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弁松さんの歴史  ~ 日本橋弁松総本店  ~

[rosemary sea] 2019年3月 7日 12:00

『ギフト、そして自分も楽しむ』をして取材します、rosemary seaです。

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中央区観光協会発行の「はじめて物語マップ」によりますと、"折詰料理専門店発祥のお店"として紹介されています日本橋弁松総本店さん。

前回のご紹介はこちらです。

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今回は弁松さんの歴史につきましてご紹介させていただきます。

 

今回も日本橋弁松総本店 八代目 樋口純一さんにお世話になりました。

一番上の画像、半纏姿でお店前、撮らせていただきました。

それでは・・・

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 食事処の「樋口屋」さん開業から、お弁当販売専門の「弁松」さんへ

 

皆さんご存知のとおり、江戸開府より関東大震災まで、日本橋に魚河岸がありました。

文化7年(1810年)、越後生まれの樋口与一さん、その日本橋魚河岸に「樋口屋」という食事処を開業しました。

これが「弁松」さんのはじまりです。

樋口屋さんはお料理の盛りの良さで評判になり、とても繁昌していたそうです。

でも魚河岸の人々はとてもせっかち、忙しくて自分の時間が持てません。

せっかくお食事が出てきても、全部食べ終わる前に席を立たなければいけないことも。

そこで与一さん、余り残ったお料理を経木(薄い木の板:この場合は木製の折詰)や竹の皮に包み入れてのお持ち帰りを勧めました。

この気配りが更に好評となり、お持ち帰りを希望するお客様が増えました。

これが弁松さんの折詰弁当のルーツ。

IMG_20190130_110445 (2)a.jpgそして二代目の竹次郎さんの時代には、最初から竹の皮で包んだお弁当を販売するようになりました。

更に三代目松次郎さん、食事処から折詰料理専門店へ変えました。これがお弁当販売の専門店として日本最初、と云われております。

屋号もこの時「弁当屋の松次郎」が縮められ「弁松」さん、となりました。

ですから中央区観光協会発行の「中央区はじめて物語マップ」にも「折詰料理専門店発祥のお店」として弁松さんが掲載されています。

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 西郷従道が手配した、弁松さんのお料理

 

大久保利通・・・明治維新の元勲、初代内務卿。

西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」と云われています。

その大久保利通、明治11年(1878年)5月14日、暗殺されてしまいます。

これが「紀尾井坂の変」。

それより前、征韓論を巡る対立から下野した西郷隆盛、西南戦争で敗れ亡くなりました。

既に袂を分かった盟友の大久保は、その余波で不平士族によりこの変で討たれてしまいます。

大久保を慕い、兄である西郷隆盛に従わず政府に留まった西郷従道は、幾重にも衝撃を受けたでしょう。しかし本当はとても冷静で、細やかでした。

この事件のことを聞き及んだ西郷従道は、大久保の屋敷に、大重箱のお料理を用意して届けさせました。

これは弁松さんのお料理、150人前。その事件で集まってきた人々のために。

届けるお料理、お弁当といえば弁松さん、ということだったのでしょうね。

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 明治から現代へ 受け継がれる「濃ゆい」味

 

甘い、辛い、濃いめの味付け。これが受け継がれている弁松さんの味。

当初は日本橋の魚河岸で働く肉体労働者向けの、高カロリーを目指しての手段であったのかも知れません。

そしてお弁当としての特質上、日持ちをさせる意味も考えられます。

ただ、当時高価であったお砂糖などをふんだんに使ったそのお弁当は、見得でもなくハイソサエティーの層にも受け入れられたようです。

経木の折詰も現在まで続けられております。

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画像の上部は弁松さんの広告。明治29年のものです。

形状は少し変わっておりますが、明治の頃のお弁当、その前の江戸の味、今でも弁松さんに脈々と受け継がれています。

 

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弁松さんのお店に入って正面には木製の看板とのれん。

看板は恐らく戦後のもの、これを持って大空襲を逃れた、とは聞いていない、と、樋口社長。弁松さんの八代目です。

 

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 六代目片岡愛之助さんごひいきのお店

 

店内右側、歌舞伎役者の六代目片岡愛之助さんのサインとお店前で撮られた写真。松嶋屋、ですね。

愛之助さん、弁松さんのお弁当をごひいきにされています。

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はっきりとした味を好まれる故の、「濃ゆい味」の弁松さん。

味を薄めることは簡単なこと、とおっしゃいます。しかしそれではせっかくの伝統の味がボケてしまう、とも。

そういった変化は弁松さんのお弁当ではなくなってしまう、と言われます。

よそでは真似できない味、この味を好まれるお客様が一人でもいらっしゃる限り、守り続けたいとの意志を持たれています。

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 東都のれん会につきまして

 

先日の日本橋鮒佐さんの記事でも申し上げましたが、日本橋弁松総本店さんも「東都のれん会」に加盟されています。・・・

樋口純一社長は東都のれん会さんのホームページ内「大旦那のちょっといい話」のコーナーで『<日本橋弁松総本店>樋口純一さんの「日本橋絵葉書びっくり展覧会」』を連載されています。

現在第5回まで載っています。全10~12回の連載となる予定、と伺いました。

樋口社長は個人的に「日本橋の古い絵葉書」を蒐集しておられ、それを厳選してご紹介しています。

ぜひご覧になってください。

東都のれん会さんのホームページはこちら

⇒  http://www.norenkai.net/

 

・・・次回はこのブログでの樋口社長の蒐集する日本橋絵葉書の展覧会、そして社長インタビューへと続きます。

 

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日本橋 弁松総本店

日本橋室町1-10-7

東京メトロ半蔵門線・銀座線 三越前駅 より徒歩3分

03-3279-2361

営業時間  平日 9:30~15:00

      土日祝 9:30~12:30

電話受付  平日 8:30~16:00

      土日祝 8:30~13:00

日本橋弁松総本店さんのホームページはこちら

⇒ http://www.benmatsu.com/

 

 

 

 

 

◆ 京橋物語6~曲がり角の先の街

[隅田の花火] 2019年3月 7日 09:00

京橋物語のエピローグ。今回が最後となりました。

前回まで → 【①】 【②】 【③】 【④】 【⑤】

 

下は、戦後昭和37(1962)年頃の、銀座から見た京橋の街並みです。

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写真提供:中央区立京橋図書館

 

京橋通りに立つ建物は、前回の最後の戦前絵葉書からほとんど変わっていません。南伝馬町だった頃の大正時代の面影は、太平洋戦争を乗り越えて、昭和30年代も続いていたことがわかります。

 

しかし、東京オリンピックを前にして昭和38年に京橋川の埋め立てが始まり、京橋が無くなり、そのあと京橋の街の建物も一つ一つ姿を変えていきました。

 

今からちょうど50年前の昭和44(1969)年5月、京橋で最も名が知られていた建物「第一相互館」の解体式が行われています。今までずっと、この京橋のランドマークを眺め続けてきた都民から、「せめて屋上にそびえる、あの赤レンガのドーム屋根だけでも残せないものか」という投書もあったようで、惜しまれながらの解体でした。しかし、関東大震災と太平洋戦争を乗り越えたこの頑丈な建物は、解体するだけでも難工事だったそうです。

 

一方、川に架かる橋のほうですが、橋が無くなった現在も京橋跡に残されているものがあります。親柱です。親柱は3基残されていて、そのうち2つは明治8年の石橋のものと伝わる、擬宝珠の意匠の親柱、もう1つはロケットのようにも見える大正時代架橋の親柱です。

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わりと人気のあるほうは、江戸時代の香りが残る明治時代の親柱で、大正時代の親柱は、その時代に馴染みが薄いせいなのか、デザインが異様に感じられてしまう方もいらっしゃると思います。

 

この親柱はいつも、南伝馬町の街と一緒でした。大正時代に南伝馬町と一体感を持って街並みを作り、震災を乗り越え、銀座の復興を見守り、太平洋戦争も一緒に乗り越えました。しかし今はその仲間がいなくなってしまい、ある意味ひとりぼっちでかわいそうな感じもします。

 

そんな大正時代の親柱ですが、このデザインはそもそも何をモチーフとしているのでしょうか?

 

現在の京橋跡橋詰の「京橋大根河岸おもてなしの庭」には、大根河岸の記念碑や江戸歌舞伎発祥の碑があるのはご存知の方も多いと思います。しかしこの場所に、大正時代架橋の京橋の「袖柱」が残されていることは、あまり知られていないようです。

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現在、公園の車止めとして、重要な役割が与えられているこの袖柱。最近の公園の改修で、位置が少し移動したようですが、これを見て昔の袖柱だと想像するのは難しいかもしれません。

 

 

しかし、このデザインは立派です。よく見てみましょう。真ん中に大きい半球がモコッとしており、まわりに小さいのが4つ、モコモコモコモコッとしています。これ、何かに似ていませんか?。これまで、この長い物語にお付き合いして頂いた方であれば、想像してしまうものがあると思います。

 

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昭和初期・写真提供:中央区立京橋図書館

 

私には、南伝馬町のビルの「3つのドーム屋根」にしか見えてきません。

 

としたら、親柱の方も単純に、南伝馬町のビルの屋根をモチーフにしているだけではないのでしょうか。袖柱のイメージをグィ~~ンと上に引き伸ばしただけではないかと。かつての大同生命ビルのドーム屋根がトンガリ屋根になったかのように。

 

まあ、想像するのは自由で楽しいもの。歴史というものは謎があって、正体を知らない方が想像する余地があって面白いものです。せっかくなので、もう少し想像してみることにします。

 

大正時代の親柱にはまだ仲間が残されています。

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京橋跡の橋詰にある、銀座一丁目交番です。銀座のハシから、銀座の街をいつも見守っています。

 

この交番建築は80年代に建てられたそうですが、屋根のデザインは、間違いなく、大正時代のトンガリ屋根の京橋の親柱です。

 

しかし、それだけでしょうか。

 

ひさしや窓のデザインを見ると、明治の銀座の煉瓦街ではなく、大正から昭和初期にかけて、銀座の復興を見守ってきた「曲がり角の先」の街並みが見えてきました。豊国銀行、大同生命ビル、第一相互館、星製薬、三十四銀行、千代田館・・・。そしてトンガリ屋根の京橋。

 

かつての橋と南伝馬町の街並みが1つの建物になり、今は交番として銀座の街を見守っている。そう思うと、この交番のデザインは、とても素晴らしく思えてしまうのです。

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銀座通りを歩くと「曲がり角の先」に見える街、それが京橋です。明治や大正の頃を図書館で調べようとした時、日本橋や銀座の本はたくさんあるのですが、その中間にある京橋の街の本はほとんど無く、調べ方も分からず、街のイメージや時代背景を掴むこともできませんでした。そう思っていた時、あるものを見つけました。絵葉書の写真です。絵葉書は、過去の街並みをイメージできる一級史料であり、しかも京橋の街は日本橋や銀座に負けない位の絵葉書が残されているのです。その京橋の絵葉書を集め、時代順に並べ、文章で紡ぎ合わせてみました。

 

この物語で、明治・大正・昭和初期の街並みをイメージしていただきながら、今の「曲がり角の先」の街を歩いて頂ければ幸いです。きっとその先に、素晴らしい何かが待っていることと思います。

おわり。

***

<京橋物語・参考資料>

『日本近代建築の父アントニン・レーモンドを知っていますか』同プロジェクト委員会・㈱教文館/2016

『松坂屋・銀座とともに八十年』㈱松坂屋/2004

『松坂屋百年史』㈱松坂屋/2010

『松屋百年史』㈱松屋/1969

『震災復興<大銀座>の街並みから(清水組写真資料)』銀座文化史学会/1995

『明治・東京時計塔記改訂増補版』平野光雄・明啓社/1968

『第一相互館物語』第一生命保険相互会社/1971

『人民は弱し官吏は強し』星新一・新潮社/1967

『中央区沿革図集京橋篇』中央区立京橋図書館/1996

『銀座通聯合会六十年史料』銀座通聯合会/1980

『中央区の橋梁・橋詰広場~中央区近代橋梁調査~』中央区教育委員会社会教育課文化財係/1998

『東京再発見~土木遺産は語る』伊東孝・岩波新書/1993

『彩色絵はがき・古地図から眺める東京今昔散歩』原島広至・㈱中経出版/2008

『歩いてわかる中央区ものしり百科』中央区観光協会/2018

『京橋図書館画像データ』HP内記載の資料詳細欄

『戦前絵葉書』自己所有(特派員の活動費を使い収集)

***

*建物の名前や社名は時代により変遷しているものがありますが、物語の都合上、統一して記載しました。

*文章と絵葉書の年代を極力合わせるよう努めましたが、物語の都合上、合っていないものがあります。

*画像のいくつかをクリックすると拡大画像や解説画像が現れるよう施しました。

 

ご参考・現在の京橋の街並みの記事 →こちら

 

 

 

特派員のひとり反省会 その4~第11回中央区観光検定より~

[えだまめ] 2019年3月 6日 09:00

子連れ特派員のえだまめです

その1→ /archive/2019/02/11-14.html

その2→ /archive/2019/02/11-15.html

その3→ /archive/2019/02/11-16.html

に引き続きまして、

2月3日(日)実施の「第11回中央区観光検定」の中から

気になった問題を取り上げたいと思います。


問34 毎年10月19・20日に開催される「べったら市」は中央区の秋の風物詩です。

10月20日に行われる行事の供え物を販売していた市が起源と言われます。

では、10月20日に行われるのが習わしだった行事とは次のうちどれでしょう。

ア.十九夜講  イ.酉の市  ウ.茅場町薬師詣  エ.恵比寿講


ちょっと中央区のことを勉強したりお散歩したことがある方にとっては

答え自体はそれほど難しくなく導けるのでは?と思いました。

正解は・・・私のスマホの中にあった過去のべったら市の写真を。

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右上の方にものすごく大きな提灯が。

その中に「恵比寿神社」と書いてあります。

「べったら市」は大伝馬町にある「宝田恵比寿神社」の門前で行われていた

「恵比寿講」が始まりなのです。

ちなみに「恵比寿講」とは。

商業・農業の紙である恵比寿様をまつる行事で、

神像や打出の小槌・懸鯛・切山椒などの縁起物を添えて

商売繁盛を祈願したものです。

そういえば・・・

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えだまめ、べったら市に行ったときに切山椒、買ってました。

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これも恵比寿講のお供え物だったから、あそこで売られていたのですね。

山椒のさわやかな風味が心地よかったのを覚えています。

というわけで、こたえはエ、なのです。


が。

なんでえだまめがこの問題で「気になる」だったのか。

「・・・十九夜講ってなに・・・??」

イ.の酉の市

中央区内でも人形町にある松島神社で行われていますし。

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(写真はいつかの年のお正月です)

以前に先輩特派員の「柴犬」さんが酉の市のことを取り上げてくださってましたしね。

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ウ.の茅場町薬師詣についてもたっぷり公式テキストで1ページを割いて

解説がくわしく載っていますよね。

茅場町にある智泉院にあった薬師如来像は江戸庶民の篤い信仰をあつめていました。

そし毎月8日と12日の縁日には植木市も開かれ、とても賑やかだったそうです。

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(こちらは茅場町薬師のあった智泉院の境内にある地蔵菩薩立像)


ですが、十九夜講については聞いたことが無かったので

ちょっと調べてみることにしました。

【子安神(こやすがみ)】

安産子育ての神。『日本三代実録』貞観 18 (876) 年7月 11日の条に

すでにその名が出ていることからもわかるように,古くからある信仰で,

広く各地で行われた。

現在では子安観音,子安地蔵,子安八幡など他の信仰と結びついたものが多い。

東日本には子安講といって,婦人が集って子安様を信仰しているところがあり,

月の 19日に集るので十九夜講とか十九夜様とも呼ばれている。

(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の記述より)


なるほど。子安神信仰の「講」だったのですね。

そして「べったら市」の行われる19日と日にちがかぶってる!

「間違い選択肢」にするにはある意味ぴったりだったかもしれません(笑)。

・・・そして、中央区内に子安神を祀るところはあるのかしら?

不勉強につき、えだまめは見つけられなかったのですが・・・。

都内だと「子安」の名前がつく神社もいくつかあるようですね。

今後はお散歩のときに神社の御祭神もチェックしておこうと思います。


そんなわけで「江戸時代の信仰について」

少しおさらいできた問題でした。

解けた問題でも掘り下げてみると発見はたくさんありそうです。

疑問に思うこと、引っかかることを見逃さずにいたいものですね。

 

 

シドモアが見た中央区(3)輝かしき新富座の記憶

[Hanes] 2019年3月 5日 14:00


こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
今回は「シドモアの見た中央区」の最終回で、新富座について取り上げます。
今はなき新富座ですが、歌舞伎座ができる前の時代において、
海外から来られた方々からはどのような印象を抱かれていたのか、
そもそも新富座はそのような方々に知られていたのか...
そのようなことは、シドモアが残した記録から読み取ることができます

■東京の大劇場、新富座およびその周辺
意外かもしれませんが、「東京で大劇場と言えば」の続きは、
「新富座[京橋(中央)区新富町]です」となっています
では、海外の方から見ても「東京の大劇場」と言える新富座およびその周辺はどのような様子だったのでしょうか。

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間口の長い切妻造の建物で、入場口の上段に役者絵が並び飾られています。通りには茶屋料亭が連なり、見物客が夕食後に出かけ二時間程度で終わるような短い芝居ではないことを暗示しています。あらかじめ観覧団を念入りに編成し、丸一日観劇に没頭します。芝居は通常朝の一一時に始まり、晩の八時か九時頃に終わります。短期間の顔見世興行の後、千両役者の登場や壮大な舞台装置の予定が分かると、見物客は適宜、観覧時刻を指定します。身分の高い日本人にとり、自ら劇場入口へ行き見物料を払って入場する行為は、かなり体裁の悪いことなので、そういう観客は少なくとも一日前、当日の切符手配のために劇場のそばの茶屋へ使いを走らせ、仲介を通して座席を確保します。つまり、茶屋は切符売場と組んだダフ屋なのです!適当な時間に観覧団一行が茶屋に集まり、当日の昼食や夕食を注文し、それから茶屋の責任者が客を観覧席に案内します。日に何度か湯茶のサービスがあり、また御用聞きが休憩時間中に「何か欲しいものはございませんか」と注文に来ます。夕食時、品数豊富に料理の入った大きな漆塗の重箱が運ばれ、パトロンは心地よく座って食事をとります。各座席には、円錐状に炭火が積まれた煙草盆が備えられ、誰もがキセルに火を点け、煙草を吸うと同時に吸殻をコツンと出します。ときどきこの音が舞台演技に合わせ、大合唱となります!?


ここからは、当時の観劇が一日がかりの娯楽であったため、
周辺には茶屋や料亭が連なり、昼食や夕食をとることができたことが分かります

そして、歌川国政「新富座本普請落成初興行看客群集図」を見ても分かる通り、
食事をしているお客さんや御用聞きが描かれています。
歌舞伎と美味しい食事が切り離せないのは、今も昔も同じなのですね

■新富座の内部
以上より、新富座の周辺が賑やかで、どう食事を調達していたかは分かりました。
では、新富座の内部はどのような様子だったのでしょうか?

劇場の建物は軽く薄っぺらな木造建築で、至るところに茣蓙が敷いてあり、どこも似通った造りです。四角い座席、傾斜した床、簡素な低い廊下、そして舞台が場内いっぱいに広がっています。低い横木が床の空間を桝型に分け、客の出入りする連絡橋として役立っています。観客は常時、桝席の床に座って観覧し、各席は六フィート[一・八メートル]角の大きさですべて四人用に設計されています。歩廊を見ると、片側に桝席が一列、舞台に向かって若干桝席があります。それら座席の後ろには立見客の囲いがあって、一幕につき銅貨一、二枚程度の料金を払います。この大向こうの囲いは"つんぼ桟敷[幕見席]"と呼ばれていますが、この客の騒々しいことおびただしく、耳の不自由な人でも耳を塞ぎたくなるほどです。劇場に入る客は履物に札を付けます。棚は吊るした下駄であふれ、まるで玄関ロビーの飾り物です。建物の中には果物、茶、菓子、煙草、玩具、簪、スターの写真、さらに小間物を売る店があり、桝席の客はどんな買い物も屋外に出る必要はありません。しかも明るく風通しのよい開放的な芝居小屋なので、冬場は隙間風が素通りです!


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(出典:瀬川光行編『日本之名勝』(史伝編纂所、1900 )

内部は「騒々しいことおびただしく」と言われるほどにぎやかだった一方、
屋内で買い物ができるような快適な空間だったようです
しかし、「明るく風通しのよい開放的な芝居小屋なので、冬場は隙間風が素通りです!」という皮肉にもユニークな表現からは、
明治11年の再建で椅子席ガス灯が導入され、開場式には在京の外国人を招待し、
後にフットライトも設置された文明開化を代表する雰囲気の新富座でも、
建築の面ではまだまだ課題があったことが読み取れます

■在京の外国人からの評価
前述の通り、日本人のみならず、外国人も歌舞伎にふれる機会がありましたが、
彼らは新富座および歌舞伎に対してどのような印象を抱いたのでしょうか。
そして、どの程度受け入れたのでしょうか。

「写真の中の明治・大正 -国立国会図書館所蔵写真帳から-」のコラムによると、
「日本には浪人という者が長い刀をさしていて、外国人を見ればすぐに斬る」と心配されて赴任した英国公使館員トーマス・マックラッチでさえ、
再建後の開場式にて綺麗な劇場美しい芝居を見物できたことを喜び、母国の母や友人に詳しく手紙に書いたといいます

また、同年7月にはグラント前アメリカ合衆国大統領を迎え
入口や表の通り舞台上に両国の国旗を飾り、フィナーレで踊る芸者たちの衣装は、
「赤白の横筋の着物に、その下は藍地に白の星を染め出した襦袢の揃いという扮装で
星条旗に擬えるという、いささか奇抜ともいえるほど華やかな演出を企画」したそうです

どうやら、今日私たちがイメージしている伝統的な歌舞伎とは異なり、
演出には意外と柔軟性があったようです

また、歌舞伎役者は外国人居留地に住んでいた外人家庭から
ティー・パーティーに招かれることもあったと、シドモアは書いています。
その時の様子は、数日後英国日刊紙と自称する国内英字新聞に大々的に載り、
そこには山のような出席者リストも掲載されていたことから、
当時の外国人にも歌舞伎は娯楽や饗宴として受け入れられていたことが分かります

こうして海外の方からの視点で当時の日本を見ることで、
新たな発見や学びがあるのではないでしょうか
東京2020大会に向けてますます訪日観光客が増えると見込まれており、
「自分が彼らの立場だったら...」という視点で日本文化・習慣を見直すことも重要になってきています!
シドモア以外にも明治時代の中央区の様子を記録した海外の方はたくさんいます。
お時間のある際には彼らの本を手に取り、「新たな中央区」を「発見」してみてはいかがでしょうか。

【参考文献・ウェブサイト】
エリザ R. シドモア(著)/外崎克久(訳)『シドモア日本紀行』(講談社、2002年)
国立国会図書館「写真の中の明治・大正 -国立国会図書館所蔵写真帳から-」、9 明治時代の芝居と劇場(一)新富座/守田勘弥の欧化熱
独立行政法人日本芸術文化振興会「文化デジタルライブラリー-新富座」
独立行政法人日本芸術文化振興会「文化デジタルライブラリー-新富座本普請落成夜劇場看客群衆図」

【関連記事】
「シドモアが見た中央区(1)鰻は時代と国境を超える」
「シドモアが見た中央区(2)時代の変化と無縁な予期せぬ掘出物とは」

 

 

日本橋鮒佐さんの歴史・由来  ~ 日本橋鮒佐 ~

[rosemary sea] 2019年3月 5日 09:00

『ギフト、そして自分も楽しむ』をフォーマルに取材します、rosemary sea です。

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先日、佃煮の老舗・日本橋鮒佐(ふなさ)さんのお店のお品につきましてご紹介しました。

前回の記事はこちらです。

⇒  /archive/2019/02/post-6101.html

今回は、日本橋鮒佐さんの歴史・由来につきまして述べさせていただきます。

 

株式会社日本橋鮒佐 統括本部長 宮内悠(みやうち ゆう)さんにお世話になりました。

それでは・・・

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日本橋鮒佐さんの創業は1862年(文久2年)、江戸時代の終わりの頃。

初代佐吉さんはもともと武士でした。北辰一刀流、免許皆伝の腕前。

趣味の釣りが高じて、釣った小鮒を串刺しに、醤油の付け焼きで「鮒寿々め焼(ふなすずめやき)」として販売していました。

ある日釣り船を出し、時化に遭いました。流れ着いたのは佃島。

そこで地元の漁師が雑魚を塩煮にしているのにヒントを得、小魚を煮込み売り出しました。この時の醤油煮が現在の佃煮の原型を創った、と云われています。

 

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佃煮は日清・日露の戦いで注目されるようになりました。

保存性の高かった佃煮が戦時食とされ、帰国後の兵隊さんがこぞって佃煮を買い求められるように。

 

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お店の名前は「鮒屋の佐吉」さん、そこからのネーミングですが、「金鮒佐(きんふなさ)佃煮」を商標登録されています。

それは3代目・大野金盛(かねもり)さんが、受け継いだ秘訣の味に更に工夫を重ね、江戸名物の佃煮を生み出した記念に由来します。

江戸の食通より評判の日本橋鮒佐さん、現在は4代目の宮内隆平(りゅうへい)さん、5代目の宮内悠さんがみずから佃煮などのお品を創られています。

 

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ところで、日本橋鮒佐さんにつきましては以前、ロズマリの記事にも引用したことがあります。

それは2017年3月9日アップの「神茂(かんも)さんの歴史について語ります ②」

その際の神茂さん、井上社長の談。・・・

『平成24年8月放送のTBSの番組「ぴったんこカン・カン」で日本橋を俳優の勝村政信さんが回ったとき、うちの母もお店とともに出ました。

勝村さんのお父さん、佃煮の鮒佐さんの職人でした。・・・』

・・・そうです、勝村さんのお父さんは日本橋鮒佐さんの製造部長をされていたそうです。

蒲鉾の老舗・日本橋神茂さん、鮒佐さんとは道を挟んだ斜め向かいです。

どちらも「東都のれん会」さんに加盟しています。

 

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東都のれん会さんは・・・

江戸・東京で3代、100年以上同業で継続し、現在も盛業、の条件を満たす、古いのれんのお店の集まり。

50余店の加盟があり、ロズマリ記事でも榮太樓總本鋪さん、黒江屋さん、千疋屋総本店さん、榛原さん(順不同)が登場しています。

更にこれから記事を書かせていただく日本橋弁松総本店さんも、加盟されています。

 

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IMG_20190123_111850 (2)a.jpg日本橋鮒佐 本店

日本橋室町1-12-13

東京メトロ銀座線・半蔵門線 三越前駅 A4出口より徒歩3分です。

03-3270-2735

営業時間 月~土 10:00~18:00

     祝 日  11:00~16:00

定休日  日曜日(12月の日曜は営業します。)

 

日本橋三越 支店

日本橋室町1-4-1 三越日本橋本店

03-3241-3311(大代表)

営業時間・定休日 百貨店に準じます。

 

日本橋鮒佐さんのホームページはこちら

⇒ http://www.ganso-tsukudani.com

 

 

 

梅香 春の息吹を楽しむ

[あすなろ] 2019年3月 4日 09:00


東風吹かば 匂ひおこせよ 
梅の花 主なしとて 春な忘れそ 
 
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江東区の亀戸天神では紅梅や白梅が咲き、
境内はほんのりとした梅の香りに包まれています。
 
 亀戸天神400.jpg
 
さて、亀戸天神の兼務社に、元徳稲荷神社があります。
 
三河国の河村家の氏神様として祀られていたのを
始まりに、江戸開府に伴って神田川沿いの徳右衛門町
邸内、そして明暦の大火後には本所へ移封され、
神社も移祀。
 
参拝する人が絶えず、多くの参拝の便を考え、
邸内から現在の地(墨田区立川三丁目三ノ橋付近)
にあります。
 
細川公の懇請により、中央区日本橋浜町には御分霊を
お祀りする元徳稲荷神社綱敷天満神社が鎮座します。
 
 元徳稲荷400.jpg
 
春が近づいてきたことを予感させますね。
 
◆亀戸天神社
 東京都江東区亀戸3-6-1
 
◆元徳稲荷神社綱敷天満神社
 東京都中央区日本橋浜町2-3-5