蔵「矢ノ倉」ができましたが、元禄11年の火災で焼失し、堀の一部が残り、底がV字形で浅く「薬研」の形に似ていたので「薬研堀」の地名になったと言われています。

堀が隅田川に出るところには「元柳橋」が架けられていました。神田川に「柳橋」ができたので、「元」をつけて呼ぶようになったそうです。

 

薬研堀不動院:天正13年、紀州・根来寺の大印僧都が、豊臣秀吉勢の兵火を避けるため、尊像を背負って東国へ下り、隅田川のほとりに堂宇を建立したのが薬研堀不動院のはじまりだそうです。

現在は大本山川崎大師平間寺東京別院であり、古くから目黒、目白と並んで江戸三大不動として知られています。

 

 

 

 

ガード下の「今川小路」 ~レトロな居酒屋横丁~

[O傘] 2010年12月 3日 11:15

中央区の北西の端をJRがわずかにかすって通っています。そのガードの一つにレトロな雰囲気を残している居酒屋横丁「今川小路」(いまがわこうじ)があります。

 

地図.gif中央区の端を通りぬけるJR線には、3つのガード(架道橋)があります。

南側から順に、

大きな外堀通りを通す「龍閑橋(りゅうかんばし)架道橋」、

 

「本銀橋(ほんしろがねばし)架道橋」、

 

そして今川小路のある「白幡橋(しらはたばし)架道橋」です。

IMG_2220coltcomp.JPG今川小路には、車が通りにくい狭い道の両側に、昔ながらの小さな居酒屋さんが軒を並べます。

 

神田、有楽町、新橋などのJR駅付近のガード下は、ご承知のようにレストランや居酒屋さんなどが多く見受けられますが、

 

中央区内のガード下の飲食店としては、この今川小路が唯一です。

 

実はこの今川小路のお店ですが、

 

南側中央区本石町で、

北側は千代田区鍛冶町(神田)

 

に所属し、中央の道路が区境になっています。

 

上の地図ですと、ちょうど日本橋本石町の北端(区境)と交差しているJRのガード下に「今川小路」があります。

 

 

この道路は、中央通りや昭和通りを突っ切って、昔の距離の単位で八丁(町)(約870m)ほど、ほぼ直線的に浜町方面(北東)に伸びています。

 

また、この道路は、江戸時代の日本橋川と浜町川を結んでいた龍閑川(江戸時代の名称は「神田堀」)といわれた川を埋め立ててできた道路です。【参考】

 

龍閑川は、昭和22年まで当時の「日本橋区」と「神田区」の区境川(くざかいがわ)でした。その後、昭和25年に龍閑川を埋め立てられてできた道路(龍閑新道)が、中央区千代田区の区境道路になりました。

 

IMG_7313tcolcomp.JPG   IMG_7312coltcomp.JPG   IMG_7310tcompt.JPG  

 

この付近のJRガードの名称にも、龍閑川の橋名や当時の町名が使われています。

IMG_5475colcomp.JPGこの白旗橋ガード下の今川小路には、

昭和26年頃から居酒屋さんなどが並び始め、

最盛期には30軒ほどの小さな居酒屋さんが集まったそうです。白幡橋ガードの大きさは、幅が約10m、長さが約50mで、

ここに居酒屋さんがひしめき合っていたそうですが、

最近、東北縦貫線の工事のため、今川小路の東側半分の約20mには残念ながら店舗がなくなってしまいました。

それでも今川小路の西半分には、中央区側に「神田(じんた)」、「まりせ」、「里(さと)」、「耕(たがやす)」、「があどした」の居酒屋さんが、

そして千代田区側に「大松(だいまつ)」、「柳水(りゅうすい)」などの居酒屋さんが健在で、昭和30年頃のレトロな雰囲気でお店を続けています。

IMG_7319colcomptcol.JPGその中の、中央区側の一番東側に位置する居酒屋さん「神田」(じんた・・と読む)に入りますと、8人も座ると満席になるL字型のカウンターがあり、常連さんが手作りの料理に舌鼓を打ちながら 人気の焼酎の緑茶割りを飲みつつ、ママさん相手に話に花が咲いていました。

通信カラオケもあり、古い歌から新しい歌まで幅広く歌われているそうです。最近は勤め帰りの若い人も増えているとか。

 

また、この今川小路は、昭和30年頃の時代設定で、夜の巷(ちまた)の居酒屋横丁のシーンの映画撮影によく使われるそうです。

 

居酒屋「神田」には、俳優の「根津甚八(ねず じんぱち)」さん、「村田雄浩(むらた たけひろ)」さん、そしてママさんのスリー・ショットの写真が飾ってありました。今川小路でのロケのときに寄ってくれたんだそうです。

 

中央区で唯一つのガード下の居酒屋横丁「今川小路」、レトロな雰囲気を今に伝える「今川小路」に足を運んでみてはいかがでしょうか・・・、中央区にもこんなところがありました。

 

 

【参考】 龍閑川と橋

龍閑川は、江戸時代(天和年間とも元禄4年(1691年)ともいわれますが)に掘られたそうで、当時は「神田堀」(別名:銀(しろがね)堀、神田八丁堀、火除(ひよけ)堀)といわれました。

十返舎一九(じゅっぺんしゃ いっく)の傑作「東海道中膝栗毛(ひざくりげ)」の弥次さん・喜多さんは、この神田八丁堀に住んでいた想定になっています。

 

この堀は幕末の安政4年(1857年)に一度埋め立てられ、明治16年(1883年)に再び掘られて川の名前を「龍閑川」としました。

 

龍閑川の名前の由来は、神田堀時代の日本橋川の出口にあった「龍閑橋」が明治16年の再掘まで捨てられずに残っていて、その名に因んだようです。龍閑の名前は、お城の接待役坊主の「井上龍閑」が近くに住んでいたからと言われています。 IMG_7382colcomp.JPG龍閑川は、その後次第に水質が悪化して下水化したため、昭和25年に川底におおきな下水管を埋設してそこを流すようにして、川は埋め立てられて道路(龍閑新道)になり、今日に至っています。

 龍閑川の埋め立てについては、龍閑新道を今川小路から東に進み、昭和通りに出るところに区立地蔵橋公園があり、そこに埋め立ての経緯を記した碑があります。

 

 

龍閑川の橋ですが、武揚堂で出版した「地図物語 あの日の日本橋」によれば、明治40年頃の龍閑川には、日本橋川との合流点から浜町川の合流点に向かって順に、①「龍閑橋」、②「白幡橋」(乞食橋)、③「西仲之橋」(主水(もんど)橋)、④「今川橋」、⑤「東仲之橋」、⑥「地蔵橋」、⑦「火除(ひよけ)橋」(待合橋)、⑧「九道(くどう)橋」、⑨「甚兵衛(じんべい)橋」、⑩「竹森橋または玉出(たまで)橋」(幽霊橋)の10の橋が架けられていたそうです。

なお、()内の名称は、その橋の江戸時代の呼び名で江戸切絵図(嘉永3、近江屋五平板)などに載っています。

IMG_7698coltcomp.JPGその中の「今川橋」ですが、江戸時代に地元の名主「今川善右衛門」から名付けられた橋と言われ、

日本橋から中山道を歩いて最初の橋が今川橋でした。「熈代勝覧」(きだいしょうらん)や「江戸名所図絵」に描かれていて、

今川橋の付近には瀬戸物屋が多かったようです。(上の写真は、ちくま学芸文庫「新訂 江戸名所図会」より)

IMG_3484coltcomp.JPG現在は、今川橋の跡に碑が立っています。また、「大判焼き」や「回転焼き」などともいわれる、例の「今川焼き」ですが、

この橋のそばで焼き菓子を売っていたところ「今川焼き」の名がついたとも言われています。

 

 

今川焼風景.jpg大正15年(1926年)に架けられたコンクリート製の「龍閑橋」が、今川小路の道路が外堀通りに出るところに保存されています。

 

    IMG_3480coltcomp.JPG IMG_3479tcolcomp.JPG 

日本橋川の龍閑川の入り口と思われる川岸に、埋設された下水道の水門を見ることができます。

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