[CAM]
2015年12月16日 12:00
本日(12月13日)の日経新聞朝刊の24面、『文学食べ物図鑑(28)』(特別編集委員 野瀬泰申)で、関東大震災後の銀座について述べられており、そこで、荷風の『濹東綺譚』「作後贅言(ぜいげん)」から下記の部分が引用されていますね。
「銀座の町がわずか三四年見ない間にすっかり変った、其景況の大略を知ることができた。震災前表通に在った商店で、もとの処に同じ業をつづけているものは数えるほどで、今は悉く関西もしくは九州から来た人の経営に任ねられた。裏通の到る処に海豚汁や関西料理の看板がかけられ、横町の角々に屋台店の多くなったのも怪しむには当らない」
そして、さらに荷風は
「飲食店の硝子窓に飲食物の模型を並べ、之に価格をつけて置くようになったのも、蓋し已むことを得ざる結果で、これまた其範を大阪に則ったものだという事である」
と述べています。大震災後になって飲食店の店頭に食品サンプルがあふれる光景を見て、荷風は料理のように関西発祥のものが東京にやってきたと思ったのでしょうが、実は食品サンプルの発祥は大阪ではなく東京生まれで、震災後に始めたのは日本橋・白木屋百貨店だったことが、このコラムで述べられています。
[CAM]
2015年12月12日 18:00
「細雪」から、東京について述べられた部分の引用を続ける。
・・・・だが、そう云う幸子も、そんなに東京をよく知っているわけではなかった。ずっと昔、十七八の娘時代に父に連れられて上京し、築地采女町の旅館にしばらく泊まっていたことが一二回あって、その時分には随分方々を見て歩いたものだけれども、それは大正十二年の大震災の前のことで、復興後の帝都へは、箱根へ新婚旅行に来た帰りに帝国ホテルに二三泊したことがあるに過ぎない。 ・・・・・・・・・・
しかし正直なことを云うと、彼女はそんなに東京が好きなのではなかった。瑞雲棚引く千代田城のめでたさは申すも畏いこととして、東京の魅力はどこにあるかといえば、そのお城の松を中心にした丸の内一帯、江戸時代の築城の規模がそのまま壮麗なビル街を前景の裡に抱え込んでいる雄大な眺め、見附やお濠端の翠色、等々に尽きる。まことに、こればかりは京都にも大阪にもないもので、幾度見ても飽きないけれども、ほかにはそんなに惹き着けられるものはないと云ってよい。銀座から日本橋界隈の街通りは、立派といえば立派だけれども、何か空気がカサカサ乾枯らびているようで、彼女などには住みよい土地とは思えなかった。分けても彼女は東京の場末の街の殺風景なのが嫌いであったが、今日も青山の通りを渋谷の方へ進んでいくに従い、夏の夕暮であるにもかかわらず、何となく寒々としたものが感じられ、遠い遠い見知らぬ国へ来てしまったような心地がした。 ・・・・・・・・・・・・ 東京というところは、いつ来てみても自分には縁もゆかりもない、餘所々々しい土地なのである。そして幸子は、こういう都会のこういう区域に、生粋の大阪ッ子であり、紛う方なき自分の姉である人が、今現に住んでいるということが、どうしても信じられないことのような、・・・・・・それにしてもよくまあ姉がこういう街で暮していられるものよと思い、実際そこに行き着くまではまだ本当でないようにも感じられた。 (377)
上記は、幸子(次姉)が東京へ転勤した長姉を訪ねた際の述懐であるが、「銀座から日本橋界隈の街通りは、立派といえば立派だけれども、何か空気がカサカサ乾枯らびているようで、彼女などには住みよい土地とは思えなかった」と言っている。また、渋谷、青山あたりを「場末」と言っているのもおもしろい。
私自身も、大学に入り、幼少期を過ごした大阪市(現)中央区から初めて東京へ移り住んだ〇十年前、吉祥寺、下北沢、そして渋谷さえもが、やはり単なる「場末」としか感じられなかったから、こうした記述をよく理解できる。
「大阪も近頃は御堂筋などが拡張されて、中之島から船場方面に近代的建築が続々そそり立つようになり、朝日ビルの十階、アラスカの食堂あたりから俯瞰すると、さすがに壮観であるけれども、何といっても東京には及ばない」とも述べられているが、かつての大阪・御堂筋はビルの高さが一定に規制されており、東京・丸之内一帯等とはまた異なった壮観さがあったように思う。東京も、皇居の周囲等では、かつてはビルの高さが制限されており、優れた修景であったが、近年は高層ビルが不調和に立ち並んできており、景観という点からすると劣化しているように思う。銀座については、まだ相当の調和が保たれているように思うが、これも経済性という点から考えるといろいろな議論があるのだろう。
「銀座の街区と建物」については、「銀座街づくり会議」のサイトで説明されている。
http://www.ginza-machidukuri.jp/column/column1-2.html
[CAM]
2015年12月11日 18:00
「細雪」は、言うまでもなく関西を主な舞台とした物語であるが、主人公の姉妹たちの旅行などによって、東京の情景を描いた場面もかなり多い。
下記は、関西における婦人たちの会話である(引用は中公文庫による)。
>「でも、聖路加病院ならいつまで入院していらしったっていいでしょう」
「海が近いから涼しくって、ことにこれからがあすこはいいのよ。でも中央市場が近いもんだから、時々生臭い風が吹くの。それに本願寺の鐘が耳について。――――」
「本願寺はああいう建物になりましても、やっぱり鐘を鳴らすのでございましょうか」
「はあ、そうであんすの」
「何だかサイレンでも鳴らしそうだわね」
「それから教会の鐘も鳴るのよ」 (167)
それから続く以下の部分は、震災後に関西へ移住し、関西の女性と再々婚した谷崎ならではの叙述であろう。幸子とはもちろんその谷崎夫人・松子がモデルである。
>彼女(幸子)は相良夫人のような型の、気風から、態度から、物云いから、体のこなしから、何から何までパリパリの東京流の奥さんが、どうにも苦手なのであった。彼女も阪神間の奥さんたちの間では、いっぱし東京弁が使える組なのであるが、こういう夫人の前へ出ると、何となく気が引けて―――というよりは、何か東京弁というものが浅ましいように感じられて来て、故意に使うのを差し控えたくなり、かえって土地の言葉を出すようにした。それにまた、そういえば丹生夫人までが、いつも幸子とは大阪弁で話す癖に、今日はお附合いのつもりか完全な東京弁を使うので、まるで別の人のようで、打ち解ける気になれないのであった。なるほど丹生夫人は、大阪っ児ではあるけれども、女学校が東京であった関係上、東京人との交際が多いので、東京弁が上手なことに不思議はないものの、それでもこんなにまで堂に入っているとは、長い附合いの幸子にしても今日まで知らなかったことで、今日の夫人はいつものおっとりしたところがまるでなく、眼の使いよう、唇の曲げよう、煙草を吸う時の人差指と中指の持って行きよう、―――東京弁はまず表情やしぐさからああしなければ板に着かないのかも知れないが、なんだか人柄がにわかに悪くなったように思えた。 (168)
「何か東京弁というものが浅ましいように感じられて来て」とか、「東京弁はまず表情やしぐさからああしなければ板に着かないのかも知れないが、なんだか人柄がにわかに悪くなったように思えた」とか、関西人の「東京弁」についての感じ方がよく描かれていて、おもしろい。この「東京弁」を「英語」に置き換えても、そのまま通用するだろう(笑)。
[之乎者也]
2015年12月11日 12:00
日一日と寒くなるこの季節、目を愉しませてくれるのがイチョウ(銀杏)の黄葉。中央区でも特派員サムさんの12月3日記事「イチョウ黄葉(
/archive/2015/12/post-2914.html)」で紹介された浜町公園入口緑道など各地で見頃を迎えています。
休日の土曜、京橋スクエアガーデンの中央エフエムスタジオで「大好き中央区」の収録を終えたあと、天気も良いので柳通りのポートから借りた中央区コミュニティサイクル(CCC )で街を流していると、蛎殻町の新大橋通り沿いで黄金色に染まる一角を見つけました。さっそく自転車を止めてみると、鳥居があり、左右に銀杏稲荷と銀杏八幡宮の文字。
境内には大きなイチョウの木が聳え一面黄金色です。この八幡宮、正確な創建は不明だそうですが、江戸中期の1775年(安永4年)に、常盤橋の福井松平氏の邸内鎮守であったご祭神の誉田別尊(ほんだわけのみこと)を社殿にお祀りしたそうです。こちらは中央区では唯一の八幡宮だそうで、当時既に樹齢300~400年の大銀杏が境内にあったため、銀杏八幡宮と呼ばれたようです。残念ながら名前の由来となった大銀杏は1923年の関東大震災で焼けてしまったそうで、現在のイチョウの木はそれとは別のものです。
ところで、イチョウといえば冒頭のサムさんブログ記事でも説明の通り、公害・病虫害、火などに強く、その生命力から東京でも神宮外苑など多くの場所で街路樹に使われ、「都の木」としても知られています(昭和41年の都民投票により選定)。更には、東京大学のシンボルマーク(「東大マーク」)は黄色と淡青の2枚のイチョウの葉を組み合わせたものですが、そうなると気になるのが、都バスや大江戸線で見かけるあの緑色のマーク。
イチョウの形に似ているので、そうなのかと思いきや、実はこちらはイチョウとは無関係なのだそうです。東京都の頭文字の「T」をデザインし、東京都の躍動、繁栄、潤い、安らぎを表現したもので、平成元年6月に東京都のシンボルマークとして制定されています。
【銀杏八幡宮・銀杏稲荷】
所在地:〒103-0014 中央区日本橋蛎殻町1-7-7
交通;都バス「錦11」蛎殻町停留所下車徒歩3分程度、半蔵門線水天宮駅から徒歩5分程度。
祭神:誉田別尊
境内社:銀杏稲荷神社
[CAM]
2015年12月 9日 20:00
煉瓦銀座の碑、煉瓦とガス燈
明治五年二月二十六日
皇紀2532年 西暦1872年
銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸數四千戸と称せらる
東京府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企劃建策し政府は國費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築完成す
煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり
昭和三十一年四月二日
(1987年記)
明治初期我が国文明開化のシンボルとして、 銀座には煉瓦建築がなされ、 街路照明は、ガス燈が用いられた。
床の煉瓦は、最近発掘されたものを、当時の ままの「フランス積み」で再現。ガス燈の燈柱は、 明治七年の実物を使用、燈具は忠実に復元。
三つ橋跡
所在地 弾正橋 中央区京橋二・三丁目~八丁堀三・四丁目
白魚橋 中央区京橋三丁目~銀座一丁目
真福寺橋 中央区銀座一丁目~新富一丁目
ここから北方約三〇メートルの地点には、明治の末年まで、北東から楓(もみじ)川、北西から京橋川、東へ流れる桜川、南西へ流れる三十間堀が交差していました。この交差点に近い楓川に弾正(だんじょう)橋、京橋川に白魚橋、三十間堀に真福寺が架かり、この三橋を三つ橋と総称していました。
三つ橋は、すでに寛永九年(一六三二)作成といわれる『武州豊嶋郡江戸庄図』に図示されていますが、橋名の記入はなく、橋名についても幕末までいろいろ変遷がありました。
明治末に真福寺橋、昭和三十四年に白魚橋がいずれも河川の埋立てによって廃止され、弾正橋は昭和三十七年、高速道路工事によって現在の姿となりました。
平成八年三月
中央区教育委員会
弾正橋
弾正橋は古く江戸寛永年間には既に、楓川上に架かっているのが記されており、北八丁堀に島田弾正少弼屋敷があったのがその名の由来のようである。弾正橋は当時交差した堀川上に真福寺橋、白魚橋と共に三つの橋がコの字状に架けられていたことから、江戸名所図絵に「三ツ橋」として紹介されており、江戸における一つの名物であったようである。
その後たびたび架替えられたが、明治11年に工部省の手により、我が国最初の国産の鉄を使った橋として架替えられた。その時の橋は現在でも江東区富岡一丁目に保存され、昭和52年に国の重要文化財として指定され、平成元年にはアメリカ土木学会の栄誉賞も受ける等その歴史的貴重さを増している。
現在の橋は大正15年12月に復興局によって架替えられたもので、従来の弾正橋よりやや北側に位置している。その後昭和39年の東京オリンピックの時に、弾正橋の両側に公園が造成され、平成5年2月に公園と一体化された、くつろぎのある橋として再整備された。尚、公園にあるモニュメントは、明治11年、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものである。
平成5年2月 中央区
蜊河岸 (バックの建物は京橋プラザ)
現在、ここから日本橋方面にのびている高速道路はかつての楓川で、川はこの先で京橋川と三十間堀に合流していました。そこは、それぞれの川筋に弾正橋・牛の草橋(白魚橋)・真福寺橋の三つの橋が架かっていたことから「三ツ橋」と呼ばれていました。蜊河岸は、その三ツ橋のひとつ、三十間堀に架かる真福寺橋の東岸、築地方面の河岸の呼び名です。江戸時代後期、この蜊河岸には江戸三大道場のひとつ、鏡新明智流の剣客桃井春蔵の「士学館」がありました。嘉永六年(一八五三)発行の平野屋版切絵図には、蜊河岸の築地側南端に、その名を確認することができます。
平成十二年三月
中央区教育委員会
歌舞伎座
施設概要(歌舞伎座サイトから)
敷地 6,790㎡ (都市計画道路 約 190 ㎡を除く)
建築面積 5,985.2㎡
客席数 1808席(幕見席96席を除く)
舞台 間口91尺(27.573m)、高さ21尺(6.363m)
廻り舞台 直径60尺(18.18m)
[CAM]
2015年12月 9日 18:00
宝くじを求めて列を作る人々とともに、燈臺(とうだい)をもう一度
(写真は2015年12月6日撮影、以下同じ)
銀座発祥の地
慶長十七年(紀元2272年 西暦1612年)徳川幕府此の地に の銀座役所を設置す当時町名を新両替町と称せしも通称を銀座町と呼称せられ明治二年遂に銀座を町名とする事に公示さる
昭和三十年四月一日建之
銀座通聨合会
京橋の親柱
所在地 中央区京橋三丁目/銀座一丁目
京橋は、江戸時代から日本橋とともに有名な橋でした。橋は、昭和三十四年(1959)、京橋川の埋め立てによって撤去され、現在では見られませんが、その名残をとどめるものとして、三本の親柱が残っています。
橋北詰東側と南詰西側に残る二本の親柱は、明治八年(1875)当時の石造の橋のものです。江戸時代の橋の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形で、詩人佐々木支陰の筆によって、「京橋」「きやうはし」とそれぞれ橋の名が彫られています。
一方、橋南詰東側に残る親柱は、大正十一年(1922)にかけられた橋のものです。石及びコンクリート造で、照明設備を備えたものです。
京橋の親柱は、明治、大正と二つの時代のものが残ることから、近代の橋のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。
平成四年三月
中央区教育委員会
京橋は古来より其の名著える創架乃年ハ慶長年間なるが如し明暦以降数々架換へられ大正十一年末現橋に改築せらる此の橋柱は明治八年石造に架換へられたる時の擬寶珠欄干の親柱として橋名の書ハ明治の詩人佐々木支陰乃揮毫に係るものなり
昭和十三年五月
江戸歌舞伎発祥の地
寛永元年二月十五日元祖猿若中村勘三郎中橋南地と言える此地に猿若中村座の芝居櫓を上ぐこれ江戸歌舞伎の濫觴也 茲に史跡を按し斯石を鎮め國劇歌舞伎発祥の地として永く記念す
昭和三十二年七月
江戸歌舞伎旧史保存会
京橋大根河岸青物市場跡
遠く寛文の初め江戸数寄屋橋邊に處の人数名打倚りさゝやかなる青物の市を立てしに遠近の村村より作物多く集りぬ是等の店はゆきゝの人或いは附近の人人に之をひさぐ数年ならずして店の数増加し漸く市場の形整い江戸府民のため無くてはかなわぬ機関とはなりぬその後火炎に罹りしにより東海道の要路にあたり且つ水運の便ある京橋川の北岸紺屋町へ移轉す偶この市場への大根の入荷殊更夥しきにより世の人大根河岸と呼び遂に京橋大根河岸と稱うるに至るかくて二百餘年を経たる明治十年京橋川南岸の太刀賣と稱する甘藷問屋数名を加入せしめ問屋三十七軒仲買十七名を數うるに至りしかば府尹の認可を得て組合を設立しこゝに始めて大市場としての規模完成す
大正十二年九月大震災の厄難に遭いしも組合員は鋭意復興に努力し以前に優る盛況を呈す時に問屋六十八名仲買百五名なり昭和十年二月中央卸賣市場法實施の一環として東京市中央卸賣市場の開設さるに際し國家の要請否みがたく父祖三百年愛着の絆を断ちて揺籃の地を去り築地本場に入り問屋は一体となりて会社を起こし仲買は舊態のまゝ開業すその後第二次世界大戦のため幾多の變革ありしも戦後再び舊状に復し業況益好調を極む斯る折柄舊京橋青物市場蹟記念碑建設の議起り期成会を組織して之が實現に努め漸くその工を竣えたり依ってここにその由来を記し開設以来二百八十餘年の歴史を回顧し其盛時を偲ぶたよりとなす
昭和三十四年六月 藤浦富太郎撰 江川碧潭書