[CAM]
2015年12月25日 12:00
三越日本橋本店について、「ものしり百科」では、
>明治37年(1904)、「デパートメント宣言」を行い、日本で最初の百貨店としてワンストップショッピングを実現するとともに、生活文化の近代化を提案した。
と述べている(31頁)。
この三越による「デパートメント宣言」について、本日(2015年12月20日)の日経新聞朝刊コラム「春秋」が、次のように述べているので紹介しておきたい。
>これまでのやり方は根本的に変えなければダメだ。自分が経営を引き受ければ、面目を一新して近代的な経営にしてみせる――。三井呉服店(後の三越)の幹部だった日比翁助がこのように語ったのは、明治30年代半ばだったらしい(山口昌男「『敗者』の精神史」)。
・・・・・・・・・・・・・
▼ちょうど111年前のきょうに当たる。専務取締役という肩書ながら経営の全権をになった日比は、さっそく改革に着手した。よく知られているのは、翌年早々に主要紙に掲載した1ページ広告だ。「米国に行はるるデパートメント・ストーアの一部を実現」する、との決意表明。日本の小売業で初めてのデパート宣言だった。
現在の三越百貨店日本橋本店
[銀造]
2015年12月24日 14:00
ジングルベルの音が聴こえてくる、日本橋高島屋。
この建物は、平成21年(2009)百貨店としては初めて、重要文化財に指定されています。
日本橋を歩いていて、何処かパリを思い出させる雰囲気なので大好きです。以前、フランスからの観光客をお店までご案内したこともあります。
今日は妹夫婦と一緒にやってきました。
クリスマスのイベントとしては、「一緒に笑う時間が、一番の贈りもの」というキャッチコピーで、
みんなが憧れたフランスの作家、サン・テグジュペリの「星の王子様」にちなんだ小品を販売されていました。
私も可愛い王子様のイラストが描かれたクリアホルダーなどを買い求めました。
現在、12月25日まで店内で、「Christmas X リトルプリンス スタンプラリー」が開催されています。
親子で、またおじいちゃん、おばあちゃんは孫の手を取って、お買い物とスタンプラリーを楽しまれては如何でしょうか?
今一度、星の王子さまを読み返してみる気になりました。 また、サンテグジュペリの人生が波乱に満ちたものであることを今回知りました。
どうぞ、良いクリスマスをお楽しみ下さい!
[銀造]
2015年12月24日 12:00
日本橋三越の新館入り口です。大きなモミの木が綺麗に飾られています。
道行く若いお嬢さんの着物姿も素敵です。
三越では、日本橋でも銀座のウインドウでも見かけたのですが、
JENKA makes you smile. と言うキャッチコピーを目に致します。
ウインドウに描かれた、天女(まごころ)像も元気に飛び跳ねていますね。
このウインドウの前には、「けんけんポイ」の様に、飛び移る足が記されていますので、
1960年代に一世を風靡した坂本九さんの歌、
Let's Kiss , ほほ寄せて、Let's kiss, 小鳥の様にくちびるを重ねてを口ずさみながら、楽しむのも一興ですね。
本館を入ったすぐの所では、JENKAの記念撮影をする舞台がセットされていて、親子連れが楽しそうでした。
なお、本館の建物は、「東京都選定歴史的建造物」に指定されています。
その歴史など、詳しいことはこちらのページでご覧下さい。https://mitsukoshi.mistore.jp/store/nihombashi/history/list01.html
[之乎者也]
2015年12月23日 09:00
新幹線で東北方面へ出張の帰り道、JR京葉線の八丁堀駅で電車を降り、改札口を出ると、ふと駅スタンプのスタンドが目に入ります。子供のころは旅先で駅スタンプをスタンプ帳に集めるのが愉しみでしたが、最近はすっかりご無沙汰です。八丁堀駅にもあったとは。。。
どんなスタンプなのかなと興味津々、反故紙の白地に押してみると、「八丁堀駅 長谷川平蔵生誕の地」の文字とともに鬼平こと長谷川平蔵の絵が出てきます。~長谷川平蔵については、改めて説明の要も無いかもしれませんが、あまり歴史に詳しくない方のためにここでミニ解説を。
長谷川平蔵(1745?~1795)は、江戸時代中期に活躍した「火付盗賊改役(江戸の特別警察である火付盗賊改方の長官)」で、石川島(現、中央区佃)に無宿人の収容施設である人足寄場を作った功績もあります。(/archive/2014/06/post-2075.html)
池波正太郎の時代小説「鬼平犯科帳」では主人公として凶悪犯罪の取り締まりに活躍し。その取り締まりのすさまじさから小説では「鬼の平蔵(=鬼平)」と呼ばれます~
【鬼平犯科帳 1(池波正太郎)文春文庫版】
「へえ~、長谷川平蔵って八丁堀に住んでいたんだ!」
小説の設定では平蔵夫婦の住む役宅は「清水門外(現、千代田区九段。千代田区役所あたり)」ということでしたし、若いころには家庭環境の複雑さから一時グレて「本所の銕(てつ)」と呼ばれ、本所菊川(現、墨田区)にも住んでいたなど、長谷川平蔵は江戸のいろいろな場所に住んだようです。
平蔵の出生地については、故瀧川政次郎氏(元國學院大学教授)や重松一義氏(元中央学院大学教授)といった法学者までが議論しているようですが、決定的な検証にまでは至らず、複数の可能性があるようです。。。
赤坂・築地町(父、宣雄の住居のあった拝領屋敷。現在の赤坂5丁目)で生まれて5歳まで育ち、その後築地本湊町に移ったという説、本所・菊川で生まれ、そのままずっとそこで育った説、または出生から19歳までずっと築地本湊町で育ったという説などなど。。。
どの説も決め手に欠け推定の域を出ないとしても、平蔵は後に石川島に人足寄場を設けていることから、築地本湊町、すなわち現在の中央区湊地区とは深い縁がありそうです。地元の郷土史家(中央区郷土史同好会)は「5歳から19歳まで築地本湊町の津田七右衛門屋敷に住み、その後19歳に本所菊川に移った」ことに着目し、古地図により津田屋敷は松平阿波守の向かいであったことから、平蔵が住んでいたのは現在の中央区湊1‐10あたりと推定しています。ちなみに、この場所は、12月14日付のブログ記事でご紹介した「御菓子司 しげ田」(/archive/2015/12/post-2928.html)のあたりになります(明治時代に鉄砲洲稲荷神社が、稲荷橋東詰から松平阿波守屋敷跡に遷座したため、平蔵の家は、現在の鉄砲洲稲荷神社の向かいあたりということになります)。
【長谷川平蔵 湊地区住居跡(推定)】⇒左端に「御菓子司 しげ田」、真ん中あたりに「都バス・鉄砲洲バス停」が見える。
ただし、これもあくまでも郷土史家の推定説であり、現地に行っても教育委員会による説明版などは立っていませんが、地域住民としては平蔵が近所に住んでいたという話にはロマンを感じます。
まあ「鬼平犯科帳」は小説で池波正太郎によるフィクションの要素も多いので、事実とは別に「お話」としてあまり肩肘張らずに楽しめればと思います。例えば、平蔵が密偵との連絡場所に使ったという軍鶏鍋屋の「五鉄」は、本所(墨田区両国あたり)にあったとされますが、そのモデルは人形町「玉ひで」であったといいます。平蔵の出生地についての謎についても、ここでは特定の説に肩入れせず、今後歴史学者など専門家による研究成果を気長に待つことと致しましょう。
【長谷川平蔵 湊地区住居跡(推定地)】
所在地:〒104-0043 中央区湊1‐10(鉄砲洲稲荷神社向かい)
(*ただし、文中説明の通り、こちらには説明版などは立っていません)
交通:都バス「東15」・江戸バス「南循環」鉄砲洲停留所下車目の前。中央区コミュニティサイクル「B01鉄砲洲児童公園」サイクルポートそば。
[CAM]
2015年12月22日 20:00
「細雪」からの引用を続ける。
>・・・・・・午後には四人で池の端の道明、日本橋の三越、海苔屋の山本、尾張町の襟円、平野屋、西銀座の阿波屋等を廻って歩いたが、あいにく残暑のぶり返した、風はあるけれども照り付ける日であったので、三越の七階、ジャアマンベーカリー、コロンバン等々、方々で一と休みしては渇きを癒さねばならなかった。お春は夥しい買物の包を持たされて、荷物の中から首を出したようになりながら、今日も顔じゅうに汗を沸かして三人の跡から附いて来たが、三人も皆めいめいに一つか二つ提げていた。 (417)
「尾張町の襟円」は、元和装小物店だと思われる。 「ゑり円ビル」(銀座4-6-10)として残っており、9Fには表示があるが、店はなくなっているか?
現在の「ゑり円ビル」(屋上にライトブルーの保険会社の広告塔があるビル。撮影は2015年12月20日)
「平野屋」は同社サイトでは、「1808年(文化5年)創業、江戸・日本橋において装剣具商を営んでおりました。・・・・・(しかし、明治維新後)装剣具が表看板では商いにならなくなりましたので、目貫、小柄、こうがい(これを三所物と称します)等の技術を生かした小物類へと扱い商品も変わり・・・・・その後、その後店を浜町に移し前記刀剣小道具、印籠、根付、刻煙草入れを商っておりました。・・・・・・大正12年の大震災に被災し、焼け跡の区画整理の結果、浜町1丁目あたりは店として不便になりましたので、昭和9年春、銀座8丁目(現在の金春通り)に移転しました。第2次世界大戦の戦火も逃れた古い建物も皆様に親しまれておりましたが、バブルの影響もあり、建て直しも不可能な状態になり、今は銀座6丁目外堀通りの土屋ビル5階で営業をいたしております。」ということである。現在はバッグ、財布、根付などを扱っているようである。
現在の「平野屋」(銀座6-4-5)
「阿波屋」は、現在、銀座6-4-15トニービルで、履物、和洋傘を扱っているよう。同社サイトによると、「明治4年(1871年)八官町(現銀座8丁目)と呼ばれていた地に創業致しました。以来品質の優れた履き易い履物にこだわり続けています。昭和初期、コルクの芯に牛革を巻いたぞうりを考案し好評を博しました。これは現在の革ぞうりの原型となっております。
又、谷崎潤一郎の「細雪」の一節に阿波屋の履物が登場するなど多くのお客様のご愛顧を得てまいりました。年季の入った職人が、当時ながら手作業で丹精込めて仕上げた「手縫いぞうり」は工芸品と呼ぶに相応しく今も主力商品として販売しております」とある。
この「阿波屋」については、雪子が悦子への東京土産として、履物を買って帰った際の状景にも登場する。
>「ふん、有難う」
「まだもう一つあるわ、その下の方見てごらん。── 」
「あった、あった、これやろ」
そう云って悦子は、銀座の阿波屋の包紙に包んである箱を取り出したが、中から出て来たのは紅いエナメルの草履であった。
「まあ、ええこと。穿き物はやはり東京やわなあ。── 」
と、幸子もそれを手に取って見ながら、
「これ、大事に直しといて、来月お花見に穿きなさいや」
「ふん。いろいろ有難う、姉ちゃん」 (222)
ここで、「大事に直しといて」というのは、関西弁で「大事にしまっておいて」の意。東京で使った際に、誤解される代表的例である(笑)。
[之乎者也]
2015年12月22日 14:00
師走の銀座を衝撃的なニュースが駆け抜けました。。。「プランタン銀座、2016年末閉店!」
プランタン銀座といえば、西銀座通り沿いに聳え立つ銀座の顔で、昨年(2014年)開店30周年を迎えています。プランタン銀座の歴史は1984年に始まります。スーパーのダイエーが百貨店事業への足掛かりとして、フランスの大手百貨店「オ・プランタン(Au Printemps)」の提携店として日本に誘致しました。1981年の神戸・三ノ宮駅前店を皮切りに、最盛期には札幌、大阪にも出店していました。【パリ・オスマン大通り(64 boulevard Haussmann , 75009 Paris)のプランタン本店(出所:wikipedia)】
また、プランタンは、その名(Le Printemps=春)の通り、春の明るさ、フランスの優雅さを象徴するデパートで、フランスの本家は1865年にパリで創業され、今年は創立150周年という記念すべき年でした。プランタン銀座開店直後の80年代半ばには、青春真っ盛りの私も、恥ずかしながら「銀座におしゃれなフランスを見に行こうよ!」などと言ってデートコースの一つとして大変お世話になりました。
【クリスマス前で混雑するプランタン銀座2階のカフェ・アンジェリーナ】
特に、2階にはパリのリヴォリ通り(226 rue de Rivoli, 75001 Paris)にある老舗カフェ「アンジェリーナ(Salon de Thé Angelina)」の銀座店があり、パリのお店と同じレシピで作られたモンブランなどフランスの香りがいっぱいです。【カフェ・アンジェリーナのモンブランメニュー】
正面にはためくフランス国旗とともにおしゃれな「フランス文化」が銀座からひとつ消えてしまうというのは、単にひとつの百貨店が閉店するという意味以上のものでちょっと残念です。しかし、開業150周年を迎えた本家も、百貨店は従来通り存続しているものの、経営については90年代以降グッチの親会社のPPR(現、ケリング)などを経て現在は中東カタールの投資ファンドがオーナーとなり、同様にプランタン銀座も現在のオーナーは読売新聞/三越伊勢丹となっています。テナントにも、近年ではバナナ・リパブリック、ユニクロ、ニトリが入るなど新しい方向の店づくりを模索していたこともあり、12月3日付ブログ記事の「鉄砲洲稲荷神社の社務所(/archive/2015/12/post-2910.html)」同様、変わっていくのは時代の流れなのかもしれません。今後については、2016年10月以降一部売場の閉鎖を開始し、16年末に閉店。17年3月から全店新装し新たな店舗名で再スタートすることのようです。新店舗名については現状未定ですが、今までの「フランス」とは一線を画すカジュアルな店を目指すものと言われています。
【プランタン銀座】
所在地:〒104-0061 中央区銀座3-2-1
営業時間:11:00~20:00(金、土曜日は~21:00)
電話:03-3567-0077