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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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◆ 築地・海軍の石碑から伝わるもの

[隅田の花火] 2018年6月11日 18:00

今年の3月に日帰り旅行で訪ねた軍港の街・横須賀。旧日本海軍の記念艦三笠の展示や、日米艦船を見物する軍港巡りなど、この街独特の観光スポットがあり、とても楽しい街だった。

 

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横須賀海軍カレーを食べながら、東京中央区の「築地」も昔は海軍の街だったんだよなぁ、と思い起こしてみた。確か今の築地には、石碑や説明板が残っているだけ。横須賀と比べてしまうと寂しい感じがしてしまう。 

 

しかし石碑には、「石碑にしよう」とした人の大きな思いが込められているものである。

 

石碑を建てた理由の多くは、無くなるもの、無くなったものを偲ぶ人がいて、その思いを後世の人に伝えたかったから、ということなのだろう。

なので石碑を見るときには、建てた人が伝えたかった思いを、「感じてみる」ことが必要なのかもしれない。

 

そう思いながら、築地の海軍関連の石碑を巡ってみることにした。

 

 

築地の国立がん研究センターの敷地には、2つの旧海軍関連の石碑が仲良く並んでいる。

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左「海軍兵学寮跡」と右「海軍軍医学校跡」。

 

石碑を建てた人の思いは、石碑のどこかに記されているものだ。 

 

フェンスに密着している「海軍兵学寮跡」碑の裏側を頑張って見てみると、何やら文字が書かれている。概略は次のような感じである。

 

 『海軍兵学寮沿革

  ・1871(明治4)年7月29日に海軍兵学寮をこの地に新築

  ・1876(明治9)年8月31日に海軍兵学校と改称

  ・1888(明治21)年8月1日に江田島に移転

 1934(昭和9)年5月建立』

  

この碑が建てられたのは、海軍兵学校が江田島に移転した時ではなく、その46年後であった。

 

築地は明治初頭から海軍の街として栄えてきたものの、1923(大正12)年の関東大震災で多くの海軍施設を失ってしまう。そして帝都復興で、この海軍用地に市場が移転してくることに決まるのである。

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築地の中央卸売市場の開場は1935(昭和10)年。なのでこの碑は、市場が出来上がった頃に、築地から離れていった海軍施設を偲んだ人によって建てられたことが想像できた。因みに碑名を記した齋藤實は、時の内閣総理大臣で、この学校の卒業生である。 

 

 

一方の「海軍軍医学校跡」碑。医学校は終戦の1945(昭和20)年まで続いた。石碑の文字は、最後の校長の神林美治軍医の筆であるということなので、学校が無くなってしまったことを偲んで建てられたのだろう。

 

海軍の医学教育は、1873(明治6年)に築地で海軍病院付属学舎として始まっている。その後、いろいろな変遷を辿ったものの、多くの医療関係者を育て、終戦を築地で迎えている。

 

 

関東大震災前の大正時代の頃に、かつての築地川の采女(うねめ)橋辺りから眺められる築地方面の建物があった。

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采女橋があるところは昔、築地川と築地川東支川の交差点だったそうだ。東支川に架かる「北門橋」のむこうに見えるのは、海軍大学校の海軍参考館という建物だった。

 

築地の海軍施設へ行くときは、この北門橋を渡ったのだろう。今はもう、東支川は完全に埋め立てられていて、川が流れていたという面影はない。

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采女橋の袂の高速出入口の隣の道は、かつて海軍の敷地に繋がる「北門橋」が東支川に架かっていた辺り。海軍の敷地への橋を渡るかのように道を進んでいけば、この海軍の2つの石碑を見つけることができる。

 

 

さて、築地の海軍関連で外せない石碑に向かってみる。築地場内市場の魚河岸水神社遙拝所にある「旗山」の石碑である。

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この石碑は、築地市場開場後の1937(昭和12)年に建てられた。この石碑の前面に書かれている文章は少し薄くなっている。読むのが難しいので、いい加減かもしれないが、概略はたぶんこのような感じである。

 

『・ここは徳川時代に松平定信の別邸「浴恩園」の景勝地に設けられた築山の一部だった。

 ・1869(明治2)年に海軍関連施設がこの地に置かれた。

 ・1872(明治5)年に海軍本省設立後、海軍卿旗をこの丘に立て、「旗山」と呼んだ。

 ・この地はまさに海軍経営の大元であり、その発祥の地といってよい。』

 

と、この地が海軍発祥の地であるいわれが語られている。

碑文はまだ続いていて、読むと石碑が建てられた時の思いが伝わってくる。

 

『・それ以来長い年月あった海軍施設が移転していき、わずか1、2の官庁が残っているのみである。

 ・地形はだいぶ変わってしまい、昔の面影を見つけ出すのも難しくなってきた。

 ・この旗山の地に碑を建てて思い出となるように残すことにした。

 ・1937(昭和12)年1月5日  海軍大臣 永野修身 』

 

今年の10月に豊洲へと移転する築地の市場。去っていくことを寂しいと思う気持ちは、築地から海軍施設が去っていった80数年前も同じだったようだ。

s_hanabi61-7.jpg市場の移転に伴い、魚河岸水神社の遙拝所も豊洲へと移転していく。しかしこの旗山の石碑は、建てられた時の心情と共に、ここ築地の地に残り続けていくのだろう。

 

 

そして最後に、勝鬨橋の袂にある「海軍経理学校之碑」の石碑である。

s_hanabi61-8.jpg鏡面仕上げで、勝鬨橋も碑面に映すこの石碑は、碑文が分かり易くて読む人に優しい。

 

学校は1874(明治7)年に芝山で海軍会計学舎として開設され、その後築地に移転。日露戦争後の1907(明治40)年に海軍経理学校となり、震災後、今の築地市場の立体駐車場辺りに移されて終戦まで続いた。

 

石碑は1976(昭和51)年、戦後30年を機に、学校の同窓会によって建てられている。

 

この石碑には裏側にも文字が刻まれている。それは、この学校で学んだ人たちが見ると喜ぶ仕掛けになっている。またその内容は、学校がここ築地にあった頃の情景が伝わってくるものである。

 

ここでは内容を書かないことにしておこう。

s_hanabi61-9.jpg場外市場は築地に残り続ける。市場で楽しんだ後に、隅田川を眺められる勝鬨橋の袂で、石碑の裏を見て感じ取ってもらえたらと思う。

 

 

築地には、海軍関連の史跡はまだある。最近では史跡の碑も案内板のような形で作られることが多くなった。

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形にもよるかもしれないが、石碑は古くなっても保存しようとする心が働き、後年まで残り続けるものだ。そして建てた時の素直な心情が碑文に記されていれば、後年に読まれた時に味わい深いものが伝えられる気がしてならない。海軍の石碑を巡ってみて、そう感じた。

 

もしかしたら、こういうブログ記事も石碑みたいなものなのかもしれない。何かに感動したり、残念に思ったりしたことがあったら、後年に誰かが読んでくれることを信じて、素直にその時の心情を書き記しておいたほうが良いのではないかと思った。

 

 

 

◆ 汐留川と築地川・建築ロマン街道

[隅田の花火] 2018年5月30日 12:00

築地にある波除神社の「つきじ獅子祭り」。今年は3年に1回の本祭りで、6月8日には江戸時代に行われていた「船渡御」が復興される。築地市場から隅田川に出て水鎮祭を行ったあと、浜離宮と築地市場の間を流れる「築地川」を進み、浜離宮の大手門橋まで渡御するのだそうだ。

 

大手門橋の真上にある、カレッタ汐留46階の無料展望スペース。右に浜離宮、左に築地市場、上に隅田川、そして真ん中には神輿が渡御する築地川を見下ろすことができた。

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46階から浜離宮の「大手門橋」まで下りて来た。築地川をまたぐこの橋は、「南門橋」ともいう。ここは昔、築地川と汐留川が接するような形で流れていたものの、それぞれの川の上流は埋め立てられてしまっている。水をたたえているのはこの浜離宮の周りだけなので、昔の名残が残る貴重な場所なのである。

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埋め立てられ、今は高速道路が走っているところには、どのような風景が広がっていたのだろうか。昔の川沿いを少し歩いてみて、かつての水辺付近にあった風景に思いを馳せてみることにする。

 

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【昔の汐留川沿い】
昔の鉄道の踏切信号機が残されている辺り(①)。ここの町名は銀座だが、昔は木挽町と呼ばれていた。現在、銀座郵便局があるこの場所には、明治から大正にかけて「逓信省」のルネサンス様式の大建築があった。

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汐留川に面し、新橋の方向を向いていたようで、建物の中には逓信博物館もあった。残念ながら関東大震災で焼失してしまったが、今の殺風景な高速道路沿いからは想像もできないような水辺の風景が、この時代にはあった。

 

 

 

【築地川の千代橋(せんだいばし)】
明治大正の時代には無かった橋のようで、関東大震災後に復興橋梁として架けられた。江戸時代に「仙台橋」という橋がこの辺りに架けられていたので、その名を踏襲して名付けられたのだろう。

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形は復興局が編み出した「復興局型橋梁」と言われる橋で、近隣の川にもいくつか架けられたタイプの橋だった。それらの中でもこの千代橋は特に美しかったのだろうと、残っている親柱や高欄を見ると感じられてしまう。実際、そうだったらしい。

今は残念ながら橋の両外側に公園のスペースができてしまい、それがアダとなってかつての千代橋の外観を眺めることができない。

 

なぜこの橋が特に美しく架けられたのかについては、またいつか考えてみたい。

 

 

 

【築地川跡の采女橋と万年橋の辺り】

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万年橋際の築地川銀座公園にある「名犬チロリ」の像。チロリが向いている「万年橋」と「采女(うねめ)橋」の方向には、絵になる建築風景が多く存在していた。築地の外国人居留地と銀座の煉瓦街に挟まれた辺りだったので、和洋混合の街並みが形成されたのだという。時代別に見てみたい。

 

《采女橋・関東大震災前》

築地側から采女橋越しに銀座(木挽町)側を眺めてみる。左にある建物は以前、日産自動車の本社が入っていた銀座六丁目スクエアビル(②)。そして、みゆき通りを挟んだ右側は時事通信ビル(③)で、以前には銀座東急ホテルの建物があった。

s_hanabi60-7.jpg大正時代、ここには「農商務省」の大きな庁舎(②)、そして右隣には「築地精養軒」が立ち並び(③)、築地川沿いは大正ロマンの様相を呈していた。

 

「農商務省」はフランス古典様式と言われる西洋建築で、1891(明治24)年の新家孝正の設計。建物の中には、農・工・商業を奨励する目的で見本品などを並べる商品陳列所もあったといい、殖産興業政策や官民協力の場としての役割を果たしている。

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一方、隣の築地精養軒の建っていた場所は当時「采女町」と言った。精養軒の歴史は古く、1872(明治5)年に皇居前の馬場先門で開業した。しかしその開業当日に「銀座大火」で類焼を受けたため、木挽町に移転。そして翌年に隣の采女町のこの地に新しい建物を建てて本格的にホテル・レストランの営業を開始したのだという。

 

築地精養軒は、本格的な西洋料理を提供する店として明治初年の文明開化に大きく貢献。その後の西洋料理の普及にも繋がったことを考えると、その歴史的意義は大きかった。

s_hanabi60-9.jpg建物はチェコのヤン・レッツェル(ヤン・レツル)の設計により、1909(明治42)年に建替られ、築地川沿いを華やかにした。この人は原爆ドームとなった「広島県物産陳列館」の設計者としても知られている。

 

残念ながら隣の「農商務省」とともに関東大震災により焼失する運命となってしまった。

 

 

 

《万年橋・関東大震災後》

万年橋際には、震災後の1930(昭和5)年に東京劇場が開業した。その重厚な姿は、この辺りでも威容を誇っていたという(④)。

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すぐ近くの歌舞伎座が太平洋戦争で焼失してしまったため、被災を免れたこの東劇が戦後に歌舞伎の中心地となった時代もあったが、1975(昭和50)に現在の建物に改築されている。

 

 

 

《采女橋・関東大震災後》

震災後、采女橋の隣には木挽町の新橋演舞場が1925(大正14)年に完成している(⑤)。

s_hanabi60-11.jpg震災前に着工したが、震災が影響して完成が延びてしまった。この場所は築地川がクランク状に屈折していたところで、建てられる前は鬱蒼とした木々が繁っていたという。こけら落としは、第1回の「東をどり」だったそうだ。

 

設計は、銀座ライオンの設計者としても知られている菅原栄蔵。外壁には震災復興期に流行ったテラコッタ装飾(やき物装飾)があり、この建物の特徴のひとつだった。

 

1982(昭和57)年に現在の建物に再建。正面入口からロビーに入ると、四角形の木製装飾壁に出迎えられる。これはテラコッタの文様を写して作られたものである。5月下旬は毎年「東をどり」の季節となっており、今年で94回目を迎えた。

 

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このように汐留川や築地川沿いには、当時の人々が絵葉書にしたいと思うような建築のある水辺風景が広がっていた。しかし現在はその風景を想像するしかない、というのが実に残念である。

 

今、築地川にはかつての川底を縫うように首都高速が走っているが、その上に蓋をして大きな公園にするという構想があるのだという。蓋をしてしまうと、僅かに残っている水辺の面影が無くなってしまうかもしれない。

 

しかし今よりも、後世の人に良い風景を残してあげられるのだとすれば、良いことなのだと前向きに考えたい。

 

 

 

◆ 浜離宮へ・風流な「おとし文」

[隅田の花火] 2018年5月 4日 09:00

銀座四丁目の交差点からギンザシックスの脇を抜けて、七丁目の交差点を左に曲がる。花椿通りを進むと、洒落た歩道橋が見えてきた。

 

今日は銀座から、久しぶりに浜離宮へ。でもその前に、寄りたいお店があった。歩道橋を渡るとすぐにある、老舗和菓子屋の清月堂さんだ。

 

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プレゼントに当選し、清月堂さんの看板商品「おとし文」の引換券が届いていた。今年の中央区観光検定は、10回目の検定ということで観光協会さんが奮発。そのプレゼントに当たってしまったのである。

 

嬉しい。「おとし文」はまだ食べたことがなかった。お店に入り、賞品をいただくと、「検定合格おめでとうございます。」というお言葉までいただいた。

 

素晴らしい賞品と温かいお言葉。ありがとうございます。

 

 

銀座七丁目の清月堂さん。ここは昔、木挽町と呼ばれていた辺りで、歌舞伎座も近い。その歌舞伎座とは反対方向に、高速道路の高架が見える。そこの突き当たりを左に曲がれば浜離宮だ。今日はそちらへと歩いていく。

 

高速道路が走る道には、かつて汐留川という水辺があった。ここには黒川紀章氏設計の中銀カプセルタワービルが建っているが、サラっと眺めて左に曲がる。

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足を進めると、信号のある交差点。ここには昔の踏切が残されている。

 

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左に伸びている道は、線路の名残だそうだ。ここ汐留あたりから、築地市場内の駅まで鉄道が走っていた。時代が過ぎ、物流の方法が変わり、線路が消えた。踏切がなければ、今はもう誰も立ち止まることのない、普通の道である。

 

大きな交差点を渡り、風格のある橋を渡る。そしてお城のような門を越えれば、とても心地よい、春の浜離宮である。ビルに囲まれたたくさんの緑。まさしく、都会の中のオアシスだ。

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今日は藤の花を見たいので、目指すのは「潮入の池」。すると、真新しい木造建築が見えてきた。最近復元され、内部公開された「鷹の御茶屋」。中に入ると木の香りがしてきて、とても癒される。

 

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建物を見るまなざしは、日本人よりも、外国人のほうが真剣である。外国人に負けないように、真似をして、天井を眺めてみた。

 

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作るのに、かなりの手間をかけているのだろう。

 

建物の中では、建設時の解説がビデオで流されていた。外国人の中に紛れてモニターの前に座る。想像を超える細やかな作業工程。外国人と一緒に驚嘆した。

 

 

さて、潮入の池に架かる橋を渡り、富士見山の方へと向かう。藤の花も堪能できたし、ひと休みがしたい。途中、通りかかった風流な「中島の御茶屋」。水辺を楽しむ親子のお茶の風景を見ていたら、少し小腹もすいてきた。

 

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申し訳ないけど、今の気分は「花より団子」。水辺で落ち着きたい。海辺まで歩いてベンチを探すと、ひとつだけ空いていた。

 

持ってきたお茶をゴクリ。そして、先ほどいただいた和菓子の箱をそっと開けてみた。

 

口の中で甘味がほどける。黄身餡の上品なまろやかさ。作るのに、かなりの手間をかけているのだろう。もう少し風流なところで開ければ良かった。

 

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明治40(1907)年創業の「清月堂」さん。説明書きを見ると、その屋号の由来はこうだ。

 

『創業地の近くに、京橋、新橋と橋が多く、橋からながめた水面には月が美しく写っていたことから命名されました。』

 

そう、風流なお月見とは、水に映る月の光を楽しむものなのである。昔は水辺がたくさんあった中央区。お店の名前は、風流な水辺の風景に因むものだった。

 

また、「おとし文」というお菓子の名前も意味ありげである。

 

「オトシブミ」という昆虫が頭に浮かんだ。葉を筒状に丸めて地面に落とす習性のあるオトシブミ。想いを伝えたい人の近くに、わざと落として拾わせる手紙を「落とし文」と言う。それで、オトシブミという風流な名前になったのだそうだ。

 

このお菓子の名前の由来も、それと同じだと思っていた。でも少し違った。

 

『むかし、身分の違う御武家様に恋をした女性が、かなわぬ想いを恋文にしたためたものの、渡すに渡せず、丸めて川に流したというお話があります。上品な甘さと、ほろほろとした、はかない口溶けに、その想いを重ねたのが当店代表銘菓「おとし文」でございます。』

 

このお菓子に込められていた想いは、頭に浮かんでいたよりも、切なかった。渡すのを諦めて丸めた形のイメージは、筒状というよりもボール状。それは、このお菓子の外観にも似ている。落としたというよりも、投げ捨てた、という感じなのだろうか。

 

「おとし文」。

 

お店の名前と同じように、水辺が似合う、風流な名前のお菓子だった。お月見の頃にも、水辺でいただいてみたいものである。

 

 

さて、少し風も出てきたので、そろそろ帰路に就こうかと、ベンチをあとにした。

 

観光船も出ている浜離宮。「将軍お上がり場」で赤い船を見送る。少し風もあるし、船の上は、きっと爽やかなことだろう。

 

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水辺と並行している、ここからの帰り道。

 

実はこの帰り道が、いつも楽しみだ。今日はきっと会えるかもしれない、と思いながら、注意深く歩く。

 

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よく猫ちゃんに出会えるので、楽しみなスポットなのである。今日は2匹の猫ちゃんと対面することができた。とても良い1日だった。

 

お昼寝中でした。猫も心地よい、春の浜離宮

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そしてこれからは初夏へ。オトシブミが恋文を落とす季節へと変わっていきます。

(取材日・4月21日)

 

 

 

◆ 朝潮運河・桜小橋と水辺の春

[隅田の花火] 2018年4月20日 14:00

すがすがしい季節が訪れました。東京の桜は、ほぼ終わりを迎えてしまいましたが、おそらく皆様は、どちらかで桜が咲く春を堪能されたのではないでしょうか。

 

今年は天気のよい日が多かったこともあり、私も隅田川をはじめ、穏やかに水辺の桜を楽しむことができました。

 

中央区には、都会のビルの合間を、ゆったりと流れる水辺が多くあります。その水辺の風景に、溶け込むように咲く桜は、他の桜とは少し違った特別なものがあるような気がします。

 

今年の春は、是非行きたいと思っていた水辺がありました。中央区晴海の「桜の散歩道」です。

 

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この「桜の散歩道」は朝潮運河沿いにある小径で、数百メートルに渡って桜が咲き誇ります。そして、昨年の秋にはこの朝潮運河に新しい橋が架けられました。歩行者専用の橋で、名前は『桜小橋(さくらこばし)』といいます。

 

水辺には桜が咲く風景が似合い、桜には水辺のある風景が似合います。

 

桜という文字が入った橋ということで、渡るなら、桜の咲く頃が良いなぁと思っていました。橋の名に桜の文字があるだけで、少し和やかな気持ちにもなります。

 

この橋の名前の選定理由のひとつは、桜の散歩道に通じている橋、ということなのだそうです。架けられた場所は、桜並木があることで知られている月島川との合流点。なので、とてもふさわしい名前になったと思います。

 

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この橋は見た目がとてもスタイリッシュ。桁の厚みが極端に薄く、また橋脚の間が広めなので、船がくぐり易い、すっきりとしたデザインになっています。また橋桁に彩られた淡い色のタイルは、とても柔らかな印象。まさに朝潮運河の春の橋で、水辺の春を感じることができました。

 

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この橋は、勝どきと晴海を結んでいます。

 

晴海側にあるのは、大きなビルのトリトンスクエア。たくさんの会社勤務の方が朝潮運河を渡りますが、最近では住む街としてこの場所を選ぶ若い方も増え、子どもたちが遊ぶ姿も多くみられます。

 

桜の散歩道の桜は、まだ若い木が多いのですが、子どもたちがここを故郷として育ち、そして大人になる頃には、この散歩道の桜も大きくなっているのだと思います。

 

 

少し土地が低い勝どき側からは、渡る手前で階段を登る形に。歩行者専用の橋なので、自転車の時は降りてから、緩やかなスロープを使って橋に登ります。橋の幅が、真ん中よりも入り口の方が広めに作られているので、とてもアプローチのしやすい橋です。そして、周りが暗くなってくると、しっとりとした雰囲気に変わっていきます。

 

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近隣は静寂な住宅地でもありますので、橋は自己主張することなく、この場所の雰囲気に合わせた少し控えめな印象。特に勝どき側のスロープから見た晴海方面は、未来的な風景でありながらも、とても落ち着いた雰囲気です。

 

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これからは、新緑の美しい時季となりますが、都会の中の新緑も、探してみれば、心なごむ風景を見つけることができたりします。そしてそれが、水辺の風景であったりすると、とても爽やかな気持ちになるものです。

 

中央区には水辺がたくさんあります。ぜひこれからも、中央区の水辺の春をお楽しみいただければと思います。

 

 

 

◆ 首都高速晴海線から見る未来

[隅田の花火] 2018年3月 5日 12:00

首都高速・晴海線の豊洲~晴海間が、3月10日(土)に開通します。先日、それを記念する「晴海線スカイウォーク」という首都高速主催のウォーキングイベントがあり、開通前の高速道路を歩いてきました。

 

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首都高速10号晴海線。この道路は湾岸線から分岐している高速道路で、既に9年ほど前に、湾岸線の東雲ジャンクションから江東区の豊洲出入口までが開通しています。今回の開通によって、豊洲までの道路がさらに延長され、晴海運河を渡り、中央区晴海埠頭へと繋がります。

 

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(首都高速道路のホームページより)

 

首都高速では、新しい道路を開通させる直前に、よくウォーキングイベントを開催します。一度開通してしまうと歩くことができなくなってしまうので、貴重な体験ができるこのイベントに、私はよく参加しています。

 

 

新しくできた晴海出入口の辺りから、陽の当たる新しい道の上に出て、いよいよ往復1.8kmのウォーキングのはじまりです。

 

まっすぐな片道一車線の道をのぼっていきますが、とても緩やかな上り坂で、ゆるゆると歩けます。何よりも解放感があり、とても気持ち良く歩けそうな予感がしました。

 

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このまま、豊洲方面へ、緩やかにのぼりながら運河を渡っていきます。

 

解放感があるのは、背の高い街灯が作られていないのも一因。数メートルの間隔で設置されている街灯が、低い位置から路面を照らすことになるのでしょう。

 

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足を進めていくと次第に、江東区豊洲の「ららぽーと」方面のビル群が、橋の左側に見えてきました。近年になって開発されてきた街ですが、景観的にも、とても整えられている街並みに感じます。

 

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少し振り返ってみると、レトロな橋と屋形船が。近代的な風景の中を良く探してみると、こういった、年を刻んできた風景が埋め込まれていることがわかります。

 

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まっすぐな道をのぼってきて、運河を渡り、そして高架を走る「ゆりかもめ」の路線の上空まで辿り着きました。首都高晴海線は、ゆりかもめの高架の上を乗り越えないといけないので、さらに高い高架の道となっているのです。

 

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この「ゆりかもめ」ですが、外国人観光客にとても人気。近代的なビルの間をすり抜けるように走る、この無人運転の乗り物は、今まで頭に思い描いてきた未来都市の乗り物と重なるのだそうです。

 

 

さて、このゆりかもめの上空が、今日のウォーキングの折り返し地点。

 

ここで、今来た道を振り返り、高い場所から中央区晴海の方角を見てみます。すると、気持ちの良い風景が、眼前に広がりました。

 

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この風景には、たぶん、意味があります。

 

 

あと2年後に開幕する東京五輪。

 

晴海埠頭には選手村ができ、この近隣では、多くの競技が行われます。その時、選手だけではなく、各国のメディア、多くの観光客がこの湾岸地域へと集結、「TOKYO」という未来都市の街が、全世界に向けて発信されます。

 

羽田空港や成田空港から晴海の選手村に向かうには、たぶん湾岸線を使うでしょう。東雲ジャンクションを曲がり、緩やかな坂をのぼってきて、ゆりかもめを過ぎた所で、高い所から目的地が見えてきます。

 

選手村まで「あと少し」。目の前に広がるのが、中央区晴海の未来都市です。 

 

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東京は、この中央区晴海の風景で、世界中の人々をお迎えするというわけです。

 

なかなか良いと思うのですが、外国からの来訪者がこの坂をくだる時、「TOKYO」という街を、どう感じてもらえるのか、少し楽しみです。

 

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中央区へのフリーウェイ。

右に見えるスカイツリー。

左はレインボーブリッジ。

 

この道は、ユーミンの唄の情景にも負けない、まるで滑走路のような下り坂です。

 

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着陸して左に曲がればすぐに選手村。

 

まっすぐ行けば、日本技術の勝鬨橋、アジアンな築地、歌舞伎座の文化建築、銀座四丁目の高級街。そして東京のど真ん中へと続きます。

 

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この道路をはじめとして、近隣でどんどん出来上がってくる、未来の東京。

 

首都高速晴海線は、未来の東京へと繋がる道です。

 

東京五輪まであと2年。

滞りなく準備が進み、世界から賞賛されるような、素晴らしい未来の街になることを期待しています。

 

 

 

◆ 隅田川の清洲橋・よみがえる記憶

[隅田の花火] 2018年2月16日 09:00

今年は寒い日が続きます。東京にも何度か雪が舞いおりました。1月22日の雪は、4年ぶりとなる大雪と伝えられ、テレビには、雪に慣れない東京人や、立往生する車の姿が映し出されていました。

 

その4年前の大雪も、たいへんだったことを記憶しています。その時に、私は寒々しい写真を撮っています。

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2014年2月15日。この日は第6回中央区観光検定の日。初めての受検を終えた私は、隅田川に架かる清洲橋の雪の風景を、少し遠くから眺めたくて、中央区の対岸、江東区の隅田川テラスを歩いていました。

 

この写真を見ると、ある出来事が頭によみがえってきます。

 

 

先日、その4年前の記憶をたどりながら、隅田川を歩いてみました。

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前日のバレンタインデーから夜半にかけて、雪がふり続きました。受検日の朝、ふり積もった雪の量に心配があったものの、あまり目にすることのできない、隅田川の雪の風景を見てみたいと思いました。

 

受検会場は、中央区・水天宮前のロイヤルパークホテル。その頃、江東区に住んでいた私は、地下鉄で行くのをやめて、隅田川を歩いて渡り、会場に向かうことに決めます。

 

江東区から中央区に歩いて渡れる橋はいくつもありますが、雪が似合いそうな橋は、やっぱり清洲橋です。

関東大震災の復興の時に架けられた清洲橋。同じ隅田川の永代橋が男性的と言われるのに対し、清洲橋はその優美さから女性的とされ、「震災復興の華」とか、「隅田川の貴婦人」などと言われます。

 

雪化粧された清洲橋さま。美しい白無垢のようなお姿を想像し、この橋に向かわせていただくことにしました。

 

 

しかし、清洲橋さまのそのご化身ぶりは、想像以上でした。まさに、この年に流行ったディズニー映画のような、「雪の女王」。

 

橋の袂に来てみると、雪の女王は、ふり積もらせた雪で排水口の穴を氷浸けにし、長い橋の歩道を、氷の水たまりにしています。深さ20センチ以上、たぶん80メートルくらいは続いています。

 

城門のように立ちはだかる、雪の女王。受検するどころか、中央区に渡ることも難しい、第一関門でした。何度も渡るのを躊躇し、受検するのをやめて、引き返してしまうことも考えたりします。

 

 

次第に時間が迫ってきました。

いろいろな思いが交錯しましたが、「もう、渡ってしまえ!」。中央区への道に足を踏み入れることを決断します。

 

御神渡りの氷の湖は、雪の女王からのバレンタイン。息を殺しながら、橋のむこうの世界へと足を進めていったのでした。

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検定は、足を凍らせたまま受検しました。あまり記憶がありませんが、空席が多かったことだけは覚えています。

 

 

あの時の氷の道は、辛かったけれど、今思うと、とても心に残っているプレゼント。

試験の終わった後、特派員になることができそうな感触を掴み、その報告のためなのか、清洲橋さまを、遠くのほうから眺めました。あの寒々しい写真は、その時の思いをよみがえらせてくれる一枚です。

 

 

 

さて、そんな思い出のある清洲橋さまですが、いま、お色直しをされています。橋を飾る装飾性の高い照明器具を、建設当時のデザインのものに付け替える工事です。

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今の装飾照明でも、とてもお似合いです。曲線を取り入れているデザインで、よく考えられていると思います。いつしかこのデザインに変えられたようで、昔の写真を見る限りだと、30~40年くらいの間ずっと、このお飾りを付けられています。

 

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ですが、清洲橋さまは国の重要文化財に指定されている吊り橋で、その設計思想が評価されている橋です。

 

建設当初から、力強い男性的な永代橋と対比して、女性をイメージして設計されている土木遺産。

なので今回の工事は、その設計思想に基づくお姿にお戻りになる、というお色直しです。永代橋でも同様のお色直しが行われています。

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(今回変わるデザインの一部。清洲橋の橋詰には、

このデザインの照明がモニュメントのような形で残されている。) 

 

 

 

関東大震災の復興で、隅田川には多くの橋が架けられました。しかしそのデザインは、ひとつとして同じものがありません。

 

それらの橋の中でも、いちばん費用がかかったのが、清洲橋さま。女性にはお金がかかると言われますが、それは橋でも同じでした。

 

当時のドイツのケルンにあった大吊り橋を模して造られていますが、橋が造られた頃、今の江東区・小名木川の萬年橋辺りから見える橋の景色は、「ケルンの眺め」と称賛され、まるでヨーロッパにいるような雰囲気を味わえたのだといいます。

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竣工は昭和3(1928)年3月。もう少しで90年という節目の時をお迎えです。

 

90年前のお姿にお戻りになる清洲橋さま。そのお姿にお会いできることを、また楽しみにしております。

 

 

 
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