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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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昭和、平成、大正、江戸???

[之乎者也] 2015年12月 9日 09:00

パソコンで12月4日付ブログ記事「中央区を貫く大動脈~昭和通り~(/archive/2015/12/post-2915.html)」を書いていたら、横で見ていた息子から「素朴な疑問」が出されました。

 

「中央区には昭和通りのほかにも平成通りってあるよね。そうしたら明治、大正、江戸もあるの?」

Avenue2.jpg~~息子の云う「平成通り」とは、晴海通り(築地2丁目15番)から鎧橋(日本橋兜町2番)までの通りで、途中桜橋や八丁堀2丁目を通ります。八重洲通りや鍜治橋通りを通って八重洲方面に買い物や食事に行ったりすることも多いので覚えていたのでしょう。この通りは、今でも築地から錦糸町へ行くバス(錦11)が走っていますが、昔は都電が走っていたことから「電車通り」とも呼ばれたそうです。~~

 

「明治、大正は中央区は通っていないけど、江戸通りはあるよね。ちょっとウチ(家)からは遠いけど、室町とか馬喰町のほうを通っていて、浅草まで行く道だよ。」

Avenue1.jpg【本町交差点:昭和通りと江戸通り】

 

 ~~「江戸通り」は丸の内(千代田区)からスタートして、新常盤橋から中央区に入り、室町3丁目、本町交差点、小伝馬町、馬喰町、浅草橋交差点と抜けて、浅草橋から台東区に入り、言問橋西詰(台東区)まで行く通りです。途中、長崎屋(オランダ商館長定宿)、石町時の鐘、伝馬町牢屋敷、郡代屋敷など江戸時代の歴史にも登場する場所を通るので、その名が相応しい通りです。~~

 

「ふう~ん、明治、大正は通っていないんだ。平成、昭和と江戸があるのにちょっと残念だね。」

「確かに明治通りは、中央区は通っていないけれど、この昭和通りとは三ノ輪(台東区大関横丁交差点)で交差しているから、あながち関係ないわけではないよね。地図を見てごらん、昭和通りは江戸通りとも本町で交差しているよ。ところで、地図には『大正通り』という名前は書いていないけれど、昔の名前が『大正通り』という名前の通りが、中央区を通っているけれど、どれのことか判るかな?」

~~息子も一通り悩んだのですが、とうとう判らず降参でした~~

 

「パパがこの前書いたブログで、関東郡代の伊奈忠順のお話(
/archive/2015/11/3-3.htmlって覚えているかい?あの郡代屋敷があった場所のあたりって、今は浅草橋交差点と言って、さっきも出てきた江戸通りと靖国通りが交わるところだよね。その靖国通りが実は『大正通り』なのさ。」Avenue3.jpg

【浅草橋交差点:江戸通りと靖国通り】

 

~~現在は、大正通りという名前ではありませんが、靖国通りは昭和通り同様に「震災復興道路(幹線第2号)」として作られた通りで、もともとは「大正通り」と言われたそうです。こちらは靖国神社の前を通ることから、戦後になって靖国通りに改名されたそうです。~~

 

こうして見ていくと、中央区には残念ながら明治通りは通っていませんでしたが、江戸、大正、昭和、平成と時代の名前を冠した通りがありました。たかが通りの名前ですが、それぞれ時代を映していて面白いと思い、息子をはじめとする読者の方の疑問にお答えするため、今回記事として取り上げることにしました。

 

通りの愛称の名づけ方について、中央区役所担当課の道路課工務係にお話を伺ってみました。

「江戸通り(都道407号線(国道4号線、6号線、14号線))などの都道については、東京都が昭和37年~38年、59年に愛称設定しています。中央区でも都に倣って昭和62年以降「道路愛称名選定委員会」を立ち上げて区道の名称の設定を進めて来ました(昭和63年「中央区道路愛称名設定要綱」により)区道である平成通りについては、昭和通りに並行していることや平成元年に元号が変わったばかりであり、おめでたい「平成」の名前を採用しています。愛称採用にあたっては区が勝手に決めるのではなく、地元の意見も聞きながら決めています。」

 

どうやら、通りの愛称も地元からの申請次第ということのよう。区内の「名無し通り」の沿道の商店街、住民の皆さん、素敵な名前を申請してみたら如何でしょうか。日本中、いや世界中からお客さんが見に来るかも!

 

 

 

関東大震災後の中央区(3)

[CAM] 2015年12月 8日 12:00

昭和7(1932)年4月には、地下鉄「三越前」駅が開業し、三越本店地下売場と連絡。

昭和10(1935)10月、三越本店の増改築工事が完了、中央ホールが完成し、パイプオルガンを設置。

 

 昭和7年10月3日、東京市は市政改革を行い、隣接5郡82町村を合併して35区とした。

 

「夜銀座に飯す。夕刊の新聞を見るに府下の町村東京市へ合併の記事および満州外交問題の記事紙面をうづむ」(『断腸亭日乗』)

 

 銀座の大きな変化は、昭和通りの建設と晴海通りの拡幅であった。昭和通りの完成は昭和3。当時東京市市長だった後藤新平の原案では道幅を108メートルとするものであったが、広い道路の重要性が当時は受け入れられず、結果現在の道幅に狭められた。また、狭い通りであった現在の晴海通りが拡幅された。

 

地下鉄銀座線の建設は震災後の大正14(1925)年に開始された。本来は新橋から浅草まで一挙に開通させることを目指していたものの、大震災後による不況のため、資金調達が困難になってしまい、当時は日本一の繁華街で高収益が見込める浅草から上野までの建設を先行させ、昭和2(1927)年に開業したが、昭和7(1932)年暮れには京橋まで、昭和9(1934)年には銀座まで延伸された。

 

 『断腸亭日乗』では、昭和71224日「地下鐵道京橋入口開通」、昭和933日「地下鐵道尾張町出入口この日より開通の由。乗客頗雑(とう)の様子なり」、昭和9316日「五時過雷門に出で始めて地下鐵道に乗り銀座尾張町に至る。十五分間なり」と記されている。

 

 昭和6年から9年にかけて『日乗』には、「銀座」が頻出してくる。荷風は、日が暮れると銀座に出かけ、食事をしたり、カフェーに行っている。

 

   しかしながら、昭和9年頃には、銀座の繁栄には陰りが見え始めたようで(というよりも日本の戦時経済化と言うべきだろうが)、荷風は、昭和9年11月4日「銀座通の景況日を追うて物寂しく、今夜は十時頃夜店そろそろ仕舞かける有様なり。銀座通の景気最盛なりしは昭和6年より翌7年軍人暴行の頃なりしが如し。酒館の繁栄したるもその頃にて、去年あたりより俄にさびれ出したり」(『日乗』)と記している。

 

『断腸亭日乗』が素晴らしいのは、自分たちが実体験をできなかった「時代」の姿を生き生きと描いてくれているからである。

 

 

しょうゆと小網町行徳河岸周辺

[之乎者也] 2015年12月 7日 14:00

2013年にユネスコの無形文化遺産にも登録された「和食」。旬を大切にし、食品そのものの味を引き出す特徴から、健康でオシャレな食文化として世界中の注目を集めています。そんな和食を支えるのが「しょうゆ」。単なる調味料としての味付けにとどまらず、「うまみ」と「香り」を演出する存在として、すし・づけ(まぐろ)、佃煮、蕎麦のかけ汁、おでん、鰻蒲焼のタレなど江戸食文化においても大活躍です。

ょうゆは、古来上方を中心に製造が行われてきましたが、徳川家康の開府に伴い人口が急増した江戸にも海路で「下りしょうゆ」が供給されるようになります。更に17世紀半ば以降、関東でも銚子、野田、佐原などでしょうゆ製造が盛んになり、江戸川、利根川の水運を利用して大消費地の江戸に直接輸送が可能であったことや品質の向上もあり、高級品である「下り物」とともにこれら「地回り物」の供給が活発になり、更にしょうゆの消費が拡大します。それらの江戸への輸送物資の物流施設として存在したのが、大川、日本橋川、箱崎川などの河川や水路・運河沿いの河岸でした。鮮魚は日本橋、米は蔵前、酒は新川、野菜は神田などと、物資によっては河岸が決まっていた場合もあるようですが、行徳の塩を揚げる行徳河岸を始めとして、醤油は箱崎川周辺で揚げることが多かったようです。Soy1.jpg行徳河岸から一歩横に入った稲荷(とうかん)堀。明治時代に埋め立てられ、現在はとうかんぼり通りになっていますが、こちらに醤油会館があります。日本醤油協会の山中さんにお話を伺いました。Soy2.jpg

醤油会館は、日本醤油協会、日本醤油技術センター、醤油業中央公正取引協議会など醤油関係の団体の事務所が入っているだけで、残念ながらしょうゆ博物館等の一般向けの公開はありませんが、会館の1階外側のウィンドウディスプレイには、全国の醤油会社の製造したしょうゆ、しょうゆ味レシピ&エピソードコンテストの入賞作品や今は使われなくなった醤油樽などの展示があります。Soy4.jpg

【全国醤油会社からのしょうゆ展示】

 

Soy3.jpg

【醤油樽】⇒ネギマの殿様が広小路の煮売り屋で「にゃ~」を食するために腰を掛けたのはこれでした。(/archive/2015/11/post-2812.html

 

また、日本醤油協会しょうゆ情報センターではしょうゆ食育プロジェクトとして、小学校等に対して「しょうゆもの知り博士の出前授業」を行っており、出前授業の様子はリンク(https://www.youtube.com/watch?v=nj9JZIYpD_U)で見ることが出来ます。

 

現在ではもちろん醤油樽を積んだ船が箱崎川を遡ることはありませんが、このような歴史もあり周辺には醤油会社の本社(ヒゲタ)、東京拠点(ヤマサ、ヒガシマル、キノエネ、盛田(JFLA)など)があるほか、中央区に本社がある酒・食品卸の国分(こくぶ)、ぬ利彦(ぬりひこ)も、それぞれ土浦の醤油醸造、醤油の仲買いと、しょうゆに縁の深いルーツを持っています。

 

Soy5.jpg【ヤマサ醤油・東京支社】

 

Soy6.jpg【キノエネ醤油・東京ビル】

 

特派員の滅紫さんが6月13日記事「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション(/archive/2015/06/post-2514.html)」で紹介されている、箱崎TCATそばにあるCafé Musée H(カフェ・ミュゼ・アッシュ)では、マーブル醤油アイス(400円)を楽しめます。醤油会館の近くにありますので、こちらも是非ともお試しあれ!

 

【醤油会館】

所在地:〒103-0016 中央区日本橋小網町3-11(とうかん堀通り)

交通:地下鉄半蔵門線水天宮前駅下車徒歩7分程度、地下鉄日比谷線・東西線茅場町駅下車徒歩7分程度。

*ディスプレイは屋外にあるためいつでも観覧可。

 

【Café Musée H(カフェ・ミュゼ・アッシュ)】

所在地:〒103-0014 中央区日本橋蛎殻町1-35-7

交通:地下鉄半蔵門線水天宮前駅下車目の前

営業時間:11:00~17:00(土・日・祝 10:00~、月休)

電話:03-3665-0251

 

 

「咳の爺婆」の石像

[銀造] 2015年12月 7日 12:00

 前から気になっていた築地場外市場の道沿いの石像は、「咳の爺婆」という名前と判明して、喉のつかえがとれた感じです。

築地場外市場の門跡通りを真っ直ぐ、都営大江戸線の築地市場駅方面に歩いて、公衆トイレの手前に鎮座なさっています。

優しくにっこりと微笑んでおられる様です。

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 京橋図書館・地域資料室所蔵の 

築地食のまちづくり協議会発行の「築地場外市場いまむかし」によれば、

安芸橋を渡った稲葉の中屋敷には、咳の爺婆という石像があり、咳の患いに霊験あらたかということで、人が参集したといわれています。

 

築地市場、場外市場でのお買い物の途中、ちょっと見かけた方は、手を合わせて頂ければ、喉のいがらっぽいのが治るかも知れません。

今日も、そしてずっと私たちを見守ってくれることと期待しています。

 

 

 

歴史豊かな建造物をめぐるコース (1)

[CAM] 2015年12月 6日 20:00

日本橋三越本店  (2015年11月29日撮影、以下同じ)

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(三越サイトから) 日本橋三越本店は、平成11年4月に日本橋地区の顔として「東京都選定歴史的建造物」に選ばれました。

現在の建物は、昭和10年(1935)に完成、ルネッサンス式建築の威容を誇り、当時は「国会議事堂」「丸ビル」に次ぐ大建築物でした。

本館正面玄関には待ち合わせの場所として親しまれる「三越の守護神」とも言うべき「ライオン像」がお客様をお迎えし、メイン通路を抜けると、その豪華絢爛な美しさの、「天女(まごころ)像」がひときわ目をひきそびえ立っています。
この像をいただく中央ホールでは、各種催物やトークショーなどが日々開催されるイベントスペースとしてお客様に親しまれています。

中央ホールのメイン階段をあがると、美しい音色を奏でる「パイプオルガン」が設置されています。このパイプオルガンによる生演奏は毎週金・土・日曜の週3回行われ、お客様に喜ばれています。

この中央ホールからパイプオルガンをつなぐメイン階段。重厚感のある大理石をふんだんに使用しているのですが、じっくり目を凝らしてみてみると、アンモナイトなどの化石がはっきりと確認いただけます。御来店の際にお楽しみの一つとして化石探しをしてみるのもいかがでしょうか。

このほかにも、本館6階には、歌舞伎・演劇等が催される三越劇場が、本館屋上には三圍神社などが、百貨店ではめずらしい施設として、多くのお客様に喜ばれております。

                                                       

貨幣博物館

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(日本銀行サイトから) 日本銀行金融研究所貨幣博物館では、貨幣および貨幣に関する歴史的、文化的な資料を収集・保存し、それらの調査研究を進めつつ、広く一般に公開しています。

 貨幣博物館の所蔵資料の中核となっているのは、古貨幣収集家・研究家であった田中啓文氏(1884~1956年)が収集した銭幣館コレクションです。田中啓文氏は、わが国の古代から近代にいたる貨幣だけでなく、中国を中心とする東アジアの貨幣や、貨幣に関するさまざまな資料を収集していました。これらの資料が展示・保管されていた博物館が「銭幣館」で、1944年、戦火による喪失を避けるため、収集資料は日本銀行に寄贈されました。

 貨幣博物館は、これらの資料を公開するため、日本銀行創立100周年(1982年)を記念して1985年11月に開館しました。

 

 

常盤橋

IMG_2391.JPG常盤橋門跡 (工事中)

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(観光協会サイトから)  江戸城外濠の表正面で、現在は枡形門の石垣だけが残っています。この門は、浅草・千住を経て行く奥州街道の出口であったので、浅草口と呼ばれ、江戸五門のひとつにも数えられています。昭和3年(1928年)国の史跡に指定されました。

 

 日本銀行本店本館

IMG_2388.JPG(日本銀行サイトから) 日本銀行本店は現在、旧館、新館、分館の3つの建物から構成されています。
 このうち、本館は現在の日本銀行の建物の中でもっとも古く、明治29年に完成しました。明治中期の西洋式建築物としては、東京・赤坂の迎賓館(げいひんかん)とならぶ傑作(けっさく)といわれており、国の重要文化財にも指定されています。

 

三井本館

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 (三井広報委員会サイトから)  明治35年(1902)に竣工した駿河町三井本館(旧三井本館)は完成から20年後の大正12年(1923)、関東大震災で大きな被害を蒙った。建物の躯体そのものは、それほど致命的なダメージを受けていなかったが、問題は内部の焼失であった。そのため改修するか、完全に改築してしまうかの決定が迫られていた。

三井合名としては、当初改修する方向で進んでいたといわれるが、震災復興に対して三井が範を示す必要があるということ、また三井の諸事業の発展拡大により、今後、旧三井本館では手狭になると予想されたため、方針を転換。旧三井本館を解体し、新本館を建てることとなった。

・・・・・・・・・・昭和2年(1927)、新たな三井本館の建築工事が開始された。

三井本館の意匠については「壮麗」「品位」「簡素」の3つのコンセプトが定められた。

外観デザインは20世紀におけるアメリカの新古典主義的なデザインを採用。クラシカルではあるが、過度に華やかさを強調しない抑制された美ともいうべきデザインで、これは3つの要素のうちの「品位」と「簡素」を表している。残りの「壮麗」については、ローマ風のコリント式大オーダー列柱にその要素が見出される。オーダーとは階を貫いてそびえる柱のことで、本館の大オーダーは建物の3面にわたって用いられ、無用な変化をつけることなく整然と並べられた。

三井本館は、約3年の歳月をかけて昭和4年(1929)3月に竣工した。総事業費は2,131万円(現在の約1,000億円)。地上7階(竣工時は5階)、地下2階の鉄筋コンクリート造りで、外装にはすべて花崗岩を使用。インテリアには大理石をふんだんに用い、あらゆる面で近代的な業務に応じられる設備を備えており、三井合名をはじめ、三井銀行・旧三井物産・三井鉱山・三井信託など直系各社入居し、本社機能を集中させた。

・・・・・・終戦を迎え、連合軍は進駐を開始。GHQは多くのビルを接収し、三井本館も4、5階の接収が行われた。・・・・・・・・・・・・辛酸をなめた三井本館だが、占領終了後は再び三井のオフィスビルとして使用され、平成10年(1998)に「意匠的に優秀」「歴史的価値が高い」との評価を受け、国の重要文化財に指定された。

 

 

 

歴史豊かな建造物をめぐるコース (2)

[CAM] 2015年12月 6日 20:00

三井記念美術館

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    三井家が収集した美術品約4,000点を所蔵する「三井記念美術館」。国宝・重要文化財をはじめとする三井11家から寄贈された名宝の数々を展示・公開し、文化財の保存とともに研究活動や芸術文化の発信に努めている。

三井家は元々、三井高利の時代から茶の湯が嗜まれ、生活文化として定着していたが、それに加え、北家(総領家)は長年にわたって表千家との親交を持っていた。また金融御用を務めていた紀州徳川家との茶の湯を介した交流もあり、そうした中で多くの茶道具が収集されてきた。また、北家は京都画壇とのつながりも深く、特に円山応挙の作家活動を援助していたことから、応挙をはじめとする円山四条派の作品も多く見受けられる。

三井各家のコレクションは茶道具、絵画、書跡、能面、能装束、拓本、刀剣、調度品、切手など多岐にわたる。

これらは戦後、第11代三井総領家当主・三井八郎右衞門高公の決断により、段階的に三井文庫に寄贈されていく。昭和59年(1984)には三井文庫別館が竣工し、翌年から美術品の一般公開を開始した。それに伴い、三井各家からは伝来の美術品や文化財の寄贈が繰り返され、その他の法人や個人からも寄付を受けるようになった。三井文庫が膨大な美術品を収蔵するに至ったのは、こうした経緯による。

やがて、三井文庫別館の展示活動は三井記念美術館に引き継がれ、平成17年(2005)、日本橋室町にある重要文化財・三井本館内7階に開館した。所蔵する美術品は国宝6点、重要文化財71点、重要美術品4点など約4,000点。切手類は13万点に及ぶ。

江戸時代の絵師の巨匠・円山応挙筆の国宝「雪松図屏風」は墨と金泥と紙の白色のみで、雪の中にきらめく光を照り返して屹立する松の姿を情感豊かに描き出している。松は輪郭線を用いない没骨技法。余白が空間の広がりを感じさせる。

室町家からの寄贈は、書画、茶道具など約800点あり、中でも国宝「志野茶碗 銘卯花墻」はその中の白眉ともいうべき名品で、日本で焼かれた茶碗での国宝指定は、本阿弥光悦作の白楽茶碗(銘不二山)と、この卯花墻の2碗のみとなっている。

このほか、茶道具では長次郎作「黒楽茶碗 銘俊寛」や「大名物 唐物肩衝茶入(北野肩衝)」など重要文化財も数多く所蔵している。

館内の中央の展示室には、三井家とゆかりの深い国宝茶室「如庵」の内部を再現。三井家の美術品だけでなく、様々なテーマによる「特別展」を企画・開催し、東京駅周辺の3美術館とも連携して新しいアートスポットを創出している。 (三井広報委員会サイトから)

 

 十軒店 跡 (写真は2015年11月30日撮影、以下同じ)

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所在地 中央区日本橋室町3-2-15
十軒店は雛市の立つ場所として知られていました。『寛永江戸図』に「十間たな」と記された、石町二・三丁目と本町二・三丁目に挟まれた小さな町で、日本橋通りの両側に面していました。江戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるともいわれています。
江戸時代中期以降、三月と五月の節句や十二月歳暮市には内裏雛(だいりびな)・禿(かむろ)人形・飾道具・甲人形・鯉のぼり・破魔弓・手毬・羽子板など、季節に応じた人形や玩具を売る店が軒を並べていました。
『江戸名所図会』には「十軒店雛市」と題し、店先に小屋掛けまで設けて繁昌している挿絵が描かれています。明治時代以降もこの地は「本石町十軒店」と称されていましたが、明治四十四年(1911)に十間店町となり、昭和七年(1932)、旧日本橋室町三丁目に編入されました。
平成十年三月
中央区教育委員会

 

 長崎屋跡

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所在地 中央区日本橋室町四丁目二番地
江戸時代、ここは長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸登城、将軍拝謁の際の定宿になりました。将軍拝謁は諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していたオランダが、幕府に謝意を表するために献上品を携えて行った行事でした。江戸出府は江戸初期から毎年一回行われましたが、長崎からの随行の人々は、商館長の他、通訳、学者などが賑やかに行列して江戸に来ました。しかし、経費のことなどで、江戸中期からは四年に一回となっています。

商館長に随行したオランダ人の医者の中には、ツンベルクやシーボルトなどの一流の医学者がいたので、蘭学に興味を持つ桂川甫周や平賀源内はじめ日本人の医者、蘭学者が訪問し、長崎以外における外国文化の交流の場として、あるいは、先進的な外国の知識を吸収していた場として有名になりました。
鎖国下における数少ない西洋文明との交流の場として貴重であり、区民史跡に登録されています。

 

石町時の鐘 鐘撞堂跡

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 江戸時代には鐘をついて人々に時刻を報せていました。この鐘は、石町(現在の日本橋室町4丁目付近)にあったもので、近くに長崎屋があったため、「石町の鐘はオランダまで聞こえ」の川柳があります。宝永8年(1711年)に鋳直したもので、(徳川家宣時代)高さ1.7メートル、口径93センチの和鐘です。現在は、十思公園に鐘楼を、設けて納めてあります。(観光協会サイトから)

 

 

夜半亭 (与謝蕪村旧居跡)

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