日本橋七福神の一つの小網神社、健康長寿の福禄寿で有名で、日本橋小学校裏に鎮座する
お稲荷さんです。どぶろくのお神酒がふるまわれる日でしたので、夕刻お参りに行ってきました。
もう11月も終わり、あと一ヶ月で今年が終わると思うと、、、しかし本格的な冬でもないので、
そんな年末の気がしないのです。
というところで、来年の2016年は申年です、日本橋三越5階で、京都の京陶人形"小田益"さんの新年の
ご挨拶をするおサルさんに出会い、新たな年を感じる日でした。
●小網神社
●申
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小網神社のどぶろく祭り
日本橋七福神の一つの小網神社、健康長寿の福禄寿で有名で、日本橋小学校裏に鎮座する
というところで、来年の2016年は申年です、日本橋三越5階で、京都の京陶人形"小田益"さんの新年の ●小網神社
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尚、『中央区観光協会特派員ブログ』および 市場橋駐車場の『観光バス予約システム』は 【市場橋駐車場 観光バス予約サイト】 中央区観光協会Webサイトは復旧作業中です。 お客様にはご不便をおかけいたしますが、 何卒ご理解いただきますようお願い申し上げます。 中央区を貫く大動脈~昭和通り~
10月1日から登場した「中央区コミュニティーサイクル(CCC)」 (ブログ記事:/archive/2015/10/velib.html)。そのお手軽さもさることながら、徒歩と比べても大きく行動範囲が広がることもあり、区内の観光に、買い物にそして通勤の足としてすっかりお世話になっています。八丁堀方面から京橋スクエアガーデンへの利用が多いのですが、途中新大橋通り、昭和通り、中央通りなどの大通りを横切ります。自転車で走ると今まで利用していた電車(地下鉄、JR)、バスなどと比べてより街を身近に感じますが、特にその大きさを体感できるのが昭和通りです。 【昭和通り(新京橋交差点付近)】 中央通りの4車線、新大橋通りの6車線でも結構道幅は広いですが、昭和通りはなんと10車線!そのさまはまるで車が流れてゆく大河のようです。それもそのはず、平日の12時間交通量は3万9千台(平成22年度 交通センサスによる)と中央区内を走る道路としてはダントツ(永代通り:3万6千台、晴海通り:3万1千台)です。更には混雑時の平均行速度も29.9km/h(23区平均:16km/h、中央通り:7.9km/h、八重洲通り:10.2km/h、永代通り:10.8km/h、晴海通り:15.2km/h)と他の幹線道路とは一線を画す速度です。その自動車流量と速度はまるで、中央区を南北に貫く大動脈! ということで、本日は観光やビジネスを含む中央区の経済活動を支える昭和通りについて取り上げたいと思います。 昭和通りは、台東区の大関横丁(三ノ輪駅前)から港区新橋までの8.0kmの道路。以前ご紹介した「東京高速道路(/archive/2015/08/post-2643.html)」とともに、ドライバーの方には銀座・日本橋の渋滞回避道路としても知られていますが、普段運転されない方でも11月1日のまるごとミュージアム2015の無料バス(右回りルートの銀座⇒日本橋)を利用して、改めて認識された方も多いかと思います。 【銀座、日本橋周辺の昭和通り地図(図中赤色の線)】 さて、江戸時代の地図を見ると、中央通りなどはもともとメインストリートとして存在していましたが、昭和通りの位置は当時の町人地(水谷町、因幡町、大鋸町など)や大名屋敷の敷地(板倉周防守、伊達若狹守など)に重なります。 昭和通りの誕生のきっかけは1923年9月の関東大震災。東京中の建物が崩壊し、街が焼野原になり、壊滅状態となった東京の町に近代的な都市基盤を整備するため、大規模な区画整理、公園の設置などと併せてその骨格となる道路の整備が行われたのでした。 昭和通りは当時の内務大臣兼帝都復興院総裁として帝都復興計画を主導した後藤新平の提唱により幅108メートルの道路として計画されましたが、財界等の反対もあり、議会で予算が縮小され、最終的には昭和3年(1928年)に幅44メートルで完成しました(震災復興道路・幹線第1号)。 【後藤新平(1857-1929) 出所:wikipedia】 もしも、昭和通りが後藤の構想通りに完成していれば、100メートル道路として知られる名古屋の久屋大通(ひさやおおどおり)、広島の平和大通り、もしくは札幌の大通(公園)のように、道路の間に歩道や緑地帯があるゆったりとした道路が銀座や日本橋を通っていたことになります。もっとも、久屋大通や平和大通りは、太平洋戦争後の戦争復興院が立案しており、後藤の構想が場所を替えて後世に実現したとも言えるでしょう。 もともと、超時代的な後藤新平の発想で作られた昭和通りは、その後昭和30年代後半に東京オリンピックを迎えるにあたって、更にその機能をアップさせることになります。中央区を東西に貫く晴海通り、鍛治橋通り、八重洲通り、永代通りとの交差での信号待ちを必要としない地下自動車道(アンダーパス)が作られました。これにより新橋駅前から江戸橋までは高速道路のようにほぼノンストップで通行ができ、銀座・日本橋地区の渋滞回避道路として機能しています。前述の驚異的な平均行速度29.9km/h(近隣の幹線道路の2~4倍程度!)もこのような背景によるものです。 【昭和通り(宝町付近)】 なお、昭和通り沿いには東銀座、新京橋、宝町、日本橋の4つの東京都地下駐車場があり、昭和通りの地下自動車道が車両の入口になっています。 【宝町・東京都地下駐車場】 【銀座~日本橋周辺の昭和通りと東京都地下駐車場の地図(出所:東京都道路整備保全公社HP)】 ◆中央区 ここに歴史あり(65) 佃天台地蔵尊の発願主 ~東叡山浄名院に由緒を探る
佃島に鎮座する「佃天台子育地蔵尊」は、狭い路地のなかに瀟洒な地蔵堂と大きな銀杏樹に守られた異空間として知られている。堂内には信徒から寄進された提灯などが一列に飾られ、いつもきれいな供花が手向けられ、信仰の深さが伝わってくる場所である(写真上:中央に線刻の地蔵尊)。
ところでこの佃地蔵尊の建立がいつ頃なのか、縁起を読んでもよく分からない。磨かれた石板に描かれた線刻の地蔵像をよく眺めると「石地蔵尊八万四千体造立発願主 天台地蔵比丘妙運拝写」とある。これを頼りに、縁起に書かれている「浄名院」を訪ねてみた。
浄名院(じょうみょういん)は台東区上野桜木二丁目にある(写真中央)。寛永寺から北へ、谷中霊園の入口に位置している。「東叡山浄名院」と掲げられた享保期の山門をくぐると本堂が目に入る。その左側に地蔵堂がある。江戸六地蔵の一つ、消失した深川永代寺の第六番地蔵が再建されていた。「地蔵寺」とも呼ばれている。
同寺境内には一面に石造の地蔵尊が建立されていて圧巻の情景である(写真下)。見渡すと3種の地蔵像があるようだ。呼び方は分からないが、彫刻された地蔵立像、墓石形状の地蔵像、佃と同じく自然石に刻まれた線刻の地蔵像である。佃の縁起に「自然石に刻まれたのは珍しい」とあるがこの寺では多く見られ、決して珍しくない。
「八万四千体地蔵」の門柱脇に設置された台東区教育委員会の説明板に解明の鍵があった。そこから抜粋すると、「同寺は寛文6年(1666)寛永寺三十六坊の一つとして創建された。地蔵信仰の寺となったのは第38世地蔵比丘妙運和尚の代からで、明治9年浄名院に入り、明治12年(1879)、八万四千体建立の大誓願をした」とある。
そうすると佃地蔵尊も、明治期に浄名院の妙運和尚が写し取ったという地蔵尊絵が配られて、その後に線刻されたことになろう。佃地蔵尊の縁起には江戸中期からの記述があり、ことさら由来が綴られているが、浄名院を参詣すると建立の謎が解ける。佃地蔵尊に「天台」が付くのは浄名院の宗派からだと納得がいく。@巻渕彰
東芝の発祥
銀座で生まれた企業は多い。例えば、資生堂、大成建設(発足時;大倉組商会)、ヤマト運輸(大和運輸)、電通(日本広告株式会社)、大日本印刷(秀英舎)等であるが、東芝もそうであることはあまり知られていない?のではないか。
創業者・田中久重(1799-1881)が、明治8年7月、現在の銀座8丁目9番15号に、店舗・住宅併用の工場を構えた。この「田中製作所」が、日本最初の電信機工場であり、東芝の発祥である。この場所は、開港場・横浜と鉄道が結ばれた新橋駅が至近であるという地の利があった。田中久重は「万般の機械弘安の依頼に応ず」という看板を出し、ここで、国産の電信機はじめ、生糸試験機などを考案・製作した。 創業者・田中久重は明治14年に82歳で亡くなったが、その後は、養子が二代目久重を名のって継いだ。 明治15年になると、鉄道馬車が新橋と日本橋間に開通する。そうしたなか、同年11月には、二代目久重がアーク灯点火、電灯の実験宣伝を行い、電気事業は急速に発展する。 田中製作所は、この年、海軍省からの発注もあり、銀座工場が手ぜまになったため、芝浦に1万平米の土地を得て、工場部門を移転させた。銀座では事務・販売を主とするようになったが、関東大震災によって焼失したために移転に踏み切った。 そして、昭和14年には、芝浦製作所(田中製作所から改称)と東京電気が合併して、東京芝浦電気となった。東京電気も、その前身である白熱電燈球製造株式会社は、現在の銀座4丁目4番地に事務所兼工場を設けたのが発祥となっている。
(以上は、主として、原田弘『銀座 煉瓦と水があった日々』白馬出版 1988年発行に拠った。) イチョウ黄葉
「イチョウ黄葉」は気象庁生物季節観測情報のひとつ。 11月30日、東京管区気象台は「東京でイチョウの黄葉が観測された」と発表。 平年より10日遅く、昨年より5日遅いとの由。 イチョウの黄葉日とは、標準木全体を眺めたとき、大部分の葉が黄色になった最初の日とされます。 30日の東京都心の最低気温は6.5℃で、このところ最低気温が10℃を下回る日が続いており、イチョウの色づきが進んだと考えられます。 因みに気象庁は、皇居の北東端の大手濠緑地(通称清麻呂公園)にある、関東大震災による火災から焼失を免れた "震災イチョウ" を、東京に於けるイチョウの標準木としています。 浜町公園入口緑道のイチョウもすっかり色づき、見頃を迎えています。 イチョウ(公孫樹/鴨脚樹/銀杏)は青葉若葉と共に、黄葉時も一段と美しい上に、病虫害・剪定に強く、火熱にも耐えることができ長命とされ、街路樹として重用されています。 他に類を見ない特質をもち、1属1種でイチョウ科を形成。 両側にイチョウが立ち並ぶ様は、遠近感が強調され、黄葉は柔らかな陽射しに映え、まさに黄金ロード。 晩秋を代表する情景です。 |
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