中央区観光協会オフィシャルブログ

中央区観光協会特派員ブログ

中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

執筆者一覧

>>このブログについて

最近のブログ記事

本陣房でそばランチ 2〔銀座 本陣房〕

[ジミニー☆クリケット] 2019年2月19日 09:00

銀座2丁目、第27中央ビルの地下1階にある「銀座 本陣房」さんです

gosiki201901.JPG

このブログで、既に紹介済みのお店です

場所は、ちょうど、中央区役所昭和通りの中間あたりになります。

gosiki201902.JPG

蕎麦がおいしく、メニューも幅広く、店内は静かでゆったりしているので、ランチでよく利用させていただいてます

gosiki201903.JPG

本日のおすすめ、日替わり丼石臼挽き蕎麦を注文しました

本日の日替わり丼は、「海鮮五色丼

お蕎麦はあったかいのを注文。

五色丼は、まぐろねぎとろぶりサーモンしらすで、切り身が大きく新鮮です

海鮮丼とおいしいお蕎麦の組み合わせは最高ですね

gosiki201904.JPG

月曜から金曜までは、ランチタイム11時30分から14時30分まで、ディナータイム17時30分から22時までです。

土曜日曜祝日がお休みです。

ランチのローテーション入りしております

 

 

2019 早春の女神の庭

[サム] 2019年2月18日 15:00

DSC08703ELS'.jpgDSC08706RS'G.jpg 2月15日~22日までの8日間、ファンケル銀座スクエア(銀座5)では、10Fサロンスペース「ロイヤルルーム」を一般開放し、「早春の女神の庭」を開催中です。

現在年8回行なわれている「季節のガーデンイベント」の内、冬のガーデンイベントのひとつ。

今回のテーマは、「雪の女王から春の妖精へ」。

雪の女王の世界から、クリスマスローズや芽を出した球根、パンジー、ビオラが咲き乱れる春の妖精の世界が愛らしく演出され、誘います。

15日には、①13:30~、②15:00~ の2回、バイオリニストTSUMUZIの音楽イベントが開かれる他、期間中、育種ビオラを使った「ガーデニング ミニレッスン」や、個人育種家たちの個性豊かなパンジー・ビオラの展示・販売も行なわれます。

初日は小雪が舞う中でのオープニングとなりました。

 

 

創業50周年を迎えたギャルリーためなが―「アイズピリ展」始まるー

[滅紫] 2019年2月18日 14:00

100_3107.JPG 100_3105.JPG

西洋絵画専門の画廊として1969年にオープンしたギャルリーためながが創業50周年を迎え、創業当初より紹介してきたポール・アイズピリの展覧会が2月14日から始まりました。為永さんのご挨拶で「50周年企画の最初に採りあげるのはアイズピリ以外は考えられなかった」とお書きになっているように画廊とはご縁の深い作家です。

アイズピリといえば子供、飛行機、自転車、魚、鳥、そして勿論花とサントロペ、ベニスなど、暖かい色彩の軽やかな作品が多く、個人的には住まいに飾るのはアイズピリがいいなといつも作品を見ながら感じています。(買えると更に嬉しいのですが)。40点も並んでいて見ているだけで幸せな気分にさせてくれます。

創業者の為永清司氏が画廊を開いた1969年は西洋美術館が出来てまだ10年余り、日本人の西洋絵画に対する知識はまだまだの時代でした。当時の日本ではまだ無名だったエコールドパリの画家たち、モディリアニ、ヴァン・ドンゲン、キスリング、シャガールなどを紹介したのもこの画廊です。「創業期からともに歩んだ画家と画商の半世紀の軌跡」を是非ご覧ください。

 

ギャラリーためなが 銀座7-5-4

TEL 03-3573-5368 

10時―19時(日祝は11時―17時)

 

 

シドモアが見た中央区(2)時代の変化と無縁な予期せぬ掘出物とは

[Hanes] 2019年2月14日 14:00


こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
前回に引き続き、シドモアが見た中央区にフォーカスしたいと思います!

■江戸の面影(p. 75)
この箇所では、江戸の面影が残る東京の風景について、
当時の海外の人から見た忌憚のない正直な感想がつづられています

「初めて目に入る東京の風景は、横浜の最初の風景と同様、旅行者をがっかりさせます。銀座、この商業地区のメイン通りは、[新橋]鉄道駅の反対側にある橋から始まって、東海道の北端・日本橋へまっすぐ延びています。日本橋は全国距離測定の交通原点です。道路の大分部に、外国を手本にした月並の建物、縁石、緑陰が並んでいますが、その道を鉄道馬車[馬車鉄]がプープー音を響かせ、軽乗合馬車がガラガラ走るので、街の風景をかなり不調和にしています。これは観光客の夢見た大江戸ではなく、まして東洋の大都会でもありません。漆喰壁、木造円柱、ぎらつく店の飾り窓、けばけばしい模造品の山、このありさまに観光客はすっかり面食らいます。」

IMG_4104.JPG

初読時には、「そんなに言わなくても...」となんだか悲しい気分になりましたが、
外国の風景を見慣れた人からすると、このような厳しい感想が妥当なのでしょう。
そしてまた、私たちが海外でラーメンやお寿司を食べた際に、
「麺がのびていて残念...」「酢飯の部分がパサパサで食べづらい...」と感じたり、
日本式や日本風だという建物や庭園に中国要素を見つけたりと、
「あれ、なんだかイメージと違う...」と思うその感覚こそ、シドモアも体験したものなのではないでしょうか
そんなシドモアはこの後に一言、こう続けています。

「しかし、大都市特有の秘密の場所がたくさんあって、時代の変化とは無縁の予期せぬ掘出物が見つかり、当初の失望感を償うに足る純日本的な宝物が手に入ります。」

IMG_4175.JPG
(1932年竣工の高級デザイナーズマンション「奥野ビル」)

つまり、海外(特にヨーロッパ諸国)を手本に変化する中にも、不変の純日本的な場所がたくさんあるということです。
現代の私たちからしても、路地裏や大通りから少し離れたところにある日本ならではの歴史的建造物は、
まさに知る人ぞ知る「秘宝(hidden gem)」と呼べる魅力的な場所なのではないかと思います
また、中には「迷わなければ見られなかった」素敵な風景もあるかもしれませんね。
そのような予期せぬ掘出物があるのも、まち歩きの醍醐味だと言えます

DSC_3640.JPG
(1929年竣工の都選定歴史的建造物「宮川食鳥鶏卵」)

今回ご紹介したシドモアのコメントは、現代の訪日観光客が日本に求めていること、
そして海外旅行に行く日本人が求めていることにもつながるような気がします飛行機

ガイドブックに掲載されている王道のスポットを巡るのも良いですが、
伝統文化体験ツアーや「暮らすように旅する」タイプの旅行の人気も高まっています
また、「ザ・お土産屋」のようなお店で綺麗に包装されたお土産を買うより、
地元人の間で定評のあるものを買いたいという声も前より聞かれるようになりました。
そういった意味では、訪日観光客が何を求めているのかを考えるうえで、シドモアのコメントは参考になるのかもしれません

『シドモア日本紀行』には、軍隊や築地外国人居留地の当時の様子についても、
海外の人ならではの目線からの記録が残っています。
中央区立図書館に蔵書がないのは残念ですが、一読の価値がある書籍です
次回は、シドモアが見た新富座を取り上げます!

【参考文献】
エリザ R. シドモア(著)/外崎克久(訳)『シドモア日本紀行』(講談社、2002年).

 

 

◆ 京橋物語4~震災から昭和へ

[隅田の花火] 2019年2月14日 09:00

京橋物語の4回目。前回からの続きです。

前回まで→ 京橋物語 【①】 【②】 【③】

 

大正時代、大きく変貌していった南伝馬町の街並みが写された絵葉書です(大正10(1921)年頃)。絵葉書には「京橋通り」と書かれています。現在は「中央通り」という名前ですが、昔の絵葉書にはその場所毎に「銀座通り」「京橋通り」「日本橋通り」と印刷されました。それぞれの通りの名前が全国各地に写真付で届けられ、東京の発展が視覚的に知れ渡ったのです。

s_hanabi_71-1rv.jpg

しかし東京は、大正12(1923)年9月1日の出来事に襲われてしまいます。

 

この日の学校は始業式で、土曜日だったこともあり、子ども達は家路について昼御飯を食べようとしていました。被害の原因は、11時58分の地震の揺れによる建物の倒壊というよりも、そのあとに各地で発生した火災でした。それは南伝馬町も例外ではなく、街が焼かれてしまいます。

 

京橋川の少し上流、紺屋橋辺りから見ています。京橋川の護岸の先に写る大根河岸は焼失しています。しかし、南伝馬町の大きなビルは倒壊していないように見えます。

s_hanabi_71-2rv.jpg

京橋に近づいて確認してみます。下の絵葉書は、銀座側から京橋川越しに、橋と南伝馬町を見たものです。京橋は崩落を免れ、中央の背の高い第一相互館、左の大同生命、三十四銀行、右の豊国銀行のビル達は倒壊していません。あのモコモコした「3つのドーム屋根」は残ったのです。

s_hanabi_71-3rv.jpg

この関東大震災では、多くの有名な建物が崩れ落ちました。一番背が高いとされていた浅草の凌雲閣(浅草十二階)も被害を受けてしまい、南伝馬町の第一相互館がこの辺りで一番背の高い建物に成り代わります。第一相互館はこの後、復興してゆく東京を、一番高い場所から眺めていくことになるのです。

 

第一相互館から、震災の被害の状況を確認してみます。まず銀座の反対側、日本橋方面です。真下の街は、現在の京橋2丁目、当時の南伝馬町2・3丁目になります。

s_hanabi_71-4rv.jpg

瓦礫の山と化していますが、震災の3ヶ月前に竣工した千代田館は倒壊しませんでした。この葉書を作成したのは、千代田生命保険。葉書を各地に送り、本社の建物が倒れていないことを伝えました。それは契約者に安心してもらう目的があったようです。当時はまだラジオが無い時代。各地で情報が錯綜するなか、絵葉書は震災の情報を視覚的に伝えるメディアとして大きく機能したのです。

 

一方の第一相互館。この葉書も第一生命保険が作った絵葉書です。千代田館辺りから撮られた、9月28日の京橋通りになります。

s_hanabi_71-5rv.jpg

道路脇には小屋やテントのようなものが建てられ、通りには多くの人が集まっています。混沌としている様子も伺えますが、復興に向けて立ち向かう人びとのパワーも伝わってきます。

 

第一相互館から銀座方面を確認してみます。右下の京橋の袂には瓦礫が積まれているものの、その奥の大根河岸の建物は、仮屋のようなものが建ち始めているのがわかります。

s_hanabi_71-6rv.jpg

橋上には、荷馬車、リヤカーのような物が見え、復旧の真っ最中です。通り沿いの右側に建つ大きなビルは、震災を乗り越えた大倉組本館。通りの左側には、のちに開店する松屋の鉄骨が、僅かながら見えています。

 

銀座通りは、明治時代の煉瓦街から発展してきた高級街でした。しかしここでその時代の終わりが告げられ、新たな街へのスタートが切られることになったのです。

 

他のビルの状況を確認してみます。奥に東京駅が見える方角です。家々が建てられて、復興してきている様子も伺えます。

s_hanabi_71-7.jpg左のビルは片倉館、右は真四角窓の星製薬です。片倉館はこの後増築を繰り返して大きくなっていきますが、星製薬のビルは被害を受けてしまったため、この後、建て替えられることになります。真ん中に走る鍛冶橋通りは、震災復興事業による道路の拡幅が行われていきます。

 

この大震災の影響で、11月に行われる予定だった東宮殿下(のちの昭和天皇)の婚儀が延期となっていました。翌年の1月26日にご成婚、6月5日に祝賀となり、京橋には奉祝塔が建てられます。

s_hanabi_71-8rv.jpg

南伝馬町から銀座方面を写したものですが、銀座の新しい街並みが、もう形作られてきていることが分かります。この祝賀は、復興してゆく銀座通りに新たな希望と勇気を与えたのではないでしょうか。この5ヶ月後、銀座通りの尾張町には百貨店の松坂屋が開店することになります。

 

一方の南伝馬町。この界隈の大きなビルは倒壊しなかったため、銀座側から見ると震災前からほとんど景色が変わっていないように見えてしまいます。実際に絵葉書を見て、震災前なのか後なのか、時代を特定するのにとても苦労しました。

s_hanabi_71-9rv.jpg

手掛かりとなったのは、絵葉書に書かれている文字と、一番左手前に写るバラック風の建物です。この建物が写っていれば、震災後の南伝馬町の風景になります。

 

乗り合いバスが多く写るようになってくるのもこの頃から。大正14(1926)年の風景です。この年は、ラジオ放送が開始された年でもあります。

s_hanabi_71-10.jpg

震災があったにもかかわらず、大正時代の香りを残した南伝馬町の街並みは、何も起こらなかったかのように『昭和』の時代を迎えます。生まれ変わる為に最善の道を探る銀座の街からすれば、この南伝馬町の街並みは、ノスタルジックでもあり、見守ってくれているようでもあり、異様にも見えたかもしれません。

 

しかしここで突然、南伝馬町の街並みに変化が起こりました。

s_hanabi_71-11r.jpg

左側の大同生命ビルのドーム屋根が、なんと、グィ~ンと伸びたのです。

 

このトンガリ屋根はまるで、大正時代の京橋の親柱の意匠が乗り移ったかのよう。橋を架け替える時にまさか将来を予見して、親柱の意匠をトンガリ風にしたというわけではないでしょう。南伝馬町の街はどちらかと言うと、新しく生まれ変わるというよりも、昔へと回帰しているように感じられてしまいます。

 

いずれにしても、南伝馬町の街並みと京橋の意匠が一体化したのは事実のように思います。

s_hanabi_71-12rv.jpg

このように、関東大震災を乗り越えた南伝馬町の街並みは、大正時代の雰囲気をそのまま昭和時代へと継承し、復興してゆく銀座の街を見守り続けていくことになったのです。

つづく。

 

 

 

中央区ゆかりの文学者たち

[湊っ子ちゃん] 2019年2月13日 18:00

こんにちは、湊っ子ちゃんです。

明治維新後、私たちの中央区を舞台に、近代文学は育まれました。銀座煉瓦街には新聞社が次々に誕生し、情報産業が発達しました。また、多くの文化人が中央区を訪れ、小説や戯曲など、様々な作品のなかに、中央区の情景を描きました。

今日は、中央区にゆかりの深い、文学者たちについて調べてみました。


bunmapm.png


bun01m.png

北村透谷(きたむらとうこく)

明治元年-明治27年 (1868‐1894)

文芸評論家、詩人。小田原生まれ。明治13年(1880)、京橋区弥左衛門町(現・中央区銀座四丁目)に上京。泰明小学校に編入する。銀座を舞台とする自由民権運動に関与する。明治22年(1889)「楚囚之詩」「蓮菜曲」を発表。「文学界」の創設に参加し、「内部生命論」など数々の評論を発表する。


bun02m.png

島崎藤村(しまざきとうそん)

明治5年-昭和18年(1872‐1943)

詩人、小説家。長野県の庄屋の家に生まれる。明治14年(1881)、京橋区槍屋町(現・中央区銀座四丁目)に上京。泰明小学校に学び、明治学院を卒業。「文学界」の活動を通して北村透谷を知り、深い影響を受ける。明治40年(1907)から翌年まで、「春」を海水館(現・中央区佃三丁目)にて執筆し、代表作の「夜明け前」は築地小劇場で上演された。


bun03m.png

芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)

明治25年-昭和2年(1892‐1927)

小説家。京橋区入船町八丁目(現・中央区明石町)の牛乳牧場に生まれる。生後まもなく、本所区の母の実家へ移る。東京帝国大学英文科卒業。夏目漱石の門下に入り、第3次、4次「新思潮」の同人となる。代表作に、「羅生門」「鼻」「地獄の糸」「河童」など。



bun04m.png

郡虎彦(こおりとらひこ)

明治23年-大正13年(1890‐1924)

劇作家。京橋区南八丁堀三丁目(現・中央区湊一丁目)生まれ。学習院から東京帝国大学英文科に入学し中退。「白樺」同人。大正2年(1913)、「道成寺」が自由劇場で上演される。渡欧し、「鉄輪」「義朝記」を執筆。ロンドンで上演され好評を得る。


bun05m.png

川端茅舎(かわばたぼうしゃ)

明治30年-昭和16年(1897‐1941)

俳人。日本橋区蛎殻町二丁目(現・中央区日本橋人形町二丁目)生まれ。画家を志し、岸田劉生に師事する。病弱のため、俳句に専念し、高浜虚子に師事する。「ホトトギス」同人。句集に、「川端茅舎句集」「華厳」「白痴」がある。


bun06m.png

山岸荷葉(やまぎしかよう)

明治9年-昭和20年(1876‐1945)

小説家。日本橋区通り油町(現・日本橋大伝馬町)生まれ。東京専門学校(早稲田大学の前身)に進み、坪内逍遥に師事する。のちに尾崎紅葉の門に入る。「硯友社」同人。問屋街や芸者屋街など、生まれ育った町並みを題材にした「日本橋文学」を発表。「奉公始」「当世手代気質」など。のち、読売新聞社に劇評担当として勤務する。


bun07m.png

長谷川時雨(はせがわしぐれ)

明治12年-昭和16年(1879‐1941)

歌舞伎脚本家、評伝作家、小説家、随筆家。日本橋区通り油町(現・日本橋大伝馬町)生まれ。明治38年(1905)、「海潮音」でデビュー。女性の評伝において、その地位を築く。昭和8年(1933)、雑誌「輝ク」を発行し、多くの女性作家や評論家を世に送る。随筆では「旧聞日本橋」が代表作。


bun08m.png

長谷川かな女(はせがわかなじょ)

明治19年-昭和44年(1887‐1969)

俳人。日本橋区本石町(現・日本橋二丁目)生まれ。夫の富田諧三(長谷川零余子)の主宰誌「枯野」をサポートする。高浜虚子に師事。昭和5年(1930)に「水明」を創刊し、女性俳人の先達となる。句集に「雨月」「湖笛」、随筆に「小雪」「ゆきき」などがある。


bun09m.png

谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)

明治19年-昭和40年(1886‐1965)

日本橋区蛎殻町(現・中央区日本橋人形町一丁目)生まれ。坂本小学校に学ぶ。耽美派とされる「刺青」「痴人の愛」「春琴抄」などが代表作。また、自然主義文学や、「源氏物語」の現代語訳などを発表。戦後に発表した「細雪」は、谷崎文学の極致とされる。


bun10m.png

立原道造(たちはらみちぞう)

大正3年-昭和14年(1914‐1939)

詩人。建築家。日本橋区橘町三丁目(現・中央区日本橋久松町)生まれ。久松小学校に学び、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。10代の頃より短歌を好み、堀辰雄から影響を受ける。詩誌「四季」の創刊に参加。詩集「萱草に寄す」「暁と夕の詩」を発表。第1回中原中也賞を受賞する。


bun12m.jpg中央区で生まれ育った、時代を代表する文学者たち。

時代を切り開いてゆく文学活動が、ここ中央区を拠点に繰り広げられたことはもちろん、それぞれの文学者が、中央区のなかで繋がっていることも興味深く思いました。

また、中央区を舞台に多くの作品が誕生し、物語のなかには当時の町の姿が生きており、今にその情景を伝えてくれます。それは、小説や戯曲にかぎらず、映画作品などにも多く残っています。

(写真は、泰明小学校に建つ「北村透谷・島崎藤村記念碑」そして銀座の柳二世)


中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん

sign200.png

第34号 平成31年2月11日

 

 
<<前のページへ 1234567891011