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◆ 京橋物語1~銀座から見える曲がり角

[隅田の花火] 2019年1月31日 12:00

今日は銀座シックスの屋上に来てみました。

 

銀座通りの人混みを歩いたあと、ここに来てみると少し心が落ち着きます。屋上をゆったりと周遊して、東京タワーやスカイツリーを探してみるのも良いものです。でも眺めてみたいものは他にもあります。それは銀座の街並みです。その中でも一番なのは、4丁目交差点方面ではないでしょうか。

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和光の時計台は、実に良いです。ですが銀座の街は、思ったよりゴチャゴチャしているんだなぁ、という印象です。 

 

銀座シックスが建つ前、この場所にあったのは松坂屋銀座店。その松坂屋からの戦前の風景は、このような感じでした(昭和8(1933)年頃)。

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今と比べればスッキリとした、関東大震災から約10年後の銀座です。4丁目交差点に建つ和光はこの当時、服部時計店と言いました。右の向かいにあるのが銀座三越、服部時計店の向こうに見えるのが教文館です。

 

歴史を調べてみたところ、この3つが建てられたのは、以下の年でした。

    昭和5(1930)年・銀座三越 

    昭和7(1932)年・服部時計店

    昭和8(1933)年・教文館

もし過去に向かって少しずつ遡ることができれば、新しい順に建物が無くなっていくはずです。今回は少し趣向を変え、過去にタイムスリップして、銀座通りの時間旅行にご案内してみたいと思います。

 

まず、少しだけ遡ってみたのですが、無くなったビルがあります。分かりますでしょうか。

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歴史のとおり、教文館が無くなりました。服部時計店は建っているので、教文館が建つ前年の、昭和7(1932)年頃の風景です。

 

教文館の設計者はアントニン・レーモンド。銀座の街には、彼が設計した建物がいくつか建ちましたが、今いる松坂屋も彼の設計の時代があったそうです。

一方の服部時計店。この時計塔は2代目で、初代の時計塔が建ったのは明治27(1894)年でした。改築のために初代が取り壊された後に関東大震災に遭い、震災から9年後にこの2代目が建ったというわけです。

 

さらに遡ってみます。昭和4(1929)年頃の4丁目交差点です。

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服部時計店の建物が無くなりました。向かいにはクレーンが立っているので、三越は建築中といったところです。その向こうには山口銀行、さらに向こうに見える大きなビルは、百貨店の松屋銀座です。松屋はこの当時、既に営業していたことがわかります。

 

さらに遡りましょう。

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すると服部時計店の場所に低層のバラック風の建物が現れました。昭和初年の風景です。この低層の建物は震災後に建てられ、三越が入居して一時的に営業をしていたといいます。その後三越は、向かいの場所にビルの建設を始め、昭和5(1930)年の帝都復興祭の直後、大規模百貨店として今の銀座三越を開業しています。

 

さらに遡り、震災の年に近づいてみます。すると松屋のビルが鉄骨に変わります。

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写真の一番下には、松坂屋のビルの鉄骨の影が写っているように見えるので、松屋、松坂屋のビルが共に鉄骨だった時代のようです。歴史的にはそれぞれの開業が、

    大正13(1924)年12月1日・松坂屋

    大正14(1925)年 5月1日・松屋

ですので、大正13年頃の風景ということになります。大正13年といえば、関東大震災のあった翌年で、この風景の中にも建物を再建している様子をあちらこちらに見ることができます。

 

 

ご覧のように、現在の銀座シックスの屋上は、関東大震災の後、銀座の街の復興をずっと眺め続けてきた場所でした。

 

松坂屋は、銀座に初めて開業した大規模百貨店です。この当時、ここ銀座6丁目は尾張町と言い、ビルを建てたのは国光(こっこう)生命保険。上階で国光生命が営業し、下階に松坂屋が入って店を構えました。

s_hanabi_68-7.jpg今では信じられませんが、全館土足入場ができる初めての百貨店として話題を呼びます。賑わう屋上動物園や、近隣の駅から出る黄色い送迎バスもあり、松坂屋の開店によって銀座は、高級志向の街から一般大衆も楽しめる街へと変化していきます。

 

一方の松屋銀座はどうだったのでしょう。少し遠くて見えないので、空中移動して近づいてみます。

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はためいている旗は、松と鶴からデザインされた松屋のマーク、そして下に見えているのは銀座通りです。ここは完成後の松屋の屋上。銀座3丁目から1丁目の方向を眺めています。

 

松屋の開業は、松坂屋の開業から約半年後の大正14(1925)年でした。松屋自体は明治2(1869)年に横浜で鶴屋として創業していますので、今年は創業150周年にあたります。8階建てのこの建物は、生命保険会社により建設が始まります。しかし途中で松屋が下階に入居することに決まり、設計変更で大きな吹き抜けが作られることになりました。鉄骨の状態で震災に襲われるも、その20ヶ月後に開店します。

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特に内装はとても豪華だったようで、来店する多くの人びとを魅了し、話題をさらいました。このあと松坂屋と共に、銀座の復興を牽引していく立役者となっていきます。

 

銀座通りに目を移してみると、斜め向かい方向に大きなビルが見えます。これは大正4(1915)年に5階建てとして竣工した大倉組本館。建設当時は東京でも最高層のビルでした。

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建てられてた年からも分かるように、このビルは関東大震災を乗り越えました。大倉組本館といえば、アーク灯が灯された初代の建物の頃も知られていますが、それはこの風景の40数年前の話。写真は2代目の建物、昭和初年の風景です。カルティエが入る現在のOkuraHouseは4代目になります。

 

気になってしまうのは、銀座通りの向こうの「曲がり角の先」に見えるビル群。何だか大正ロマンを感じさせる、雰囲気の良さそうな街並みが広がっています。きっと素晴らしい街に違いありません。

 

大倉組本館の屋上に空中移動して、少し近寄ってみることにしましょう。

s_hanabi_68-11.jpg左側の「トンガリ屋根」と、右側の「円形ドーム」の背の高いビルが印象的。昭和初年です。

 

この場所で大正時代に突入してみます。大正14(1925)年頃の、曲がり角の先の街並みです。

s_hanabi_68-12.jpgん?何かが変わりました。

トンガリ屋根が円形ドームに変わっています。大正時代はトンガリ屋根ではなかったみたいですね。 この曲がり角の先にある街は、現在の京橋、この当時は『南伝馬町』という町名でした。曲がり角には京橋川が流れていて、その上に『京橋』が架かっているはずです。震災から数年しか経っていないこの時に、大きなビルが立ち並ぶ街は、どのような発展を遂げたのでしょうか。

 

今回はここまでに致します。銀座通りのタイムスリップと空中散歩。いかがだったでしょう。次回からは、この「曲がり角の先」の街並みについて、時代順にご紹介していきたいと思います。『京橋物語』のプロローグでした。

(参考文献等はエピローグに纏めて記載予定) 

 

 

 

カステラと文明堂、その歴史に迫ります  ~ 文明堂 日本橋本店 ~

[rosemary sea] 2019年1月30日 18:00

『ギフト、そして自分も楽しむ』をビジブルに取材します、rosemary sea です。

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文明堂 日本橋本店さん、その歴史につきまして、今回は触れたいと思います。

カステラと文明堂さん」と「文明堂さん 歴史年表」の2部構成でご紹介します。

今回も株式会社文明堂東京 日本橋本店 星野本店支配人にお世話になりました。

それでは・・・

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(スペイン駐日大使館にて、文明堂主人とフランシスコ カステリオ大使)

カステラと文明堂さん

カステラはスペインの「カスティーリャ王国のお菓子」という触れ込みで、16世紀に南蛮貿易の港として賑わう長崎に伝わりました。

文明堂さんは1900年に九州長崎で創業。

皆さんご存知のとおり、長崎は我が国が鎖国をしていた江戸時代も唯一のヨーロッパとの貿易港として栄えました。

文明堂さんはスペイン・ポルトガルより伝わり長崎で育ったカステラを、日本のお菓子として広めました。

吟味された素材と熟練職人の技による菓子づくり。

文明堂さんはそこから生み出される美味しさに、真心を添えてお届けします。

憩いのひとときに彩りを添えたい、それが創業以来受け継がれてきました文明堂さんの想いです。

全てはお客様の笑顔のために。今も、これからもずっと・・・。

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(昭和26年頃の日本橋本店風景)

文明堂さん 歴史年表

【天文年間】

スペインよりポルトガル船で、長崎の地にカステラが伝来。

【1900年(明治33年)】

中川安五郎さん、長崎丸山町にて文明堂創業。

【1914年(大正3年)】

東京で開かれた大正博覧会で、カステラ出張実演販売を行う。

【1922年(大正11年)】

安五郎さんの実弟・宮﨑甚左衛門さんが東京へ進出。上の黒門町に東京1号店出店。これが東京文明堂の創立となります。

【1923年(大正12年)】

関東大震災により店舗焼失。一時長崎へ帰りますが、再び上京し麻布箪笥町に出店。

同年、炭焼釜・ガス釜に代わる電気釜を開発。

【1924年(大正13年)】

全国初となるカステラ実演、併せてカステラの2割増量、いわゆる「オマケ」を始める。

【1925年(大正14年)】

宮内省、現在の宮内庁の御用達(ごようたし)を賜る。

【1935年(昭和10年)】

電話帳の裏表紙全体に「カステラ一番、電話は二番」と、大きく宣伝を出す。

【1941年(昭和16年)】

物資不足でオマケ中止。

【1945年(昭和20年)】

東京大空襲で店舗焼失。

【1950年(昭和25年)】

カステラの製造、三笠山の実演販売を再開。

IMG_20190121_112411_1 (2).jpg【1957年(昭和32年)】

テレビコマーシャル開始。

「♪カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂。カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂ー♪。」

【2000年(平成12年)】

文明堂創業100周年を迎える。

【2013年(平成25年)】

文明堂 日本橋本店さん、リニューアルオープン。

現在に至ります・・・。

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文明堂 日本橋本店

日本橋室町1-13-7

03-3241-0002

無休

営業時間 平日 9:30~19:00

    土・日・祝日 10:00~19:00

日本橋三越さんのライオン像のある角、COREDO室町1とCOREDO室町3の間の江戸桜通りの右側を歩き、COREDO室町2の建物が切れるところの向かい側です。

文明堂東京さんのホームページはこちら

⇒  http://www.bunmeido.co.jp 

 

 

江戸っ子とは

[にゃんボク] 2019年1月29日 09:00

「ねーねー、江戸っ子っていうとどんな気質のことを言うの
『それ、あれでしょ、宵越しの銭は持たないとか、生粋の江戸のはえぬき、とかでしょ?』
「そう、山東京伝さんが、他にもいきとはりを本領とするとか、いくつか定義づけているわよね。あとさー、"芝で生まれて神田で育つ"なんていうのも言うわよね」
『あ、言いますね。神田は江戸を象徴する町人地なので、神田っ子は江戸っ子の代名詞みたいに言いますよね』
「じゃあさー、江戸の中心というと日本橋が挙げられるのに、どうして神田が江戸を代表するような言い方をするの
『えっ・・・。え、えーと江戸って元々は隅田川などが流れ込んできた"江の戸"にできた湊なので本来は江戸橋や日本橋周辺のことを言ったんですよね』
「あら、よく知っているわね。そのとおりね。"江戸方角安見図"では"ここより北は神田、南は江戸"と書いてあって、厳密には江戸と神田は別と考えられていたのよね。じゃ、なんで神田っ子が江戸っ子の代名詞になるの
******
『・・・え?』
******
「・・・ぼーーーっと生きてんじゃイラッイラッイラッイラッイラッ」(以下略)

「答えは、"雇ってもらえなかったからー!!!"」
『え???』
 
・・・やれ粋や通だの、高速道路が日本橋の景観を台無しにしたなんて言っているそこのあなた・・・・
 
********(様々な説があると思うのでそのうちの一つとして)**********
日本橋は江戸城正面の常盤橋門前に位置し、上方をはじめ全国からの物資が集散する地域でした。
また金座をはじめ金融センターとしての機能を備え、本町との名のように城下町の中心として作られた地域です。
ここには伊勢や近江、京都などを本店とする上方商人が大店を構えていました。この江戸支店、つまり江戸店(だな)は徹底して稼ぐ場所であり、店員は上方の本店から連れてきたので、江戸で現地採用をすることはありませんでした。
「宵越しの銭を使わぬ」ような人には声が掛からなかった。彼らが仕事を得るには日本橋から少し離れた神田で年季奉公をし、一人前の職人や商人になるより他なかった、っていうわけです。
(これを大店に"雇ってもらえなかった"と表現しています)
 
神田橋門外の町人たちは、武士や大店の店員に囲まれて彼らと共生できる独特の気風=神田っ子を作らざるを得なかった、ということのようです。
(参考文献:東京人「江戸から続く町人地」(2016年10月号)
**************************
karuta.jpg(写真は、日本橋かるたより江戸っ子に関係のありそうなものをチョイス。)
kanda.jpg(また、新年大賑わいの神田明神(江戸っ子が山王権現と神田明神氏子地域に生まれた人を言うことから))
 
なお CAMさんの「江戸っ子とは」にも詳しい記述があります。
 /archive/2017/09/post-4591.html
 
 

 

新場橋の現状  ・ 復旧工事

[rosemary sea] 2019年1月28日 12:00

rosemary sea です。300稿を越えて、初めて違うテイストで記事を書いてみます。

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新場橋(しんばばし)・・・

昭和通りの東側、西北は日本橋2丁目、東南が日本橋兜町(かぶとちょう)の阪本小学校(現在改築工事中)に繋がる、首都高速道路にかかる橋。

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その首都高はもともとは楓川(もみじがわ)というれっきとした河川でした。埋め立てられての首都高です。

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新場橋は、千代田橋と久安橋(きゅうあんばし)との間の橋。

もっとも、隣りの千代田橋は首都高の下にある橋ですから、新場橋は首都高は地上に出る最後の橋・地下に潜る最初の橋、そのようなスタンスの橋です。

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現在この新場橋が、車両通行止めのままとなっております。

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昨夏7月に首都高を通った自動車、高さ制限を侵したその車の一部がこの新場橋に当たり、橋げたを毀してしまいました。

それ以来の車両通行止めです。

 歩行者・自転車は通れます。

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復旧工事計画では点検・調査と新たな設計が済み、工事にとりかかる時期。

遅れがみられるようですが、そろそろ工期が示されるかと。

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ロズマリの職場から近いこの橋、とても気になります。

 

 

暮らしの中の二十四節気七十二候〔環境情報センター〕

[ジミニー☆クリケット] 2019年1月28日 09:00

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京橋3丁目にある東京スクエアガーデン6階京橋環境ステーション内の環境情報センター 展示スペースで、現在、「暮らしの中の二十四節気七十二候展」が開催されています

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期間は、昨年の12月19日)から1月30日)までです。

時間は、9時から21時までです。

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二十四節気とは、1年を太陽の動きに合わせて 24に分けた昔の分類で、「立春」、「啓蟄」、「秋分」、「冬至」などがそうです

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七十二候とは、二十四節気をさらに約5日ずつ3つに分けた期間のことで、「立春」であれば、「初候」が「東風解凍こちこおりをとく)」、「次候」が「黄鶯睍睆うぐいすなく)」、「末候」が「魚上氷うおこおりをいずる)」となっています。それぞれの意味は、「東風が厚い氷を解かし始める」、「鶯が山里で鳴き始める」、「割れた氷の間から魚が飛び出る」です

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この「二十四節気七十二候展」を見ると、私たちの先祖が、季節の変化うまく日々の暮らしに取り入れてきたんだなあということを強く感じます

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日本人の知恵が、写真イラストでわかりやすく紹介され、スペース内にパネルで展示されています

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展示の中はクイズもあって、考えて楽しめる内容にもなっています

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なお、スペース内での写真撮影については、今回もご了解をいただきました

ありがとうございます

環境情報センターのHPはこちら⇒

https://eic-chuo.jp/event/

 

 

葦が生い茂る地 (家康が江戸を建てた頃)

[GPP] 2019年1月26日 12:00


<家康、江戸を建てる>


 2019年1月2日、NHK正月時代劇「家康、江戸を建てる(前編:水を制す)」が放送されました。(原作者:門井慶喜)

https://www.nhk.or.jp/jidaigeki/ieyasu/index.html

 この時代劇の主人公は、家康の命で上水(じょうすい)を整備した、大久保藤五郎(俳優:佐々木蔵之助)です。

 江戸に上水を整備する任に就いた藤五郎は、神田明神辺りの湧水を探し当て、 まずは小石川上水を整備します。そして、江戸の人口増加に伴い、井の頭池から江戸の町に神田川上水を通す大仕事に取り組むこととなります。その辺の苦労や人間模様が描かれています。

 首都東京も、ほんの400年程前は、過酷な自然に覆われた荒野でした。


 中央区関連では、遊郭が葭原と名づけられる、など、その一帯は葦が生い茂るエリアだったようです。

 では、見渡す限りの葦が生い茂る地は、どのような風景だったでしょうか。


<こんなイメージ> -見渡す限り、葦の原-


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 葦の原は、こんなイメージです。釧路湿原で撮影しました。

 1つめの写真は、葦が茂った一角。ネイチャーガイドさんが、この場所を教えてくださいました。

 2つめの写真は、足元を撮影したものです。この辺りが湿地であることを示しています。

 葦が生い茂っていた頃の江戸の地をイメージするため、以前釧路湿原で撮影した写真を、今回引っ張り出しました。


<シーン> -旦那様、ここが江戸でございます- 


 最後に、時代劇「家康、江戸を建てる」の中で、印象的なシーンがあったので、紹介します。※これより一部、『ネタバレ』でございます。ご留意ください。

 (家康が江戸に入府した1590年。家康の命で、江戸の上水工事の任に就いたのが、大久保藤五郎。上水に適した湧水を探すため、藤五郎は安兵衛を伴い、駿府から江戸に向かっていた。藤五郎にとっては初めての江戸。道なき道を、草をかき分けながら進んでいたが、見渡す限り広がるのは、葦の原。そこで藤五郎が問うた。)

 大久保藤五郎:『安兵衛、江戸まであとどれくらいだ?』

 安兵衛:『何を言っているんですか、旦那様。ここが江戸でございます。』

 

 
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