[CAM]
2015年12月 6日 20:00
於竹大日如来縁起
於竹大日如来は 寛永十七年(十八才の時)山形県庄内よりでて 当時の江戸大伝馬町馬込家の召使いとなるその行いは何事にも誠実親切で一粒の米 一きれの野菜にも決して粗末にせず貧困者に施した そのため於竹さんのいる勝手元からはいつも後光がさしていたという 出羽の国の行者乗蓮と玄良坊が馬込家をおとづれ「於竹さんは羽黒山のおつげによると大日如来の化身である」とつげた。主人は驚き勝手仕事をやめさせ 持仏堂を造り その後念仏三昧の道に入る これが江戸市中に拡がり 於竹さんを拝まうと来る人数知れずと言う
於竹さんの詠んだ歌に
手と足はいそがしけれど南無阿弥陀仏
口と心のひまにまかせて
延宝八年五月この世を去る 行年五十八
五代将軍綱吉公の母堂桂昌院の歌に
ありがたや光と共に行く末は
花のうてなに於竹大日
於竹さんが愛用し貧困者が市をなしたと言う有名な於竹井戸はこの地にあった
昭和四十六年五月吉祥
史蹟 於竹大日如来保存会
小津資料館
(Internet Museumサイトから)承応二年(1653年)小津清左衛門長弘が伊勢松阪より出府し、江戸大伝馬町(現在本社社屋の地)に紙商を開業して以来、時代とともに私たちの生活をより豊かに発展させてきた紙と小津の歴史の関わりを展示公開する「小津史料館」を本社社屋の二階に開設しております。
現在までに東京都中央区登録有形文化財として保存指定を受けた古文書千二百余点のうち約千点を順次展示公開しています。小津三百六十年の歴史をご覧ください。
馬込勘解由の碑 (べったら市の由来)
徳川家康による江戸城築城のおり、寳田村が城の拡張により移転のやむなきに至った。譜代の家臣である馬込勘解由が寳田村の鎮守の御本尊を奉安して住民と共に現在地に移転した。
この大業を成し遂げた功により、勘解由は江戸の筆頭名主となり年間役料は二百十両の最高であった。後に三伝馬取締役に出世し、徳川家繁栄を祈願された恵比壽神を授けられ、寳田神社に安置して江戸の平穏を祈願した。
御神体は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられ、以来商業の守り神として十月二十日の恵比壽講の前夜に市が開かれるようになった。
恵比壽講に使う鯛や神棚などと共に江戸名物の浅漬大根が売られ、売り子が大根に付いた糀を若い女性の着物に近づけ「ほら べったら べったら 買わないで通ると着物にくっ付くよ」と戯れたことからべったら市の名がついた。
徳川家康公江戸出府四〇一年を壽ぎ、ここに馬込勘解由の功績を讃え碑を建立するものである。
塩河岸
所在地 中央区日本橋本町2ー4先
かつて、この付近には、江戸初期に川を埋めてつくった堀の西堀留川がありました。この堀は、江戸橋から北に入り、この通りの東側で船入堀が西へと曲がっていました。カギ状に曲がったその先には、道場橋と雲母橋が架かり、その橋の間にあった北岸を塩河岸と呼びました。江戸時代、ここに塩問屋があったことから、そう呼ばれるようになったといいます。
『江戸名所図会』には、「伊勢町河岸通 米河岸 塩河岸」と題された挿絵が掲載され、往時の様子を知ることができます。明治十年には、東京府によって対面南岸が「南塩河岸」、北岸を「北塩河岸」と定められました。
平成十二年三月
中央区教育委員会
三浦按針屋敷跡
ウイリアム・アダムスは西暦1564年イギリスのケント州に生まれ、慶長5年(1600)渡来、徳川家康に迎えられて江戸に入り、この地に屋敷を給せられた。造船・砲術・地理・數學等に業績をあげ、ついで家康・秀忠の外交特に通商の顧問となり、日英貿易等に貢献し、元和6年(1620)4月24日平戸に歿した。
日本名三浦按針は相模國三浦辺見に領地を有し、またもと航海長であったことに由来し、この地も昭和初年まで安針町と呼ばれた。
熈代勝覧
(三井不動産サイトから) 名橋「日本橋」保存会および日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会は、日本橋を訪れる人々に街の魅力を実感していただくために、約17メートルにわたる「熈代勝覧」の複製絵巻を、東京メトロ「三越前」駅地下コンコース壁面に本日(平成21年11月30日)設置しました。
「熈代勝覧」絵巻とは、文化2年(1805年)頃の日本橋から今川橋までの大通り(現在の中央通り)を東側から俯瞰し、江戸時代の町人文化を克明に描いた貴重な絵巻物(作者不明)で、原画はベルリン国立アジア美術館に所蔵されています。今回の複製絵巻の設置により、日本でも「熈代勝覧」を鑑賞することが可能になりました。
「熈代勝覧」とは、「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」という意味で、本絵巻には「熈代勝覧 天」と記載されており、「天地人」の全三巻の可能性がありますが、他の巻は現在所在不明です。題字は当時著名な書家であった佐野東洲の描いたもので、絵巻には沿道にある88軒の問屋や店に加え、行き交う1,671人、犬20匹、馬13頭、牛4頭、猿1匹、鷹2羽ならびに屋号や商標が書かれた暖簾、看板、旗、などが克明に描かれています。なお、1806年の「丙寅(ひのえとら)の大火」で建物の多くは焼失したとされており、その直前の貴重な記録といえます。
名橋「日本橋」保存会および日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会は「熈代勝覧」を日本橋の歴史、文化を後世に伝える貴重な作品と捉え、ベルリン国立アジア美術館から制作、設置の許可を得て、江戸東京博物館による全体監修のもと複製いたしました。
複製絵巻の絵画部分は、江戸東京博物館が所蔵するカラーポジフィルムから約1.4倍に拡大した印刷用の画像データを作成し、原画を忠実に再現するため和紙にも鮮明な印刷が可能なプリンタを使用し、和紙8枚に出力した後、1枚仕立てに加工しました。絵画を囲うパネルには、建物や職業、商売など江戸時代の町人文化に関する解説を記載しています。
[CAM]
2015年12月 5日 14:00
関東大震災の記念塔
(写真は2015年12月1日撮影、以下同じ。内蔵小型ストロボのため光量が不足で悪しからず。後ろは、宝くじを求める人 の列です)
この塔は大正十二年(1923年)九月一日午前11時58分 東京を中心に関東一帯をおそった大震災を記念するため広く浄財を集めて十周年の昭和八年九月一日に建てたものでわが国彫刻界の巨匠北村西望先生が「平和の神」を象徴して制作されたものであります 標語の「不意の地震に不断の用意」は当時朝日新聞社が全国から懸賞募集した十余万の応募の中から選んだもので長くこの日をしのび二度と惨害をくりかえさぬよう注意を喚起するものであります
昭和三十五年九月一日
震災共同基金会 朝日新聞厚生文化事業団
震災の被害状況
死者99,331 負傷者103,733 行方不明43,476
倒壊家屋 全壊128,266 半壊26,233 焼失家屋447,128
銀座の柳 碑
銀座の柳は明治十年頃に植えられ銀座の象徴とされたが三度の変遷を経て昭和四十三年銀座通りの改修と共に姿を消した
このたび西銀座通りが東京都のシンボルロードとして歩道拡張と共に御影石鋪装を施し面目一新されたことを機に並木を柳に代え銀座の象徴復活を果たした
西銀座通会はこの柳が末長く人々に愛され親しまれ続けることを願いここ数寄屋橋公園に碑を建立する
平成十一年十一月
西銀座通会会長 柳澤 政一
銀恋の碑
デュエットソングの定番中の定番「銀座の恋の物語」(昭和36年/1961 作詞 大高ひさを、作曲 鏑木 創 歌 石原祐次郎 牧村旬子)の歌碑(銀恋の碑)はその名を後世に残すため、平成二年七月、西銀座通会、銀座通連合会、テイチク(株)によって建立された。
東京慈恵会医科大学発祥の地
明治十四年男爵高水兼寛英国医学教授ノ目的ヲモッテコノ地ニ成医会講習所ヲ開設ス
コレ東京慈恵会医科大学ノ濫觴ナリ
創立百年ヲ記念シコノ碑ヲ建ツ
昭和五十五年五月一日
第七代学長 名取禮二
和光
(WAKOサイトから) 銀座四丁目の交差点、銀座のランドマークとして知られる和光本館。時計をはじめ、宝飾品、紳士・婦人用品、室内装飾品など、ご用意しているお品は、お客様の声を取り入れて独自に開発した、あるいは国内外から厳しい目で選び抜いた、高い品質を誇るものばかりです。長い歴史と伝統の中で培ってきた上質へのこだわりとおもてなしの精神を、大切にしております。
どうぞ和光で、ゆっくりとお買物をお楽しみください。
[CAM]
2015年12月 5日 12:00
日本橋
日本橋由来記
日本橋由来記
日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府譜大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンデ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス舊記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富買豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雜鬧沸クカ如ク橋上貴賎ノ來往晝夜絶エス富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ日帆近ク碧波ト映帶ス眞ニ上圖ノ如シ
明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ
昭和十一年四月
日本橋區
国指定重要文化財
日本橋
所在地 中央区日本橋一丁目~日本橋室町一丁目
日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。
現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治四十四年に完成しました。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道元標は、昭和四十二年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同四十七年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
平成十年に照明灯装飾品の修復が行われ、同十一年五月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。
平成十二年三月
中央区教育委員会
日本橋魚河岸跡
天正年間(1573~1592)に家康の関東入国の際、摂津国(大阪府の一部と兵庫県の一部)西成郡の漁夫30余名を江戸に移した。
漁夫は漁獲の一部を幕府に納め残りを一般に販売した。慶長年間(1596~1615)に至り漁をするものとそれを商うものとが区分されて市場の形態が整った。
大正12年(1923)関東大震災で築地に移転するまでの300余年、江戸・東京における魚河岸の繁栄をほしいままにした。
西河岸橋
このあたりは、江戸時代より我が国の商業・経済の中心地として、栄えてきました。
この橋は、日本橋から一石橋までの日本橋右岸地域が、西河岸町という地名であったことから"西河岸橋"と名付けられたものです。
初代の橋(明治24年架設)は、弓弦形ボウストリングトラスという、当時最新式の鉄橋でした。関東大震災により被害を受けたこの橋は、大正14年に現在の橋に架け替えられました。
区では、架設後65年を経過したこの橋を平成2年度において、痛んだ部分を修復し、さらに伝統的な木造建築様式の木組みを採りいれた意匠で整備しました。
建築の諸元
形 式 3径間連続鋼構桁橋
橋 長 52.0m
有効幅員 11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)
橋 下 日本橋川
着 工 大正13年12月
竣 工 大正14年8月
施工者 東京市
平成3年3月 東京都中央区
裏河岸(北河岸)
所在地 中央区日本橋本石町一‐一~日本橋室町一‐一地域
明治十年十二月、東京府は「日本橋ヨリ以西 一石橋迄」の河岸地、西河岸の対岸を「裏河岸」と命名しました。江戸時代初期、寛永江戸図(1634)などでは「北かし」と記されていますが、この北側には北鞘町と品川町があり、御府内沿革図書では、一石橋側を「北鞘町河岸」、日本橋側を「品川町裏河岸」としており、いくつかの里俗名を確認することができます。
『江戸名所図会』によると、品川町裏河岸の通りには、釘・金物の店が多く、釘店とも呼ばれたといいます。
平成十二年三月
中央区教育委員会
[CAM]
2015年12月 5日 12:00
日本橋西河岸地蔵教会
板絵着色 お千代の図額
所在地 中央区八重洲1-2-5
日本橋西河岸地蔵寺教会
大正四年(1915)三月、本郷座で泉鏡花原作「日本橋」初演のおり、当時二十一歳の無名であった新派の俳優、花柳章太郎は、お千代の役を熱望し、劇と縁の深い西河岸地蔵堂(昭和二十四年、日本橋西河岸地蔵寺教会となる)に祈願をしました。「日本橋」は槍物町(現、日本橋三丁目、八重洲一丁目)の花街を舞台とした、いわゆる日本橋芸者の物語で、お千代は登場する芸妓のひとりでした。章太郎は、この劇でお千代役に起用されて好演し、これが出世役となりました。
ここに所蔵される「お千代の図額」は、二度目のお千代役である昭和十三年の明治座上演の際に、章太郎が奉納したものです。この絵を描いた小村雪岱は、「日本橋」の本の装丁や挿絵も担当した日本画家で、図額には章太郎と鏡花の句も添えられています。この「お千代の図額」は、地域にもゆかりの深いものとして、中央区民有形文化財に登録されています。(見学ご希望の方は、本堂まで申し出てください)
平成七年三月
中央区教育委員会
夢二・港屋ゆかりの地
情熱と悲愁の画家であり、詩人でもあった竹久夢二(一八八四~一九三四)は、大正三年(一九一四)この地に「港屋絵草紙店」を開き、夢二のデザインによる版画、封筒、カード、絵葉書、手拭、半襟などを売った。商業美術家自身がその作品を商品化し販売する店を作ったという点で、「港屋」は日本の商業美術史上重要な意義を持つものであり、その存在を永く記録にとどめるため、ここに記念碑を設置し、故人の業績を讃えるものである。
なお当時の「港屋」の位置はこの碑の西約十三米、間口約二間(三,六米)であった。
まてど暮せど
来ぬひとを
宵待草の
やるせなさ
こよひは
月も出ぬさうな
一石橋
一石橋の歴史
一石橋は寛永年間(1624~1647)またはそれ以前から存在した橋である。左の写真に見られる一石橋の姿は、大正十一年に架け替えられた当時の姿で、アーチ部分の石積み、重厚な石の高欄や親柱、照明などの細部に至るまでデザインの施された橋であり、当時の時代を感じさせる西洋的でモダンな印象をかもし出している。
一石橋の上流半分は、四十八年にスチール製の桁橋に架け替えられ、平成十一年には下流半分についても架け替え工事が行われて今日に至っている。大正時代当時の一石橋の姿を残しているのは上流側の大きい親柱と小さい親柱(当時の袖柱)のみとなり、残りの施設については、平成十一年の下流側架け替え工事に伴い、当時の姿と印象を残し継承する意味で新たに造り替えられている。
一石橋の親柱
所在地 八重洲1-11先
皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。
木橋としては最後となった明治六年(1873)の一石橋は長さ十四間、幅三間の橋でした。大正十一年(1922)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。平成九年には大正十一年の橋本体は全て撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿を忍ばせています。
平成十四年に中央区民文化財に登録されました。
平成十五年三月
中央区教育委員会
一石橋迷子しらせ石標
所在地 中央区八重洲一町目十一番地先
指 定 昭和十七年九月 旧跡
昭和五十八年五月六日種別変更
江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。
迷子がでた場合、町内が責任をもって保護することになっていたので、付近の有力者が世話人となり、安政四年(1857)にこれを建立したものである。
柱の正面には「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側には、「志(し)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫り、上部に窪みがある。利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦災で破壊された。
平成八年三月八日 建設
東京都教育委員会
[CAM]
2015年12月 4日 20:00
茅場橋(写真は2015年11月28日撮影、以下同じ)
鎧の渡し跡
鎧の渡しは、江戸元禄年間以来の地図や地誌類にも記される渡し場で、明治五年(1872)に鎧橋が架けられるまで存続しました。
伝説によると、平安の昔、源頼義が奥州討伐の途中、ここで暴風逆浪にあい、鎧を海中に投げ入れ竜神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたので、以来ここを鎧が淵と呼んだといわれます。一説には平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられています。
「江戸名所図絵」や安藤広重の「名所江戸百景」には、渡しの図が描かれ、また、この渡しを詠んだ俳句や狂歌等も知られています。
縁日に 買ふてぞ帰る おもだかも
逆さにうつる 鎧のわたし
和朝亭 国盛
平成六年三月
中央区教育委員会
メイゾン鴻乃巣跡(小網町)
兜神社
江戸橋
[之乎者也]
2015年12月 4日 12:00
10月1日から登場した「中央区コミュニティーサイクル(CCC)」 (ブログ記事:/archive/2015/10/velib.html)。そのお手軽さもさることながら、徒歩と比べても大きく行動範囲が広がることもあり、区内の観光に、買い物にそして通勤の足としてすっかりお世話になっています。八丁堀方面から京橋スクエアガーデンへの利用が多いのですが、途中新大橋通り、昭和通り、中央通りなどの大通りを横切ります。自転車で走ると今まで利用していた電車(地下鉄、JR)、バスなどと比べてより街を身近に感じますが、特にその大きさを体感できるのが昭和通りです。
【昭和通り(新京橋交差点付近)】
中央通りの4車線、新大橋通りの6車線でも結構道幅は広いですが、昭和通りはなんと10車線!そのさまはまるで車が流れてゆく大河のようです。それもそのはず、平日の12時間交通量は3万9千台(平成22年度 交通センサスによる)と中央区内を走る道路としてはダントツ(永代通り:3万6千台、晴海通り:3万1千台)です。更には混雑時の平均行速度も29.9km/h(23区平均:16km/h、中央通り:7.9km/h、八重洲通り:10.2km/h、永代通り:10.8km/h、晴海通り:15.2km/h)と他の幹線道路とは一線を画す速度です。その自動車流量と速度はまるで、中央区を南北に貫く大動脈!
ということで、本日は観光やビジネスを含む中央区の経済活動を支える昭和通りについて取り上げたいと思います。
昭和通りは、台東区の大関横丁(三ノ輪駅前)から港区新橋までの8.0kmの道路。以前ご紹介した「東京高速道路(/archive/2015/08/post-2643.html)」とともに、ドライバーの方には銀座・日本橋の渋滞回避道路としても知られていますが、普段運転されない方でも11月1日のまるごとミュージアム2015の無料バス(右回りルートの銀座⇒日本橋)を利用して、改めて認識された方も多いかと思います。
【銀座、日本橋周辺の昭和通り地図(図中赤色の線)】
さて、江戸時代の地図を見ると、中央通りなどはもともとメインストリートとして存在していましたが、昭和通りの位置は当時の町人地(水谷町、因幡町、大鋸町など)や大名屋敷の敷地(板倉周防守、伊達若狹守など)に重なります。
昭和通りの誕生のきっかけは1923年9月の関東大震災。東京中の建物が崩壊し、街が焼野原になり、壊滅状態となった東京の町に近代的な都市基盤を整備するため、大規模な区画整理、公園の設置などと併せてその骨格となる道路の整備が行われたのでした。
昭和通りは当時の内務大臣兼帝都復興院総裁として帝都復興計画を主導した後藤新平の提唱により幅108メートルの道路として計画されましたが、財界等の反対もあり、議会で予算が縮小され、最終的には昭和3年(1928年)に幅44メートルで完成しました(震災復興道路・幹線第1号)。
【後藤新平(1857-1929) 出所:wikipedia】
もしも、昭和通りが後藤の構想通りに完成していれば、100メートル道路として知られる名古屋の久屋大通(ひさやおおどおり)、広島の平和大通り、もしくは札幌の大通(公園)のように、道路の間に歩道や緑地帯があるゆったりとした道路が銀座や日本橋を通っていたことになります。もっとも、久屋大通や平和大通りは、太平洋戦争後の戦争復興院が立案しており、後藤の構想が場所を替えて後世に実現したとも言えるでしょう。
もともと、超時代的な後藤新平の発想で作られた昭和通りは、その後昭和30年代後半に東京オリンピックを迎えるにあたって、更にその機能をアップさせることになります。中央区を東西に貫く晴海通り、鍛治橋通り、八重洲通り、永代通りとの交差での信号待ちを必要としない地下自動車道(アンダーパス)が作られました。これにより新橋駅前から江戸橋までは高速道路のようにほぼノンストップで通行ができ、銀座・日本橋地区の渋滞回避道路として機能しています。前述の驚異的な平均行速度29.9km/h(近隣の幹線道路の2~4倍程度!)もこのような背景によるものです。
【昭和通り(宝町付近)】
なお、昭和通り沿いには東銀座、新京橋、宝町、日本橋の4つの東京都地下駐車場があり、昭和通りの地下自動車道が車両の入口になっています。
【宝町・東京都地下駐車場】
【銀座~日本橋周辺の昭和通りと東京都地下駐車場の地図(出所:東京都道路整備保全公社HP)】