[月島菜々子]
2015年12月 6日 16:00
11月29日(日)は「三の酉」でした。
中央区では人形町・松島神社の「酉の市」(pontさんのブログ参照)が有名ですが、
私は近所の築地・波除神社を訪ねました。
「酉の市」と言えば、露店で威勢よく手締めをして「縁起熊手」を売る様子が年末の風物詩になっています。ここ波除神社にも、立派な縁起熊手がいくつも並んでいました。
いろいろ迷った菜々子は神社オリジナル開運熊手「かっこめ」をゲット
「かっこめ」は写真のように、八本爪の熊手に稲穂、小判、金銀の鈴、開運神符の付いた年の瀬を迎えるにふさわしいお札です。帰り道から福運や財宝が掻き込めるよう、袋やかばんには入れず、そのまま持ち帰るようにと社務所の方に教えていただきました。
さて,「かっこめ」を手に入れると開運くじを引くことができます。
当たりは縁起物の「金箔入り・鯛金(たいきん)」。
祈りを込めて引いたのに、残念賞。
来年に期待したいと思います。
「三の酉がある年は、火事が多い」と言われています。
その謂れには諸説あるようですが、根拠が中央区の歴史にも大きな影響を与えた「明暦の大火」という説もあるとのこと。
この火災が起きた明暦3年(1657年)は、三の酉まであったそうです。
何かと慌ただしい師走ですが、改めて火に対する戒め、慎みや感謝の気持ちを忘れずにいたいと思います。
以上、今年最後の菜々子のブログでした。 皆様、良いお年をお迎えください。
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2015年12月 5日 14:00
関東大震災の記念塔
(写真は2015年12月1日撮影、以下同じ。内蔵小型ストロボのため光量が不足で悪しからず。後ろは、宝くじを求める人 の列です)
この塔は大正十二年(1923年)九月一日午前11時58分 東京を中心に関東一帯をおそった大震災を記念するため広く浄財を集めて十周年の昭和八年九月一日に建てたものでわが国彫刻界の巨匠北村西望先生が「平和の神」を象徴して制作されたものであります 標語の「不意の地震に不断の用意」は当時朝日新聞社が全国から懸賞募集した十余万の応募の中から選んだもので長くこの日をしのび二度と惨害をくりかえさぬよう注意を喚起するものであります
昭和三十五年九月一日
震災共同基金会 朝日新聞厚生文化事業団
震災の被害状況
死者99,331 負傷者103,733 行方不明43,476
倒壊家屋 全壊128,266 半壊26,233 焼失家屋447,128
銀座の柳 碑
銀座の柳は明治十年頃に植えられ銀座の象徴とされたが三度の変遷を経て昭和四十三年銀座通りの改修と共に姿を消した
このたび西銀座通りが東京都のシンボルロードとして歩道拡張と共に御影石鋪装を施し面目一新されたことを機に並木を柳に代え銀座の象徴復活を果たした
西銀座通会はこの柳が末長く人々に愛され親しまれ続けることを願いここ数寄屋橋公園に碑を建立する
平成十一年十一月
西銀座通会会長 柳澤 政一
銀恋の碑
デュエットソングの定番中の定番「銀座の恋の物語」(昭和36年/1961 作詞 大高ひさを、作曲 鏑木 創 歌 石原祐次郎 牧村旬子)の歌碑(銀恋の碑)はその名を後世に残すため、平成二年七月、西銀座通会、銀座通連合会、テイチク(株)によって建立された。
東京慈恵会医科大学発祥の地
明治十四年男爵高水兼寛英国医学教授ノ目的ヲモッテコノ地ニ成医会講習所ヲ開設ス
コレ東京慈恵会医科大学ノ濫觴ナリ
創立百年ヲ記念シコノ碑ヲ建ツ
昭和五十五年五月一日
第七代学長 名取禮二
和光
(WAKOサイトから) 銀座四丁目の交差点、銀座のランドマークとして知られる和光本館。時計をはじめ、宝飾品、紳士・婦人用品、室内装飾品など、ご用意しているお品は、お客様の声を取り入れて独自に開発した、あるいは国内外から厳しい目で選び抜いた、高い品質を誇るものばかりです。長い歴史と伝統の中で培ってきた上質へのこだわりとおもてなしの精神を、大切にしております。
どうぞ和光で、ゆっくりとお買物をお楽しみください。
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2015年12月 5日 12:00
日本橋
日本橋由来記
日本橋由来記
日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府譜大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンデ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス舊記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富買豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雜鬧沸クカ如ク橋上貴賎ノ來往晝夜絶エス富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ日帆近ク碧波ト映帶ス眞ニ上圖ノ如シ
明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ
昭和十一年四月
日本橋區
国指定重要文化財
日本橋
所在地 中央区日本橋一丁目~日本橋室町一丁目
日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。
現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治四十四年に完成しました。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道元標は、昭和四十二年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同四十七年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
平成十年に照明灯装飾品の修復が行われ、同十一年五月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。
平成十二年三月
中央区教育委員会
日本橋魚河岸跡
天正年間(1573~1592)に家康の関東入国の際、摂津国(大阪府の一部と兵庫県の一部)西成郡の漁夫30余名を江戸に移した。
漁夫は漁獲の一部を幕府に納め残りを一般に販売した。慶長年間(1596~1615)に至り漁をするものとそれを商うものとが区分されて市場の形態が整った。
大正12年(1923)関東大震災で築地に移転するまでの300余年、江戸・東京における魚河岸の繁栄をほしいままにした。
西河岸橋
このあたりは、江戸時代より我が国の商業・経済の中心地として、栄えてきました。
この橋は、日本橋から一石橋までの日本橋右岸地域が、西河岸町という地名であったことから"西河岸橋"と名付けられたものです。
初代の橋(明治24年架設)は、弓弦形ボウストリングトラスという、当時最新式の鉄橋でした。関東大震災により被害を受けたこの橋は、大正14年に現在の橋に架け替えられました。
区では、架設後65年を経過したこの橋を平成2年度において、痛んだ部分を修復し、さらに伝統的な木造建築様式の木組みを採りいれた意匠で整備しました。
建築の諸元
形 式 3径間連続鋼構桁橋
橋 長 52.0m
有効幅員 11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)
橋 下 日本橋川
着 工 大正13年12月
竣 工 大正14年8月
施工者 東京市
平成3年3月 東京都中央区
裏河岸(北河岸)
所在地 中央区日本橋本石町一‐一~日本橋室町一‐一地域
明治十年十二月、東京府は「日本橋ヨリ以西 一石橋迄」の河岸地、西河岸の対岸を「裏河岸」と命名しました。江戸時代初期、寛永江戸図(1634)などでは「北かし」と記されていますが、この北側には北鞘町と品川町があり、御府内沿革図書では、一石橋側を「北鞘町河岸」、日本橋側を「品川町裏河岸」としており、いくつかの里俗名を確認することができます。
『江戸名所図会』によると、品川町裏河岸の通りには、釘・金物の店が多く、釘店とも呼ばれたといいます。
平成十二年三月
中央区教育委員会
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2015年12月 5日 12:00
日本橋西河岸地蔵教会
板絵着色 お千代の図額
所在地 中央区八重洲1-2-5
日本橋西河岸地蔵寺教会
大正四年(1915)三月、本郷座で泉鏡花原作「日本橋」初演のおり、当時二十一歳の無名であった新派の俳優、花柳章太郎は、お千代の役を熱望し、劇と縁の深い西河岸地蔵堂(昭和二十四年、日本橋西河岸地蔵寺教会となる)に祈願をしました。「日本橋」は槍物町(現、日本橋三丁目、八重洲一丁目)の花街を舞台とした、いわゆる日本橋芸者の物語で、お千代は登場する芸妓のひとりでした。章太郎は、この劇でお千代役に起用されて好演し、これが出世役となりました。
ここに所蔵される「お千代の図額」は、二度目のお千代役である昭和十三年の明治座上演の際に、章太郎が奉納したものです。この絵を描いた小村雪岱は、「日本橋」の本の装丁や挿絵も担当した日本画家で、図額には章太郎と鏡花の句も添えられています。この「お千代の図額」は、地域にもゆかりの深いものとして、中央区民有形文化財に登録されています。(見学ご希望の方は、本堂まで申し出てください)
平成七年三月
中央区教育委員会
夢二・港屋ゆかりの地
情熱と悲愁の画家であり、詩人でもあった竹久夢二(一八八四~一九三四)は、大正三年(一九一四)この地に「港屋絵草紙店」を開き、夢二のデザインによる版画、封筒、カード、絵葉書、手拭、半襟などを売った。商業美術家自身がその作品を商品化し販売する店を作ったという点で、「港屋」は日本の商業美術史上重要な意義を持つものであり、その存在を永く記録にとどめるため、ここに記念碑を設置し、故人の業績を讃えるものである。
なお当時の「港屋」の位置はこの碑の西約十三米、間口約二間(三,六米)であった。
まてど暮せど
来ぬひとを
宵待草の
やるせなさ
こよひは
月も出ぬさうな
一石橋
一石橋の歴史
一石橋は寛永年間(1624~1647)またはそれ以前から存在した橋である。左の写真に見られる一石橋の姿は、大正十一年に架け替えられた当時の姿で、アーチ部分の石積み、重厚な石の高欄や親柱、照明などの細部に至るまでデザインの施された橋であり、当時の時代を感じさせる西洋的でモダンな印象をかもし出している。
一石橋の上流半分は、四十八年にスチール製の桁橋に架け替えられ、平成十一年には下流半分についても架け替え工事が行われて今日に至っている。大正時代当時の一石橋の姿を残しているのは上流側の大きい親柱と小さい親柱(当時の袖柱)のみとなり、残りの施設については、平成十一年の下流側架け替え工事に伴い、当時の姿と印象を残し継承する意味で新たに造り替えられている。
一石橋の親柱
所在地 八重洲1-11先
皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。
木橋としては最後となった明治六年(1873)の一石橋は長さ十四間、幅三間の橋でした。大正十一年(1922)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。平成九年には大正十一年の橋本体は全て撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿を忍ばせています。
平成十四年に中央区民文化財に登録されました。
平成十五年三月
中央区教育委員会
一石橋迷子しらせ石標
所在地 中央区八重洲一町目十一番地先
指 定 昭和十七年九月 旧跡
昭和五十八年五月六日種別変更
江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。
迷子がでた場合、町内が責任をもって保護することになっていたので、付近の有力者が世話人となり、安政四年(1857)にこれを建立したものである。
柱の正面には「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側には、「志(し)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫り、上部に窪みがある。利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦災で破壊された。
平成八年三月八日 建設
東京都教育委員会
[メニイブックス]
2015年12月 5日 09:00
12月1日火曜日 2015年最後の「まちあるきツアー/築地場外市場」に行ってきました。
参加者は10名のところ急に3名が参加されず7名とコンパクトな人数のツアーでした。
天気が心配でしたがツアー日和の良い天気でした。
「料理包丁正本」「玉子焼松露」「魚類加工品の光泉」「練物の紀文」さんの順で訪問しました。
まずは「正本」さん
社長の平野さんに説明をしていただきました。
1000本位おいてあるそうです。
ステンレス製が外国人旅行客に人気だそうです。
次に「玉子焼」の「松露」さん
部長の新発田さんに説明をしていただきました。
1日1万本くらい作るそうです。
この玉子焼き器(?)中身入れて2Kg位とのこと
試食した出来立ての玉子焼き、美味しかった
次は「魚類加工品」の「光泉」さん
社長の佐藤さんお話をお聞きしました。
やはり暮れになると大忙しのようです。
ポーランドの女性の方が可愛いい茶筒に入った
お茶を買っていました。
最後は「練物」の「紀文」さん
店長の伊藤さんがお話をしてくださいました。
「紀文」の初めは「果物」の商売だったそうです。
ちょっと意外でした。相撲の呼び出しさんの衣装のことも
聞きました。
平日でしたがかなり人が出ていました。外国人旅行客、地方からの旅行客と様々です。
この忙しいときに時間を割いて説明を熱心にしていただきありがとうございました。
なお築地場外市場は移転せず、この場所で商売を続けていくことをお知らせしておきます。
(ツアー参加者に「築地一体で移転するのでは?」と質問がありましたので)
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2015年12月 4日 20:00
茅場橋(写真は2015年11月28日撮影、以下同じ)
鎧の渡し跡
鎧の渡しは、江戸元禄年間以来の地図や地誌類にも記される渡し場で、明治五年(1872)に鎧橋が架けられるまで存続しました。
伝説によると、平安の昔、源頼義が奥州討伐の途中、ここで暴風逆浪にあい、鎧を海中に投げ入れ竜神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたので、以来ここを鎧が淵と呼んだといわれます。一説には平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられています。
「江戸名所図絵」や安藤広重の「名所江戸百景」には、渡しの図が描かれ、また、この渡しを詠んだ俳句や狂歌等も知られています。
縁日に 買ふてぞ帰る おもだかも
逆さにうつる 鎧のわたし
和朝亭 国盛
平成六年三月
中央区教育委員会
メイゾン鴻乃巣跡(小網町)
兜神社
江戸橋