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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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ひな祭りだけじゃない、3月3日。

[小江戸板橋] 2019年2月21日 14:00

白のウエアがVOLUNTAINER事務局から宅配便で届きました。

気分は一気に、東京マラソン。

白は関連イベントのメンバー用です。

東京マラソン EXPO 2019 ランナー受付を担当します。

毎年、大会当日のボランティアには参加させていただいているのですが、今年は新たに関連イベントにも応募してみました。

  

「東京マラソンに参加しよう。」

職場の飲み会での盛り上がりから、2007年の第1回から応募したのですが、当選の抽選倍率は年を追うごとに高まっています。

それならばとボランティアに舵を切ったのですが、やってみると大会運営に携わっている感が楽しくて、年中行事のように続けてきました。

そこで気づいたのですが、年中行事にしている割には、結果としてコース全体を踏破していなかったのです。

通しで歩いてみるか。(走ってではありません)

遅ればせながらのコース完歩に向け、4日間に分けてのんびりと取り組んでみました。

練習に励む多くのランナーとすれ違います。

3月3日の大会本番は、もうすぐです。

 

マラソンコースは2017年から大きく変わりました。

東京都庁をスタートし、お台場・東京ビックサイトまででしたが、ゴールは東京駅前行幸通りになりました。

東京の名所を広くカバーするとともに、東京駅赤煉瓦駅舎を背景に、皇居に向かってゴールを切るという最高のロケーションになっています。

 

さて、コース中の中央区エリアは、神田駅の高架橋の下を通る国道17号線の室町4丁目交差点手前から始まります。

中央通りを日本橋に向けて南下していきます。

日本橋を渡り、COREDO日本橋前が、10キロコースのフィニッシュです。

フルマラソンは、永代通りを茅場町1丁目へ向かいます。

新大橋通りに入り、茅場橋を渡ります。

浜町中ノ橋交差点を清洲橋通りに入り、清杉通りを通って北上し、浅草橋を渡ります。

その先は台東区エリアです。雷門を折り返し、蔵前橋を渡って門前仲町を折り返す墨田区エリアが続きます。

再び浅草橋を渡り、中央区エリアに戻ります。

同じ経路を日本橋まで戻り、中央通りを京橋・銀座方面に向かいます。

この日本橋交差点周辺が、三方向のランナーを見ることができる、絶好の応援スポットなのです。

銀座4丁目交差点を晴海通りに曲がり、日比谷方面へ。数寄屋橋交差点の先は、再び千代田区エリアです。

さらにコースは港区エリアの品川駅手前の泉岳寺付近で折り返し、フィニッシュへ向けて北上します。

 

そうそう、スタート地点である都庁第一庁舎の正面の歩道には、「東京マラソン スタート」の距離標が打たれています。号砲が鳴り、ハート型の紙吹雪が舞う地点です。

距離標は1キロごとに、車道と歩道の境界線上の縁石などに記されています。

COREDO日本橋前には、「東京マラソン 10km」が設置してあります。

この距離標のコンプリートを目指して、写真を撮り続けている方もいるそうですよ。

 

これまで、手荷物の受付、給水・給食、トイレ案内などのランナーサポートを行ってきましたが、コース全体を通して俯瞰してみると、なるほどそれぞれの活動の持つ意味合いが、より鮮明に見えてきました。

私、今年の3月3日は、神田周辺でコース管理をしています。

今から胸が高まります。

皆さん体調を整えて、頑張ってくださいね。

 

 

鐘が奏でる現役時代の物語

[Hanes] 2019年2月21日 12:00


こんにちは。新人特派員の(ハネス)です
3月が近づき、「小さな春」が見つかる季節になってきましたね。
中央区ゆかりの俳人宝井其角は、江戸の春(正月)についてこう詠みました。

「鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春」

普段売れそうもないお寺の鐘さえ売れるほど、江戸は繁栄していたと伝えています。
今でこそそのような光景は見られなくなりましたが、
中央区内には、長いこと時の経過を見てきた鐘がいくつも残っています。
今回は、そのような鐘のいくつかを見に行ってみました

■銅鐘・石町時の鐘(日本橋小伝馬町5-2)/日本製
2代将軍秀忠の頃に本石町に設置され、江戸城下の人々に時刻を知らせたこの鐘は、
長崎屋の近くにあったことから、「石町の鐘はオランダまで聞こえ」という川柳が詠まれたほど。

IMG_4001.JPG

鐘は高さ約170cmと成人男性の平均身長くらいあります
(中央区の約170cmと言えば...大観音寺の鉄造菩薩頭も同じサイズ感です。)
大晦日には特別にこの鐘を撞くことができるので、いつか撞いてみたいと思います

■カトリック築地教会(明石町5-26)/フランス製
こちらには、通称「江戸のジャンヌ・ルイーズ(JEANNE LOUISE DE YEDO)と呼ばれる銅製洋鐘(区民有形文化財)があります。
こちらの鐘が鋳造・寄贈されたのは1876年。
当時は明治時代で、既に「江戸」から「東京」に改称されていました。
では、なぜ鐘銘にある通り「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と名付けられたのでしょう...
その理由として、レンヌへの鐘の発注当時は、まだ「東京」という呼称が徹底されていなかったからと考察されています

隅田川花火大会の起源とも言える出来事は1732年にありましたが、
その呼称も時代とともに変化し、今の呼称が定着したのは予想以上に新しいようです。
呼称の変遷を見ると、時代背景や意図が垣間見られて面白いですよね

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かつてこの鐘とともにデュエットをした鐘「アデレード・ジョゼフィーヌ」は、
マダムはるみさんが昨年ご紹介していた通りです

どちらの鐘も太平洋戦争時の金属供出は免れ、大砲にならずに済みました。
余談ですが、ジャンヌ・ルイーズが今日まで無傷で残っているのに対し、
アデレード・ジョゼフィーヌの方は、時代の荒波を乗り越えてきました
鐘銘にフランス人法学者ボアソナード氏の名前が刻まれていたため、
太平洋戦争時の金属供出は逃れられましたが、
一度割れてしまったことがあり、関口教会の信者の寄付で1957年に改鋳されています

■平和の鐘(日本橋3-4・京橋1-1間中央分離帯内)/オランダ製
こちらの鐘は、1989年日蘭修好380年を記念し、
国際都市の一員として世界平和を願い、中央区が設置したものです。
26個の鐘は、カリヨン・スウィングベル製造で世界一の規模を誇り、
100年以上の歴史と優れた技術・実績を持つことからオランダ王室より「ロイヤル」の称号が与えられた
オランダのロイヤル・アイスバウツ社が製造しました

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その鐘は、毎時0分になると中央区の歌「わがまち」に代表される曲を奏でます。
そのメロディーが気になる方、遠方にお住まいの方は、
中央区平和祈念バーチャルミュージアムからどうぞ

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■銀座の鐘(銀座教会:銀座4-2-1/英国製
こちらは上記3つの鐘と比べてそれほど知られてはいませんが、
銀座教会の階段の中腹右手側にあり、
第3次会堂ができた1928年以降、約90年銀座の移り変わりを目撃してきた歴史ある鐘なのです

しかし、鋳造されたのは1878年と古く、カトリック築地教会の鐘と同年代!
バーミンガム市ブリュウス・アンド・サン社(Blews & Son)が手がけ、なんと227kgもあります
オーナーのウィリアム・ブリュウスは、真鍮燭台を作る職人として記録が残りますが、
教会の鐘も鋳造していたようで、本拠地のバーミンガムにも当時の鐘が残っています。
この教会の鐘は一体どういう経緯で海を渡ってきたのか...気になりませんか?

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ということで鐘銘を見てみると、鋳造社や教会に関する単語が見られますが、3~4行目をよく見てください
なんと、NAGASAKI JAPANと刻まれているではないですか!
これは、鐘が銀座に来るまでの大きな手がかりとなります。
英国好きの私としてはここで引き下がれないので、さらに調べたところ、次のようなことが分かりました。

1873年(明治11年)、後に出島聖公会神学校となる我が国最古プロテスタントの神学校長崎に設立されました。

Dejima.jpg
(赤い矢印で示した建物です。昨年訪れた際は、銀座教会と関係があるなんて知るよしもありませんでした。)

その際、あのトマス・グラバーが特注したこの鐘が取り付けられました。
しかし、1922年に発生した地震で鐘が落下...
その後、宣教師スコットが買い取っています。

その翌年、今度は関東大震災が起こり、銀座教会が焼失...
再興したのは、前述の第3次会堂が完成した1928年でした。
この際にスコットから入手した鐘が取り付けられたということです。

ようやくこの鐘に見る長崎と銀座の関係性が浮かび上がってきましたが、
なぜグラバーがブリュウス・アンド・サン社に特注したのか、
宣教師スコットとはどのような人物で、銀座教会とはどのような関係があったのかという点は、まだ明らかにしきれていません
詳細が分かった際には、改めてブログでご紹介します!

■おわりに
今回は区内で見られる鐘をご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。
鐘の製造国が全て異なり、今も昔も中央区は国際的だと改めて感じるとともに、
思いがけないところに長崎との関係性も見つかりました
ご紹介した通り、中には引退した鐘もありますが、
このように現役時代の歴史を読み解くと、当時の時代背景等が少しずつ見えてきます。
中央区では、「鐘ひとつ」をとっても面白いと思っていただけたら幸いです

【参考文献・ウェブサイト】
国立大学法人九州大学大学院理学研究院附属地震火山観測研究センター「長崎県の地震活動概況(2003年8月)」(2019年2月16日閲覧)
築地カトリック教会百周年記念誌編集委員会『つきじ―献堂百周年記念号―』(築地カトリック教会、1978年)※非売品(教会で見せていただけます。)
長崎バプテスト教会「お薦め散策コース - Bコース:眼鏡橋から出島・大浦方面③」(2019年2月16日閲覧)



 

 

◆ 京橋物語5~南伝馬町から京橋へ

[隅田の花火] 2019年2月21日 09:00

京橋物語の5回目。前回からの続きです。

前回まで→ 【①】  【②】  【③】  【④】

 

関東大震災の後も大正時代の面影が残った南伝馬町。近代的なビルが立ち並ぶこの街は、銀座の復興していく様子を高い場所から眺め続けていくことになりました。椅子に座れば、とても気持ちが良さそうな眺望です。昭和の時代に入り、銀座通りの街並みも明らかに変わってきています。

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通りの左には、松屋の百貨店が既に開業しています。その奥にはうっすらと松坂屋も見え、銀座の街の復興は、この2つの百貨店の先導もあって急ピッチに進んでいるようです。

 

一方の昭和3(1928)年頃の南伝馬町の風景。通りには、路面電車・乗り合いバスが写り、活況を呈していることが分かります。星製薬のビルは改築が始まり、一番左の片倉館は増築によって大きくなりました。 

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昭和3年の秋には、昭和天皇の御大典(御大礼)が行われ、京橋に奉祝塔が立てられます。御大典というのは、即位の礼・大嘗祭といった一連の儀式のことです。大正天皇の時には、大正4(1915)年に行われたことは『京橋物語2』でご紹介致しました。

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今年2019年はその記念すべき年で、即位の礼が10月22日に行われるのはご存知の通りです。今年の即位の礼は、平成の時と同じように東京で行われますが、この昭和と大正の時には京都御所で行われたそうです。

 

そして、震災から7年が経過した昭和5(1930)年。震災復興事業に一つの区切りがつけられます。

s_hanabi_72-4.jpg震災で被害を負っていた星製薬のビルも装いが新しくなり、南伝馬町の街の復興も、これでひとまず終わりとなりました。とはいえ、大正時代の面影を残す南伝馬町の街並み。銀座通りを歩く人たちは一種の懐かしさを感じたのかもしれません。

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そして昭和5(1930)年3月下旬、帝都復興祭が開催されます。銀座通りには多くの市民が押し寄せ、復興した喜びを皆で分かち合います。

 

天を向く京橋の親柱と南伝馬町のビルの塔屋。記念の奉祝塔に、路面電車のダブルポール。その前に立つ群衆が見つめる先は、復興を終えた銀座の街です。

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今まで銀座を見守ってきた南伝馬町の街全体が、まるで銀座通りに向って「万歳!」と両手を上げ、復興した銀座の街を祝福しているようです。

 

もし中央区内で一度だけ、過去にタイムスリップすることができるならば、いつの時代のどこに行ってみたいですか?。私はこの素晴らしい写真の中のどこかを指定して、銀座通りを眺めてみたいです。左上の大同生命ビルのトンガリ屋根が良さそう。

 

 

でもやっぱり、右上に写る第一相互館の塔屋から、銀座通りを見下ろすのがいいかもしれないですね。

s_hanabi_72-7.jpg4丁目交差点に銀座三越も開業したこの年。銀座の街に町名変更がありました。4丁目までだった銀座は8丁目まで拡大、松坂屋銀座店が建つ尾張町の場所は銀座6丁目に変わりました。

 

そして翌年の昭和6(1931)年。南伝馬町にも同じことが起こります。

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橋が江戸以来の擬宝珠をやめたように、南伝馬町と周辺の街も江戸以来の町名をやめることを固く決心します。新たな時代へ向かおうとする意識のあらわれでしょう。選んだ新しい町名は『京橋』。それは、大正時代に形作られたモダンな街とモダンな橋が、名実ともに一体化した瞬間でした。

 

その翌年の昭和7(1932)年には、銀座4丁目交差点に服部時計店の時計台が建ちました。一方の京橋通りには、左手前に福徳生命ビルが竣工、京橋の街の顔が変わります。

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そして、京橋の街であの有名な建物を忘れてはいけません。京橋2丁目の星製薬と千代田館の間、千代田館の隣に建つことになるビルです。昭和初期の段階では、切妻屋根風なバラック、フランス料理店「鴻乃巣」が建っていました。

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昭和7(1932)年頃でしょうか。第一相互館から京橋2丁目を見ると、この時点で更地になったことが分かります。

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その建物はご存知、明治屋のビルです。昭和8(1933)年、千代田館の隣に竣工しました。下の絵葉書、僅かながら明治屋が写っています。

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こうしてみると明治屋のビルは、京橋の街に建てられたビルとしては、後発組だったことが分かります。因みに、この絵葉書に写っている建物で現在も残っているのは、この明治屋のビル、そして同じ年に竣工した、通り右奥に見える日本橋髙島屋だけかと思います。尚、銀座では同じ年に教文館ビルが建ち、現在も残っています。

 

またこの明治屋のビルは、地階と地下鉄駅を連結させて作られた建物で、建設中には、京橋駅まで地下鉄が走っていました。地下鉄銀座線は、始めから全通したわけではなく、浅草上野間が昭和2年に開通後、少しずつ開通区間を伸ばし、京橋駅までは昭和7年12月、銀座駅までは昭和9年3月に開通しています。

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写真提供:中央区立京橋図書館

 

銀座を中心に百貨店が進出し、地下鉄も開通したこの通りは、新しい客層を呼び寄せ、繁栄を極めます。しかしこの銀座通りの繁栄は、「銀座の復興を見守る」という、これまでの京橋の街の役割が終わったことを意味しました。

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この後、戦時色が濃くなり、統制がかかったのか、これ以降の京橋の絵葉書を見つけることができていません。ほぼこの形で太平洋戦争に突入し、終戦となりました。 

 

そして次回が最終回。これまで1~5回目までの長い物語となりましたが、画像のいくつかをクリックすると拡大画像や解説画像が現れるよう施してあります。もう一度振り返った上で、次回の最終回をご覧になっていただければ幸いです。

つづく。

 

 

 

特派員のひとり反省会 その3~第11回中央区観光検定より~

[えだまめ] 2019年2月20日 18:00

子連れ特派員のえだまめです

前回 → /archive/2019/02/11-15.html

前々回 → /archive/2019/02/11-14.html

に引き続きまして、

2月3日(日)実施の「第11回中央区観光検定」の中から

気になった問題を取り上げたいと思います。

 
問26 築地の「国立がんセンター」北側出入口の近くには、海軍に関係する

2つの記念碑が並んでいます。

一つは「海軍軍医学校跡」の石碑ですが、もう一つの記念碑の名称は

次のうちどれでしょう。

ア.海軍発祥の地  イ.軍艦操練所跡  ウ.海軍経理学校の碑  エ.海軍兵学寮跡
 

≪えだまめの言い訳≫

実は・・・私が特派員になるための受検勉強をしていた頃(2016年末)

「国立がんセンター」の北側出入口近辺がどうも工事中だったみたいで。

ここにあった2つの記念碑、見ることができなかったんです・・・。

しかもあの頃はあずき(当時1歳半)を乗せて

ベビーカーを押しながら区内巡回してたので

危険そうなところに突っ込んでいく勇気はなくて・・・。

※もうひとりの私のツッコミ※

とは言いながらも、正解選択肢以外がどこにあるかはちゃんと見たはずだから

消去法で出来たはずよね!?
 

・・・ふう。反省。

でも、これは「もう一度ちゃんと築地に見に行きなさい!!」

という神のお告げだと思って、行ってみることにしましょうか。

 

ア.海軍発祥の地

・・・といいながらも、ここだけは過去画像にて。

海軍発祥の地は、いわゆる築地の「場内市場」だった場所の中。

現在は市場の取り壊し工事中で、立ち入り禁止になっています。

DSC_2450-1.jpg

そんな訳で懐かしの(?)画像です。

市場内にありました「水神社」の境内に

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「旗山」と大きく書かれた碑がありました。

もともと松平定信の下屋敷だったこの場所。

明治になって海軍省がここに置かれることになり

庭園である「浴恩園」(頻出!)の中の築山に

「海軍卿旗」を立てたことに由来するのが「旗山」の名前です。

・・・明らかに「がんセンターの北側出入口」の近くじゃないですね。

 

イ.軍艦操練所跡

ここには碑が残っているわけではなく、

中央区教育委員会の案内板があります。

DSC_5164-1.jpg

安政4年、幕府は築地の講武所内に旗本や御家人たちを対象とする

「軍艦教授所」を創設。

後に「軍艦操練所」と改称しました。

勝海舟が頭取を務めていたことでも知られていますね。

場所はこちら。

軍艦操練所.jpg

築地六丁目の交差点からすぐ、晴海通り沿いの歩道です。

というわけでこれも違いそうですね。

ちなみに・・・『「軍艦操練所」がこんな陸地のど真ん中に??』って

思われる方もいらっしゃるかもしれませんが。

幕末の頃、勝鬨橋を挟んだ対岸である月島・勝どきエリアの埋め立ては始まっておりません。

築地の目の前には海が広がっていました。

なので「軍艦」を「操練」するのに何ら不思議はなかったわけですね。
 

ウ.海軍経理学校の碑

イ.の「軍艦操練所跡」の案内板のところから、

勝鬨橋に向けてまっすぐ歩いていきましょう。

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勝鬨橋のたもとにあるのがこちらの「海軍経理学校の碑」です。

明治7年に芝に「海軍会計学舎」が設けられたのが始まりで、

明治21年に浴恩園跡地に移転となりました。

明治40年に海軍経理学校の名称になり、昭和7年に築地の一角に再移転。

そして昭和20年9月、戦後の海軍解体に伴い、70年の歴史に幕を下ろしたのでした。

しかし、多くの会計学に通じている人材を育て上げたことにより

戦後にも活躍する人材が多く輩出されたようですよ。

ついでにいうと、その傍には「かちどき 橋の資料館」。

(休館日は 月・水・日曜日です)

開閉可能な造りになっている勝鬨橋ですが、

その開閉のために作られた変電所を改修して作ったものです。

橋に関する資料や模型など見ることができますよ。

 

エ.海軍兵学寮跡

というわけで、「消去法でエ.が正解!」・・・ではなくて。

ちゃんと「がんセンターの北側出入口」のところまで見に行きましょう。

これだけ新大橋通りの反対側にあるのでちょっと離れていますね。

久しぶりに見たそこは・・・

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工事も終わって、きれいに舗装されてました!!

そして、お目当てのものは、歩道の右手側に。

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「海軍兵学寮趾」「海軍軍医学校趾」のふたつが

仲良く並んで植え込みの中にありました。

海軍兵学寮という名は明治3年(1870)に生まれました。

前身となるのはイ.の選択肢だった「軍艦操練所」。

明治9年(1876)にさらに「海軍兵学校」と改称され

明治21年(1888)に広島・呉の鎮守府に近い江田島に移転するまでこの地にありました。

なお、跡地は「海軍大学校」として利用されたようですよ。

そして、明治天皇がこの海軍兵学校まで行幸するために通った道が

現在も銀座にその名を遺す「みゆき通り」です。

以前、素敵な先輩特派員の「ジミニ―☆クリケット」さんが

投稿してくださった記事もありますので是非そちらもご参照ください。

/archive/2017/04/post-4240.html

(・・・私、以前にこの記事読んでます。

やっぱり解けなきゃいけない問題でした。大反省です。)

 

海軍関係の史跡が多い築地の街歩き。

もちろんそれ以外にも

DSC_5152-1.jpg

築地本願寺であったり

DSC_5161-1.jpg

平日の午後だというのにまだまだ賑わいを見せていた「場外市場」だったり

見どころはたくさんあるんですよね。

ちなみに子連れ情報としましては・・・

綺麗で広くて使いやすい多目的トイレ(当然おむつ交換台あり)がある

「築地魚河岸」の存在はとっても助かるのです。

http://www.city.chuo.lg.jp/kusei/kobetsukeikaku/tukiji/uogashi.html

小さい子連れでも安心してお出かけできますよ。

是非足を運んでみてくださいね。

 

 

GINZA TANAKA 東京マラソン2019 表彰メダル展示 2月28日まで 

[銀造] 2019年2月20日 14:00

 銀座通りの、貴金属店「GINZA TANAKA」は、店内にお雛様、端午の節句の飾り、クリスマス・ツリーの展示などで楽しませて頂いています。

今回は、東京マラソン2019の勝者が受賞する金、銀、胴のメダルが展示されていますので、ご報告します。

なお、この展示は2月28日までです。 ぜひ、お出かけになって、実物を御覧下さい。

銀座田中貴金属のアクセスなどについては、こちらをご覧ください。

https://www.ginzatanaka.co.jp/shop/ginza.html

 

 

「摂津国」田蓑神社を訪ねて

[wienerhorn] 2019年2月20日 12:00

田蓑神社鳥居.jpg

徳川家康が大阪の佃から江戸に招いた漁民たちが築いた佃島。その後、明暦の大火(1657)後の築地本願寺の造営にも佃島の皆さんが貢献するほか、中央区の歴史を知る上で佃島は重要な位置を占めていますね。私も特派員の一人として、佃島のルーツを目に焼き付けておくべきと思い、大阪出張の際に足を伸ばして西淀川区の佃を訪ねてきました。
梅田から阪神電車の各駅停車に乗り、千船駅下車。静かな街の一角に、田蓑神社があります。大きくはない境内ですが、足を踏み入れると、地域に愛されている重要なお宮であることがよくわかります。

 

東照宮.jpg

徳川家康の東照宮が境内にあると聞いていましたが、他にも「金比羅宮」(金比羅さん)、「七重之社」(お伊勢さん)、「稲生社」(お稲荷さん)などが祀られています。

  

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中央区と密接な関係がある「佃漁民ゆかりの地」碑。家康との関係、住吉神社の由来などが記された説明板もあります。大阪市立佃小学校と中央区立佃島小学校との交流についても説明があります。

 

ゼロメートル地帯.jpg

ちなみにこの地はゼロメートル地帯にあり、鳥居の横には「海抜-0.8m」との表示がありました。コンクリートの堤防で守られた低平地に位置しています。歴史に思いをはせつつ、水防災の重要性を改めて感じた旅となりました。

 

 

 
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