[CAM]
2015年12月 9日 18:00
宝くじを求めて列を作る人々とともに、燈臺(とうだい)をもう一度
(写真は2015年12月6日撮影、以下同じ)
銀座発祥の地
慶長十七年(紀元2272年 西暦1612年)徳川幕府此の地に の銀座役所を設置す当時町名を新両替町と称せしも通称を銀座町と呼称せられ明治二年遂に銀座を町名とする事に公示さる
昭和三十年四月一日建之
銀座通聨合会
京橋の親柱
所在地 中央区京橋三丁目/銀座一丁目
京橋は、江戸時代から日本橋とともに有名な橋でした。橋は、昭和三十四年(1959)、京橋川の埋め立てによって撤去され、現在では見られませんが、その名残をとどめるものとして、三本の親柱が残っています。
橋北詰東側と南詰西側に残る二本の親柱は、明治八年(1875)当時の石造の橋のものです。江戸時代の橋の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形で、詩人佐々木支陰の筆によって、「京橋」「きやうはし」とそれぞれ橋の名が彫られています。
一方、橋南詰東側に残る親柱は、大正十一年(1922)にかけられた橋のものです。石及びコンクリート造で、照明設備を備えたものです。
京橋の親柱は、明治、大正と二つの時代のものが残ることから、近代の橋のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。
平成四年三月
中央区教育委員会
京橋は古来より其の名著える創架乃年ハ慶長年間なるが如し明暦以降数々架換へられ大正十一年末現橋に改築せらる此の橋柱は明治八年石造に架換へられたる時の擬寶珠欄干の親柱として橋名の書ハ明治の詩人佐々木支陰乃揮毫に係るものなり
昭和十三年五月
江戸歌舞伎発祥の地
寛永元年二月十五日元祖猿若中村勘三郎中橋南地と言える此地に猿若中村座の芝居櫓を上ぐこれ江戸歌舞伎の濫觴也 茲に史跡を按し斯石を鎮め國劇歌舞伎発祥の地として永く記念す
昭和三十二年七月
江戸歌舞伎旧史保存会
京橋大根河岸青物市場跡
遠く寛文の初め江戸数寄屋橋邊に處の人数名打倚りさゝやかなる青物の市を立てしに遠近の村村より作物多く集りぬ是等の店はゆきゝの人或いは附近の人人に之をひさぐ数年ならずして店の数増加し漸く市場の形整い江戸府民のため無くてはかなわぬ機関とはなりぬその後火炎に罹りしにより東海道の要路にあたり且つ水運の便ある京橋川の北岸紺屋町へ移轉す偶この市場への大根の入荷殊更夥しきにより世の人大根河岸と呼び遂に京橋大根河岸と稱うるに至るかくて二百餘年を経たる明治十年京橋川南岸の太刀賣と稱する甘藷問屋数名を加入せしめ問屋三十七軒仲買十七名を數うるに至りしかば府尹の認可を得て組合を設立しこゝに始めて大市場としての規模完成す
大正十二年九月大震災の厄難に遭いしも組合員は鋭意復興に努力し以前に優る盛況を呈す時に問屋六十八名仲買百五名なり昭和十年二月中央卸賣市場法實施の一環として東京市中央卸賣市場の開設さるに際し國家の要請否みがたく父祖三百年愛着の絆を断ちて揺籃の地を去り築地本場に入り問屋は一体となりて会社を起こし仲買は舊態のまゝ開業すその後第二次世界大戦のため幾多の變革ありしも戦後再び舊状に復し業況益好調を極む斯る折柄舊京橋青物市場蹟記念碑建設の議起り期成会を組織して之が實現に努め漸くその工を竣えたり依ってここにその由来を記し開設以来二百八十餘年の歴史を回顧し其盛時を偲ぶたよりとなす
昭和三十四年六月 藤浦富太郎撰 江川碧潭書
[之乎者也]
2015年12月 9日 09:00
パソコンで12月4日付ブログ記事「中央区を貫く大動脈~昭和通り~(/archive/2015/12/post-2915.html)」を書いていたら、横で見ていた息子から「素朴な疑問」が出されました。
「中央区には昭和通りのほかにも平成通りってあるよね。そうしたら明治、大正、江戸もあるの?」
~~息子の云う「平成通り」とは、晴海通り(築地2丁目15番)から鎧橋(日本橋兜町2番)までの通りで、途中桜橋や八丁堀2丁目を通ります。八重洲通りや鍜治橋通りを通って八重洲方面に買い物や食事に行ったりすることも多いので覚えていたのでしょう。この通りは、今でも築地から錦糸町へ行くバス(錦11)が走っていますが、昔は都電が走っていたことから「電車通り」とも呼ばれたそうです。~~
「明治、大正は中央区は通っていないけど、江戸通りはあるよね。ちょっとウチ(家)からは遠いけど、室町とか馬喰町のほうを通っていて、浅草まで行く道だよ。」
【本町交差点:昭和通りと江戸通り】
~~「江戸通り」は丸の内(千代田区)からスタートして、新常盤橋から中央区に入り、室町3丁目、本町交差点、小伝馬町、馬喰町、浅草橋交差点と抜けて、浅草橋から台東区に入り、言問橋西詰(台東区)まで行く通りです。途中、長崎屋(オランダ商館長定宿)、石町時の鐘、伝馬町牢屋敷、郡代屋敷など江戸時代の歴史にも登場する場所を通るので、その名が相応しい通りです。~~
「ふう~ん、明治、大正は通っていないんだ。平成、昭和と江戸があるのにちょっと残念だね。」
「確かに明治通りは、中央区は通っていないけれど、この昭和通りとは三ノ輪(台東区大関横丁交差点)で交差しているから、あながち関係ないわけではないよね。地図を見てごらん、昭和通りは江戸通りとも本町で交差しているよ。ところで、地図には『大正通り』という名前は書いていないけれど、昔の名前が『大正通り』という名前の通りが、中央区を通っているけれど、どれのことか判るかな?」
~~息子も一通り悩んだのですが、とうとう判らず降参でした~~
「パパがこの前書いたブログで、関東郡代の伊奈忠順のお話(
/archive/2015/11/3-3.html)って覚えているかい?あの郡代屋敷があった場所のあたりって、今は浅草橋交差点と言って、さっきも出てきた江戸通りと靖国通りが交わるところだよね。その靖国通りが実は『大正通り』なのさ。」
【浅草橋交差点:江戸通りと靖国通り】
~~現在は、大正通りという名前ではありませんが、靖国通りは昭和通り同様に「震災復興道路(幹線第2号)」として作られた通りで、もともとは「大正通り」と言われたそうです。こちらは靖国神社の前を通ることから、戦後になって靖国通りに改名されたそうです。~~
こうして見ていくと、中央区には残念ながら明治通りは通っていませんでしたが、江戸、大正、昭和、平成と時代の名前を冠した通りがありました。たかが通りの名前ですが、それぞれ時代を映していて面白いと思い、息子をはじめとする読者の方の疑問にお答えするため、今回記事として取り上げることにしました。
通りの愛称の名づけ方について、中央区役所担当課の道路課工務係にお話を伺ってみました。
「江戸通り(都道407号線(国道4号線、6号線、14号線))などの都道については、東京都が昭和37年~38年、59年に愛称設定しています。中央区でも都に倣って昭和62年以降「道路愛称名選定委員会」を立ち上げて区道の名称の設定を進めて来ました(昭和63年「中央区道路愛称名設定要綱」により)。区道である平成通りについては、昭和通りに並行していることや平成元年に元号が変わったばかりであり、おめでたい「平成」の名前を採用しています。愛称採用にあたっては区が勝手に決めるのではなく、地元の意見も聞きながら決めています。」
どうやら、通りの愛称も地元からの申請次第ということのよう。区内の「名無し通り」の沿道の商店街、住民の皆さん、素敵な名前を申請してみたら如何でしょうか。日本中、いや世界中からお客さんが見に来るかも!
[ジミニー☆クリケット]
2015年12月 8日 16:00
[橘]
2015年12月 8日 14:00
"大江戸問屋祭り"は6日(日)に終わってしまいましたが、まだまだお店を開放して問屋値段で販売してくれているお店があります。
以前にもご紹介したことがありますが、東日本橋一丁目の「堀越ネクタイ」です。
ネクタイやマフラーの製造卸販売の会社です。
500円のネクタイからブランドネクタイ迄市価の半額位の値段で購入できます。
バーゲンの期間は12日の土曜日までです。
ネクタイ・ポケットチーフ・マフラー等ご自分用やプレゼントにこの期間はお買い得ですよ。
堀越ネクタイ(株)
中央区東日本橋一丁目4-2
℡:03-3863-1601
最寄駅:都営新宿線「馬喰横山」、都営浅草線「東日本橋」
[CAM]
2015年12月 8日 12:00
昭和7(1932)年4月には、地下鉄「三越前」駅が開業し、三越本店地下売場と連絡。
昭和10(1935)年10月、三越本店の増改築工事が完了、中央ホールが完成し、パイプオルガンを設置。
昭和7年10月3日、東京市は市政改革を行い、隣接5郡82町村を合併して35区とした。
「夜銀座に飯す。夕刊の新聞を見るに府下の町村東京市へ合併の記事および満州外交問題の記事紙面をうづむ」(『断腸亭日乗』)
銀座の大きな変化は、昭和通りの建設と晴海通りの拡幅であった。昭和通りの完成は昭和3年。当時東京市市長だった後藤新平の原案では道幅を108メートルとするものであったが、広い道路の重要性が当時は受け入れられず、結果現在の道幅に狭められた。また、狭い通りであった現在の晴海通りが拡幅された。
地下鉄銀座線の建設は震災後の大正14(1925)年に開始された。本来は新橋から浅草まで一挙に開通させることを目指していたものの、大震災後による不況のため、資金調達が困難になってしまい、当時は日本一の繁華街で高収益が見込める浅草から上野までの建設を先行させ、昭和2(1927)年に開業したが、昭和7(1932)年暮れには京橋まで、昭和9(1934)年には銀座まで延伸された。
『断腸亭日乗』では、昭和7年12月24日「地下鐵道京橋入口開通」、昭和9年3月3日「地下鐵道尾張町出入口この日より開通の由。乗客頗雑(とう)の様子なり」、昭和9年3月16日「五時過雷門に出で始めて地下鐵道に乗り銀座尾張町に至る。十五分間なり」と記されている。
昭和6年から9年にかけて『日乗』には、「銀座」が頻出してくる。荷風は、日が暮れると銀座に出かけ、食事をしたり、カフェーに行っている。
しかしながら、昭和9年頃には、銀座の繁栄には陰りが見え始めたようで(というよりも日本の戦時経済化と言うべきだろうが)、荷風は、昭和9年11月4日「銀座通の景況日を追うて物寂しく、今夜は十時頃夜店そろそろ仕舞かける有様なり。銀座通の景気最盛なりしは昭和6年より翌7年軍人暴行の頃なりしが如し。酒館の繁栄したるもその頃にて、去年あたりより俄にさびれ出したり」(『日乗』)と記している。
『断腸亭日乗』が素晴らしいのは、自分たちが実体験をできなかった「時代」の姿を生き生きと描いてくれているからである。
[サム]
2015年12月 8日 09:00
晴海トリトンスクエア内ポケットプラザ「花・水・樹」のグリーンアドバイザーの案内で園内を散策する毎月恒例のミニガーデンガイドツアー。
今月は12月3日に開催されました。(12:30~ 14:30~)
トリトンパーキングの壁面のナツヅタが見事に色づき、真っ赤に燃えるような紅葉もあれば、朱色・橙・黄緑と、錦が織りなす正に晩秋の彩り。
花のテラスのベニバナエゴノキの黄葉も見応えがあります。
落葉樹は冬の間は一斉に葉を落とし休眠に入りますが、枝先には「冬芽」が膨らみ、来るべき春に備えています。
この時期目につく、赤い実を付けた植物の内、ヒイラギモチ(チャイニーズホーリー)はモチノキ科の常緑小高木。
クリスマスホーリーとしても流通していますが、本来のクリスマスホーリーは近縁のセイヨウヒイラギ。セイヨウヒイラギは常緑で晩秋に熟す球形の赤い実とのコントラストが美しく、古くから聖木とされ、クリスマスの装飾の定番。
尚日本在来のヒイラギはモクセイ科で別種。葉の形は似ていますが、実は黒紫色に熟します。
ヒイラギモチ(チャイニーズホーリー)、マンリョウ、センリョウ、ピラカンサ(トキワサンザシ)
花や色彩が乏しくなる時期だけに、普段は目立たない常緑針葉樹が相対的に目に留まります。
常緑といっても冬季は褐色を帯びる種もあり、また緑の色合いも微妙に異なります。
形状もいろいろ。
じっくり観察していると、それぞれに個性的な姿形に好奇心を掻き立てられます。
形の整った "コニファー" はクリスマスツリーにもよく仕立てられます。
ヒノキ "ナナ グラシリス"、ニオイヒバ "イエローリボン"、コロラドビャクシン "ブルーヘブン"、ニオイヒバ "ラインゴールド"
ドイツトウヒ、ヒノキ "ミクロビオータ デクサータ、アラスカヒノキ "ペンデュラ"、ヒマラヤシーダー "ゴールデンホリゾン"
晩秋~初冬のガーデンの見方・見え方等、今回もいろいろと気づきを得たプランツウォークでした。