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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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しょうゆと小網町行徳河岸周辺

[之乎者也] 2015年12月 7日 14:00

2013年にユネスコの無形文化遺産にも登録された「和食」。旬を大切にし、食品そのものの味を引き出す特徴から、健康でオシャレな食文化として世界中の注目を集めています。そんな和食を支えるのが「しょうゆ」。単なる調味料としての味付けにとどまらず、「うまみ」と「香り」を演出する存在として、すし・づけ(まぐろ)、佃煮、蕎麦のかけ汁、おでん、鰻蒲焼のタレなど江戸食文化においても大活躍です。

ょうゆは、古来上方を中心に製造が行われてきましたが、徳川家康の開府に伴い人口が急増した江戸にも海路で「下りしょうゆ」が供給されるようになります。更に17世紀半ば以降、関東でも銚子、野田、佐原などでしょうゆ製造が盛んになり、江戸川、利根川の水運を利用して大消費地の江戸に直接輸送が可能であったことや品質の向上もあり、高級品である「下り物」とともにこれら「地回り物」の供給が活発になり、更にしょうゆの消費が拡大します。それらの江戸への輸送物資の物流施設として存在したのが、大川、日本橋川、箱崎川などの河川や水路・運河沿いの河岸でした。鮮魚は日本橋、米は蔵前、酒は新川、野菜は神田などと、物資によっては河岸が決まっていた場合もあるようですが、行徳の塩を揚げる行徳河岸を始めとして、醤油は箱崎川周辺で揚げることが多かったようです。Soy1.jpg行徳河岸から一歩横に入った稲荷(とうかん)堀。明治時代に埋め立てられ、現在はとうかんぼり通りになっていますが、こちらに醤油会館があります。日本醤油協会の山中さんにお話を伺いました。Soy2.jpg

醤油会館は、日本醤油協会、日本醤油技術センター、醤油業中央公正取引協議会など醤油関係の団体の事務所が入っているだけで、残念ながらしょうゆ博物館等の一般向けの公開はありませんが、会館の1階外側のウィンドウディスプレイには、全国の醤油会社の製造したしょうゆ、しょうゆ味レシピ&エピソードコンテストの入賞作品や今は使われなくなった醤油樽などの展示があります。Soy4.jpg

【全国醤油会社からのしょうゆ展示】

 

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【醤油樽】⇒ネギマの殿様が広小路の煮売り屋で「にゃ~」を食するために腰を掛けたのはこれでした。(/archive/2015/11/post-2812.html

 

また、日本醤油協会しょうゆ情報センターではしょうゆ食育プロジェクトとして、小学校等に対して「しょうゆもの知り博士の出前授業」を行っており、出前授業の様子はリンク(https://www.youtube.com/watch?v=nj9JZIYpD_U)で見ることが出来ます。

 

現在ではもちろん醤油樽を積んだ船が箱崎川を遡ることはありませんが、このような歴史もあり周辺には醤油会社の本社(ヒゲタ)、東京拠点(ヤマサ、ヒガシマル、キノエネ、盛田(JFLA)など)があるほか、中央区に本社がある酒・食品卸の国分(こくぶ)、ぬ利彦(ぬりひこ)も、それぞれ土浦の醤油醸造、醤油の仲買いと、しょうゆに縁の深いルーツを持っています。

 

Soy5.jpg【ヤマサ醤油・東京支社】

 

Soy6.jpg【キノエネ醤油・東京ビル】

 

特派員の滅紫さんが6月13日記事「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション(/archive/2015/06/post-2514.html)」で紹介されている、箱崎TCATそばにあるCafé Musée H(カフェ・ミュゼ・アッシュ)では、マーブル醤油アイス(400円)を楽しめます。醤油会館の近くにありますので、こちらも是非ともお試しあれ!

 

【醤油会館】

所在地:〒103-0016 中央区日本橋小網町3-11(とうかん堀通り)

交通:地下鉄半蔵門線水天宮前駅下車徒歩7分程度、地下鉄日比谷線・東西線茅場町駅下車徒歩7分程度。

*ディスプレイは屋外にあるためいつでも観覧可。

 

【Café Musée H(カフェ・ミュゼ・アッシュ)】

所在地:〒103-0014 中央区日本橋蛎殻町1-35-7

交通:地下鉄半蔵門線水天宮前駅下車目の前

営業時間:11:00~17:00(土・日・祝 10:00~、月休)

電話:03-3665-0251

 

 

「咳の爺婆」の石像

[銀造] 2015年12月 7日 12:00

 前から気になっていた築地場外市場の道沿いの石像は、「咳の爺婆」という名前と判明して、喉のつかえがとれた感じです。

築地場外市場の門跡通りを真っ直ぐ、都営大江戸線の築地市場駅方面に歩いて、公衆トイレの手前に鎮座なさっています。

優しくにっこりと微笑んでおられる様です。

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 京橋図書館・地域資料室所蔵の 

築地食のまちづくり協議会発行の「築地場外市場いまむかし」によれば、

安芸橋を渡った稲葉の中屋敷には、咳の爺婆という石像があり、咳の患いに霊験あらたかということで、人が参集したといわれています。

 

築地市場、場外市場でのお買い物の途中、ちょっと見かけた方は、手を合わせて頂ければ、喉のいがらっぽいのが治るかも知れません。

今日も、そしてずっと私たちを見守ってくれることと期待しています。

 

 

 

忘年会シーズン到来~"やきとり宮川"のご紹介~

[ぺんぺん] 2015年12月 7日 09:00

12月。。1年が過ぎるのはあっという間ですね。皆さまはどんな1年を過ごされましたか?

さて、今回の記事は、そんな師走に相応しい(?!)忘年会にも利用することができる人気店

のご紹介です。

 

お店の名前は「やきとり宮川(中央区日本橋茅場町3-5-1)」です。

私は、地元の方に教えていただき、今までに2回ほど行ったことがあるのですが、自信を持って

お勧めできる老舗やきとり屋さんです。特に、唐揚げなどが絶品です。

ランチタイムも連日行列ができる人気店ですが、夜も18時までに満席になってしまう可能性"大"

です。私は仕事帰りに席取りをするために急いで駆け付けたのですが、夜の部の開始時間で

ある17時半前から6、7人待っているお客様がいました!お店の方にお話しを伺ってみると、

特に、水曜日は「早帰りの曜日」だそうで、早い時間から茅場町界隈で働いているビジネスマン

で賑わうようです。「みんな、おいしい焼き鳥屋さんを知っているんだなぁ。」とつくづく感心

しました。

私がお店に行った際は、自分のようなOLはいませんでしたが、大人女子忘年会に、ぴったりな

お店だと思いました。

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今年は、毎月1回ブログをアップさせることを目標に活動して来ました。次回の記事は1月公開

予定です。

皆さま、素敵なクリスマス、年末をお過ごし下さい♪

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<京橋スクエアガーデンのツリー>

 

 

歴史豊かな建造物をめぐるコース (1)

[CAM] 2015年12月 6日 20:00

日本橋三越本店  (2015年11月29日撮影、以下同じ)

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(三越サイトから) 日本橋三越本店は、平成11年4月に日本橋地区の顔として「東京都選定歴史的建造物」に選ばれました。

現在の建物は、昭和10年(1935)に完成、ルネッサンス式建築の威容を誇り、当時は「国会議事堂」「丸ビル」に次ぐ大建築物でした。

本館正面玄関には待ち合わせの場所として親しまれる「三越の守護神」とも言うべき「ライオン像」がお客様をお迎えし、メイン通路を抜けると、その豪華絢爛な美しさの、「天女(まごころ)像」がひときわ目をひきそびえ立っています。
この像をいただく中央ホールでは、各種催物やトークショーなどが日々開催されるイベントスペースとしてお客様に親しまれています。

中央ホールのメイン階段をあがると、美しい音色を奏でる「パイプオルガン」が設置されています。このパイプオルガンによる生演奏は毎週金・土・日曜の週3回行われ、お客様に喜ばれています。

この中央ホールからパイプオルガンをつなぐメイン階段。重厚感のある大理石をふんだんに使用しているのですが、じっくり目を凝らしてみてみると、アンモナイトなどの化石がはっきりと確認いただけます。御来店の際にお楽しみの一つとして化石探しをしてみるのもいかがでしょうか。

このほかにも、本館6階には、歌舞伎・演劇等が催される三越劇場が、本館屋上には三圍神社などが、百貨店ではめずらしい施設として、多くのお客様に喜ばれております。

                                                       

貨幣博物館

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(日本銀行サイトから) 日本銀行金融研究所貨幣博物館では、貨幣および貨幣に関する歴史的、文化的な資料を収集・保存し、それらの調査研究を進めつつ、広く一般に公開しています。

 貨幣博物館の所蔵資料の中核となっているのは、古貨幣収集家・研究家であった田中啓文氏(1884~1956年)が収集した銭幣館コレクションです。田中啓文氏は、わが国の古代から近代にいたる貨幣だけでなく、中国を中心とする東アジアの貨幣や、貨幣に関するさまざまな資料を収集していました。これらの資料が展示・保管されていた博物館が「銭幣館」で、1944年、戦火による喪失を避けるため、収集資料は日本銀行に寄贈されました。

 貨幣博物館は、これらの資料を公開するため、日本銀行創立100周年(1982年)を記念して1985年11月に開館しました。

 

 

常盤橋

IMG_2391.JPG常盤橋門跡 (工事中)

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(観光協会サイトから)  江戸城外濠の表正面で、現在は枡形門の石垣だけが残っています。この門は、浅草・千住を経て行く奥州街道の出口であったので、浅草口と呼ばれ、江戸五門のひとつにも数えられています。昭和3年(1928年)国の史跡に指定されました。

 

 日本銀行本店本館

IMG_2388.JPG(日本銀行サイトから) 日本銀行本店は現在、旧館、新館、分館の3つの建物から構成されています。
 このうち、本館は現在の日本銀行の建物の中でもっとも古く、明治29年に完成しました。明治中期の西洋式建築物としては、東京・赤坂の迎賓館(げいひんかん)とならぶ傑作(けっさく)といわれており、国の重要文化財にも指定されています。

 

三井本館

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 (三井広報委員会サイトから)  明治35年(1902)に竣工した駿河町三井本館(旧三井本館)は完成から20年後の大正12年(1923)、関東大震災で大きな被害を蒙った。建物の躯体そのものは、それほど致命的なダメージを受けていなかったが、問題は内部の焼失であった。そのため改修するか、完全に改築してしまうかの決定が迫られていた。

三井合名としては、当初改修する方向で進んでいたといわれるが、震災復興に対して三井が範を示す必要があるということ、また三井の諸事業の発展拡大により、今後、旧三井本館では手狭になると予想されたため、方針を転換。旧三井本館を解体し、新本館を建てることとなった。

・・・・・・・・・・昭和2年(1927)、新たな三井本館の建築工事が開始された。

三井本館の意匠については「壮麗」「品位」「簡素」の3つのコンセプトが定められた。

外観デザインは20世紀におけるアメリカの新古典主義的なデザインを採用。クラシカルではあるが、過度に華やかさを強調しない抑制された美ともいうべきデザインで、これは3つの要素のうちの「品位」と「簡素」を表している。残りの「壮麗」については、ローマ風のコリント式大オーダー列柱にその要素が見出される。オーダーとは階を貫いてそびえる柱のことで、本館の大オーダーは建物の3面にわたって用いられ、無用な変化をつけることなく整然と並べられた。

三井本館は、約3年の歳月をかけて昭和4年(1929)3月に竣工した。総事業費は2,131万円(現在の約1,000億円)。地上7階(竣工時は5階)、地下2階の鉄筋コンクリート造りで、外装にはすべて花崗岩を使用。インテリアには大理石をふんだんに用い、あらゆる面で近代的な業務に応じられる設備を備えており、三井合名をはじめ、三井銀行・旧三井物産・三井鉱山・三井信託など直系各社入居し、本社機能を集中させた。

・・・・・・終戦を迎え、連合軍は進駐を開始。GHQは多くのビルを接収し、三井本館も4、5階の接収が行われた。・・・・・・・・・・・・辛酸をなめた三井本館だが、占領終了後は再び三井のオフィスビルとして使用され、平成10年(1998)に「意匠的に優秀」「歴史的価値が高い」との評価を受け、国の重要文化財に指定された。

 

 

 

歴史豊かな建造物をめぐるコース (2)

[CAM] 2015年12月 6日 20:00

三井記念美術館

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    三井家が収集した美術品約4,000点を所蔵する「三井記念美術館」。国宝・重要文化財をはじめとする三井11家から寄贈された名宝の数々を展示・公開し、文化財の保存とともに研究活動や芸術文化の発信に努めている。

三井家は元々、三井高利の時代から茶の湯が嗜まれ、生活文化として定着していたが、それに加え、北家(総領家)は長年にわたって表千家との親交を持っていた。また金融御用を務めていた紀州徳川家との茶の湯を介した交流もあり、そうした中で多くの茶道具が収集されてきた。また、北家は京都画壇とのつながりも深く、特に円山応挙の作家活動を援助していたことから、応挙をはじめとする円山四条派の作品も多く見受けられる。

三井各家のコレクションは茶道具、絵画、書跡、能面、能装束、拓本、刀剣、調度品、切手など多岐にわたる。

これらは戦後、第11代三井総領家当主・三井八郎右衞門高公の決断により、段階的に三井文庫に寄贈されていく。昭和59年(1984)には三井文庫別館が竣工し、翌年から美術品の一般公開を開始した。それに伴い、三井各家からは伝来の美術品や文化財の寄贈が繰り返され、その他の法人や個人からも寄付を受けるようになった。三井文庫が膨大な美術品を収蔵するに至ったのは、こうした経緯による。

やがて、三井文庫別館の展示活動は三井記念美術館に引き継がれ、平成17年(2005)、日本橋室町にある重要文化財・三井本館内7階に開館した。所蔵する美術品は国宝6点、重要文化財71点、重要美術品4点など約4,000点。切手類は13万点に及ぶ。

江戸時代の絵師の巨匠・円山応挙筆の国宝「雪松図屏風」は墨と金泥と紙の白色のみで、雪の中にきらめく光を照り返して屹立する松の姿を情感豊かに描き出している。松は輪郭線を用いない没骨技法。余白が空間の広がりを感じさせる。

室町家からの寄贈は、書画、茶道具など約800点あり、中でも国宝「志野茶碗 銘卯花墻」はその中の白眉ともいうべき名品で、日本で焼かれた茶碗での国宝指定は、本阿弥光悦作の白楽茶碗(銘不二山)と、この卯花墻の2碗のみとなっている。

このほか、茶道具では長次郎作「黒楽茶碗 銘俊寛」や「大名物 唐物肩衝茶入(北野肩衝)」など重要文化財も数多く所蔵している。

館内の中央の展示室には、三井家とゆかりの深い国宝茶室「如庵」の内部を再現。三井家の美術品だけでなく、様々なテーマによる「特別展」を企画・開催し、東京駅周辺の3美術館とも連携して新しいアートスポットを創出している。 (三井広報委員会サイトから)

 

 十軒店 跡 (写真は2015年11月30日撮影、以下同じ)

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所在地 中央区日本橋室町3-2-15
十軒店は雛市の立つ場所として知られていました。『寛永江戸図』に「十間たな」と記された、石町二・三丁目と本町二・三丁目に挟まれた小さな町で、日本橋通りの両側に面していました。江戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるともいわれています。
江戸時代中期以降、三月と五月の節句や十二月歳暮市には内裏雛(だいりびな)・禿(かむろ)人形・飾道具・甲人形・鯉のぼり・破魔弓・手毬・羽子板など、季節に応じた人形や玩具を売る店が軒を並べていました。
『江戸名所図会』には「十軒店雛市」と題し、店先に小屋掛けまで設けて繁昌している挿絵が描かれています。明治時代以降もこの地は「本石町十軒店」と称されていましたが、明治四十四年(1911)に十間店町となり、昭和七年(1932)、旧日本橋室町三丁目に編入されました。
平成十年三月
中央区教育委員会

 

 長崎屋跡

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所在地 中央区日本橋室町四丁目二番地
江戸時代、ここは長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸登城、将軍拝謁の際の定宿になりました。将軍拝謁は諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していたオランダが、幕府に謝意を表するために献上品を携えて行った行事でした。江戸出府は江戸初期から毎年一回行われましたが、長崎からの随行の人々は、商館長の他、通訳、学者などが賑やかに行列して江戸に来ました。しかし、経費のことなどで、江戸中期からは四年に一回となっています。

商館長に随行したオランダ人の医者の中には、ツンベルクやシーボルトなどの一流の医学者がいたので、蘭学に興味を持つ桂川甫周や平賀源内はじめ日本人の医者、蘭学者が訪問し、長崎以外における外国文化の交流の場として、あるいは、先進的な外国の知識を吸収していた場として有名になりました。
鎖国下における数少ない西洋文明との交流の場として貴重であり、区民史跡に登録されています。

 

石町時の鐘 鐘撞堂跡

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 江戸時代には鐘をついて人々に時刻を報せていました。この鐘は、石町(現在の日本橋室町4丁目付近)にあったもので、近くに長崎屋があったため、「石町の鐘はオランダまで聞こえ」の川柳があります。宝永8年(1711年)に鋳直したもので、(徳川家宣時代)高さ1.7メートル、口径93センチの和鐘です。現在は、十思公園に鐘楼を、設けて納めてあります。(観光協会サイトから)

 

 

夜半亭 (与謝蕪村旧居跡)

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歴史豊かな建造物をめぐるコース (3)

[CAM] 2015年12月 6日 20:00

於竹大日如来縁起

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於竹大日如来は 寛永十七年(十八才の時)山形県庄内よりでて 当時の江戸大伝馬町馬込家の召使いとなるその行いは何事にも誠実親切で一粒の米 一きれの野菜にも決して粗末にせず貧困者に施した そのため於竹さんのいる勝手元からはいつも後光がさしていたという 出羽の国の行者乗蓮と玄良坊が馬込家をおとづれ「於竹さんは羽黒山のおつげによると大日如来の化身である」とつげた。主人は驚き勝手仕事をやめさせ 持仏堂を造り その後念仏三昧の道に入る これが江戸市中に拡がり 於竹さんを拝まうと来る人数知れずと言う
於竹さんの詠んだ歌に
手と足はいそがしけれど南無阿弥陀仏
口と心のひまにまかせて
延宝八年五月この世を去る 行年五十八
五代将軍綱吉公の母堂桂昌院の歌に
ありがたや光と共に行く末は
花のうてなに於竹大日
於竹さんが愛用し貧困者が市をなしたと言う有名な於竹井戸はこの地にあった
昭和四十六年五月吉祥
史蹟 於竹大日如来保存会 

 

小津資料館

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Internet Museumサイトから)承応二年(1653年)小津清左衛門長弘が伊勢松阪より出府し、江戸大伝馬町(現在本社社屋の地)に紙商を開業して以来、時代とともに私たちの生活をより豊かに発展させてきた紙と小津の歴史の関わりを展示公開する「小津史料館」を本社社屋の二階に開設しております。
現在までに東京都中央区登録有形文化財として保存指定を受けた古文書千二百余点のうち約千点を順次展示公開しています。小津三百六十年の歴史をご覧ください。

 

 

 馬込勘解由の碑 (べったら市の由来)

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徳川家康による江戸城築城のおり、寳田村が城の拡張により移転のやむなきに至った。譜代の家臣である馬込勘解由が寳田村の鎮守の御本尊を奉安して住民と共に現在地に移転した。
この大業を成し遂げた功により、勘解由は江戸の筆頭名主となり年間役料は二百十両の最高であった。後に三伝馬取締役に出世し、徳川家繁栄を祈願された恵比壽神を授けられ、寳田神社に安置して江戸の平穏を祈願した。
御神体は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられ、以来商業の守り神として十月二十日の恵比壽講の前夜に市が開かれるようになった。
恵比壽講に使う鯛や神棚などと共に江戸名物の浅漬大根が売られ、売り子が大根に付いた糀を若い女性の着物に近づけ「ほら べったら べったら 買わないで通ると着物にくっ付くよ」と戯れたことからべったら市の名がついた。
徳川家康公江戸出府四〇一年を壽ぎ、ここに馬込勘解由の功績を讃え碑を建立するものである。

 

 塩河岸


所在地 中央区日本橋本町2ー4先
かつて、この付近には、江戸初期に川を埋めてつくった堀の西堀留川がありました。この堀は、江戸橋から北に入り、この通りの東側で船入堀が西へと曲がっていました。カギ状に曲がったその先には、道場橋と雲母橋が架かり、その橋の間にあった北岸を塩河岸と呼びました。江戸時代、ここに塩問屋があったことから、そう呼ばれるようになったといいます。
『江戸名所図会』には、「伊勢町河岸通 米河岸 塩河岸」と題された挿絵が掲載され、往時の様子を知ることができます。明治十年には、東京府によって対面南岸が「南塩河岸」、北岸を「北塩河岸」と定められました。
平成十二年三月
中央区教育委員会

 

  三浦按針屋敷跡

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ウイリアム・アダムスは西暦1564年イギリスのケント州に生まれ、慶長5(1600)渡来、徳川家康に迎えられて江戸に入り、この地に屋敷を給せられた。造船・砲術・地理・數學等に業績をあげ、ついで家康・秀忠の外交特に通商の顧問となり、日英貿易等に貢献し、元和6年(1620)424日平戸に歿した。

日本名三浦按針は相模國三浦辺見に領地を有し、またもと航海長であったことに由来し、この地も昭和初年まで安針町と呼ばれた。

 

熈代勝覧

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(三井不動産サイトから) 名橋「日本橋」保存会および日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会は、日本橋を訪れる人々に街の魅力を実感していただくために、約17メートルにわたる「熈代勝覧」の複製絵巻を、東京メトロ「三越前」駅地下コンコース壁面に本日(平成21年11月30日)設置しました。

 「熈代勝覧」絵巻とは、文化2年(1805年)頃の日本橋から今川橋までの大通り(現在の中央通り)を東側から俯瞰し、江戸時代の町人文化を克明に描いた貴重な絵巻物(作者不明)で、原画はベルリン国立アジア美術館に所蔵されています。今回の複製絵巻の設置により、日本でも「熈代勝覧」を鑑賞することが可能になりました。

 「熈代勝覧」とは、「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」という意味で、本絵巻には「熈代勝覧 天」と記載されており、「天地人」の全三巻の可能性がありますが、他の巻は現在所在不明です。題字は当時著名な書家であった佐野東洲の描いたもので、絵巻には沿道にある88軒の問屋や店に加え、行き交う1,671人、犬20匹、馬13頭、牛4頭、猿1匹、鷹2羽ならびに屋号や商標が書かれた暖簾、看板、旗、などが克明に描かれています。なお、1806年の「丙寅(ひのえとら)の大火」で建物の多くは焼失したとされており、その直前の貴重な記録といえます。

 名橋「日本橋」保存会および日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会は「熈代勝覧」を日本橋の歴史、文化を後世に伝える貴重な作品と捉え、ベルリン国立アジア美術館から制作、設置の許可を得て、江戸東京博物館による全体監修のもと複製いたしました。

 複製絵巻の絵画部分は、江戸東京博物館が所蔵するカラーポジフィルムから約1.4倍に拡大した印刷用の画像データを作成し、原画を忠実に再現するため和紙にも鮮明な印刷が可能なプリンタを使用し、和紙8枚に出力した後、1枚仕立てに加工しました。絵画を囲うパネルには、建物や職業、商売など江戸時代の町人文化に関する解説を記載しています。