一石橋は、常盤橋・銭瓶橋・道三橋・呉服橋・日本橋・江戸橋・鍛冶橋と一石橋自身の計8つの橋が見えることから、当初八ツ目橋と言われていました。
木橋の架け替えが最後に行われたのは明治6年(1873年)、その当時の記録によると橋長=14間(25.2m)、幅員=3間(5.4m)と言われています。想像ですが、江戸時代の橋もこの程度の大きさだったと予想されます。
満よひ子の志るべ
江戸期~明治期にかけて付近はかなりの繁華街であり、迷い子が多く出ました。当時は迷い子は地元が責任を持って保護するという決まりがあり、地元西河岸町の人々によって安政4年(1857年)2月に「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」を南詰に建てました。
しるべの右側には「志(知)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られて、上部に窪みがありました。使用法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたということです。このほか浅草寺境内や湯島天神境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に数多く設置されたようです、現存するものは一石橋のものだけです。
昭和17年9月に東京都指定旧跡に指定され、昭和58年5月6日に種別変更され東京都指定有形文化財(歴史資料)に指定されています。
一石橋が話題に出てくる「十徳」という落語を一席紹介しますので、お寛ぎ下さい。
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ふだん物知り顔な男がおりまして、髪結床で仲間に「このごろ隠居の着ている妙ちくりんな着物は何と言う」と聞かれたが、答えられず、恥をかいたのがくやしいと、早速隠居のところへ聞きにまいりました。
隠居は自分が来ている着物を見せて、「これを十徳という。そのいわれは、立てば衣のごとく、座れば羽織のごとく、ごとくごとく(5+5)で十徳だ」と教えました。(以下の2枚の写真は十徳を着た様子です。参考に示します)
(立てばシャクヤク、座れば牡丹という言葉がありますが、落語では「立てば衣のごとく、座れば羽織のごとく」と余り色気がありませんな)
「一石橋という橋は、呉服町の呉服屋の後藤と、金吹町の金座御用の後藤の二人が地震で倒壊した橋の架け替えのために金を出し合ったから、「ゴト(五斗)とゴト(五斗)で一石だ」とウンチクを一くさり。ここまでは良かったのですが、八さんは髪床に戻って、物知り顔で話し始めたのについた時にはきれいに忘れてしまって大弱り。一部省略 ・・・・「違った、立てば衣に似たり、座れば羽織に似たり、ニタリニタリで、うーん、これは(2+2)したり」
結局八さんは、ごとくごとくで十徳という説明をする積りが、(2+2=4)したりとなってしまう一席でした。
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このように名称のいわれが落語に出てくるほど一石橋の名称の由来は有名なものでした。
落語は文章を読むものではなく、聞くものですね。お粗末。Youtubeで談志等の「十徳」を聞くことができます。ブログを見ながら聞いて笑っていただければ幸いです。