[巻渕彰/写楽さい]
2015年12月 4日 09:00
佃島に鎮座する「佃天台子育地蔵尊」は、狭い路地のなかに瀟洒な地蔵堂と大きな銀杏樹に守られた異空間として知られている。堂内には信徒から寄進された提灯などが一列に飾られ、いつもきれいな供花が手向けられ、信仰の深さが伝わってくる場所である(写真上:中央に線刻の地蔵尊)。
ところでこの佃地蔵尊の建立がいつ頃なのか、縁起を読んでもよく分からない。磨かれた石板に描かれた線刻の地蔵像をよく眺めると「石地蔵尊八万四千体造立発願主 天台地蔵比丘妙運拝写」とある。これを頼りに、縁起に書かれている「浄名院」を訪ねてみた。
浄名院(じょうみょういん)は台東区上野桜木二丁目にある(写真中央)。寛永寺から北へ、谷中霊園の入口に位置している。「東叡山浄名院」と掲げられた享保期の山門をくぐると本堂が目に入る。その左側に地蔵堂がある。江戸六地蔵の一つ、消失した深川永代寺の第六番地蔵が再建されていた。「地蔵寺」とも呼ばれている。
同寺境内には一面に石造の地蔵尊が建立されていて圧巻の情景である(写真下)。見渡すと3種の地蔵像があるようだ。呼び方は分からないが、彫刻された地蔵立像、墓石形状の地蔵像、佃と同じく自然石に刻まれた線刻の地蔵像である。佃の縁起に「自然石に刻まれたのは珍しい」とあるがこの寺では多く見られ、決して珍しくない。
「八万四千体地蔵」の門柱脇に設置された台東区教育委員会の説明板に解明の鍵があった。そこから抜粋すると、「同寺は寛文6年(1666)寛永寺三十六坊の一つとして創建された。地蔵信仰の寺となったのは第38世地蔵比丘妙運和尚の代からで、明治9年浄名院に入り、明治12年(1879)、八万四千体建立の大誓願をした」とある。
そうすると佃地蔵尊も、明治期に浄名院の妙運和尚が写し取ったという地蔵尊絵が配られて、その後に線刻されたことになろう。佃地蔵尊の縁起には江戸中期からの記述があり、ことさら由来が綴られているが、浄名院を参詣すると建立の謎が解ける。佃地蔵尊に「天台」が付くのは浄名院の宗派からだと納得がいく。@巻渕彰
[CAM]
2015年12月 3日 20:00
銀座で生まれた企業は多い。例えば、資生堂、大成建設(発足時;大倉組商会)、ヤマト運輸(大和運輸)、電通(日本広告株式会社)、大日本印刷(秀英舎)等であるが、東芝もそうであることはあまり知られていない?のではないか。
創業者・田中久重(1799-1881)が、明治8年7月、現在の銀座8丁目9番15号に、店舗・住宅併用の工場を構えた。この「田中製作所」が、日本最初の電信機工場であり、東芝の発祥である。この場所は、開港場・横浜と鉄道が結ばれた新橋駅が至近であるという地の利があった。田中久重は「万般の機械弘安の依頼に応ず」という看板を出し、ここで、国産の電信機はじめ、生糸試験機などを考案・製作した。
創業者・田中久重は明治14年に82歳で亡くなったが、その後は、養子が二代目久重を名のって継いだ。
明治15年になると、鉄道馬車が新橋と日本橋間に開通する。そうしたなか、同年11月には、二代目久重がアーク灯点火、電灯の実験宣伝を行い、電気事業は急速に発展する。
田中製作所は、この年、海軍省からの発注もあり、銀座工場が手ぜまになったため、芝浦に1万平米の土地を得て、工場部門を移転させた。銀座では事務・販売を主とするようになったが、関東大震災によって焼失したために移転に踏み切った。
そして、昭和14年には、芝浦製作所(田中製作所から改称)と東京電気が合併して、東京芝浦電気となった。東京電気も、その前身である白熱電燈球製造株式会社は、現在の銀座4丁目4番地に事務所兼工場を設けたのが発祥となっている。
(以上は、主として、原田弘『銀座 煉瓦と水があった日々』白馬出版 1988年発行に拠った。)
[之乎者也]
2015年12月 3日 14:00
八丁堀の船入堀口、諸国からの船が出入りする港(=湊)にあったことから湊稲荷と呼ばれた鉄砲洲稲荷神社。
【鉄砲洲稲荷神社本殿(工事開始前に撮影)】
11月の連休過ぎから平成の大改修が始まりました。工事期間は2017年3月までで、社務所の解体撤去ならびに参集殿の新築、富士塚の改修・復元工事などが行われます。既に神社境内は白い仕切り壁で区切られ、普段は広々とした中庭には工事関係車両などが入り込んで正面入口からの出入りはできません。
【鉄砲洲稲荷神社入り口(現在の状況)】
したがってこの間、神社境内の富士塚、百度石や力石などは見ることは出来ませんが、本殿への参拝については鉄砲洲児童公園側の入口から出入りが出来るようになっており、こちらを使って行うことになります(夜間の参拝は当分できません)。
【鉄砲洲稲荷神社社務所(工事開始前に撮影)】
既に社務所は中の荷物等が運び出され、建物の解体が始まっています。この社務所は昭和12年建築の非常に趣のある木造建物でしたので、解体撤去されるのは少々残念ですが、御鎮座1180年にわたる悠久の鉄砲洲稲荷神社の歴史(承和8年(西暦841年)の創建)から見れば止むを得ないことでしょう。前述の通り、鉄砲洲稲荷神社は江戸時代には稲荷橋東詰(現在の下水道局桜橋第二ポンプ所近く)にありましたが、明治元年(1868年)に築地外国人居留地が開設されたことに伴い現在地に移転しています。
【名所江戸百景(歌川広重):鉄砲洲稲荷橋湊神社】⇒絵中央に見える水路は八丁堀(桜川)、橋は稲荷橋。
今回の改修工事により社務所は工事終了後鉄筋コンクリート(RC造)の参集殿に生まれ変わります。従来の、味のある銅板葺・入母屋造りのデザインは無くなってしまうようですが(以下、完成予想図参照)、湊地区を代表する文化財を未来に伝えていくために必要な更新ということでしょう。
【鉄砲洲稲荷神社参集殿・社務所(完成予想図)】
なお、工事はあと1年4ヶ月ほど続きますので、その間毎年1月第2日曜日に行われる「寒中禊(みそぎ)」などのイベントは例年通り行われるのかどうか心配ですが、こちらについては(未だ正式には決まっていないそうですが)隣接する鉄砲洲児童公園で行われることになりそうです。壁で囲まれた神社境内ではなく吹きっさらしの広場なのでかなり寒そうです。氏子の皆さん頑張って下さい!
【鉄砲洲稲荷神社】
所在地:〒104-0043 中央区湊1丁目6-7
電話:03-3551-2647
交通:都バス「東15」・江戸バス「南循環」鉄砲洲停留所下車目の前。中央区コミュニティサイクル「B01鉄砲洲児童公園」サイクルポートそば。
[お江戸のマーシャ・堀内]
2015年12月 2日 14:00
お金の歴史がわかる貨幣博物館、30年ぶりのリニューアルです、
以前の展示と比べてとてもわかり易く、体験コーナーもあり、明るくなっています。
室町界隈の散歩に如何でしょうか?(入場無料)
まず、お金の歴史、特に日本のお金は、6世紀ごろ中国の銅銭などを取り入れつつ模倣し、
独自の貨幣、そして紙幣を作ってきたということが判り易くパネル展示があります。
→思ったことは、江戸時代は、封建制度の基に、貨幣経済という資本主義の基礎を
確立した、それが今の日本の基礎を作ったのだという事でした。
そして実際の金、銀、小判などがまじかに見ることが出来る工夫があり、
一億円の札束を手で持って実感することもできます(それほど重くはないのですね、、)。
学校の課外授業にはもってこいなのかも知れません、どなたにもお勧めです。
ここを訪問したからといってお金持ちにはなれませんが、今まであまり気にせずに
手にして来ていたお金を知ることで、なにやら心が柔らかくなったような気分になりました、
建物の温度が暖かかったせいでしょうか?!
貨幣博物館 http://www.imes.boj.or.jp/cm/