[之乎者也]
2015年12月24日 18:00
ある日のこと、新川の住友ツインビルから南高橋のほうへ歩いて行くと「靴磨き」という看板が出ています。前日埃っぽいところを歩いて靴の汚れが気になっていたので、ちょうど良いと思い「お願いできますか」と声を掛けます。
「大丈夫ですよ!」、明るい声が返ってきます。
先客も無かったのですぐ椅子にかけて「クイックコース」をお願いします。靴を磨いてもらいながら話を聞いてみると、こちらで店開きをしてからもう1年半になるとか。普段はあまり平日の昼間にこのあたりを歩かないので、今まで気が付かなかったわけです。「クイック」というだけあって、手際よくやってもらいましたが、しっかりとした仕上がりです。
昔は、駅前やデパート前などでよく見かけた靴磨き屋さんですが、もともと戦後に戦争孤児などの生活の手段として始まった商売であるため、1代限りしか許されず、そうした靴磨き屋さんの高齢化に伴い数が減っているというお話でした。最近では八重洲地下などに固定店舗の靴磨き屋さんもありますが、道端の靴磨き屋さんと比べて、やや敷居も高く、また家賃の分、料金もちょっと高めになるので、どうしてもお手軽にとは行きません。こちらは、道に面した倉庫のような場所の入口でやっていて、昔ながらの靴磨き屋さんのお手軽さも兼ね備えています。
靴を磨き終えて帰り際に、松田さんが2年前に浅草で行われた「靴磨きギネス世界記録挑戦」に、800名の挑戦者の1人として参加した際にギネスから発行された証明書を見せてもらいました。2013年の11月22日、靴関連会社が集積する台東区アサヒ商店街で行われた挑戦は見事成功に終わり、2011年のUAE(アラブ首長国連邦)の451人を大幅に上回る記録を達成したそうです。
さて、中央区は実は靴には深い縁があり、1870年に佐倉藩(現、千葉県)出身の西村勝三が、こちらからそう遠くない入船3丁目で日本で最初の革靴製造工場を始めたという歴史があり、入船橋交差点脇には「靴業発祥の地」記念碑が建っています。松田さんは西村勝三の出身地と同じ千葉県から新川(越前堀)に通っているそうで何かご縁を感じます。
区内の街歩きなどでくたびれた靴に思いやりを!。。。営業時間は平日の午前だけですが、近くを通りかかったらちょっと腰かけてみるのは如何でしょうか。
【靴磨き(Shoe Shine Craftsmasn)松田尚巳】
営業時間:9:00~13:00頃まで(月、水、金。ただし祝日はお休み)
所在地:〒104‐0033 中央区新川2-28-11(ファミリーマート新川中央大橋店南隣)
【靴業発祥の地の碑】
所在地:〒104-0042 中央区入船3-2-10(新大橋通り 入船橋交差点.。イトーキ・ショールーム前)
[之乎者也]
2015年12月23日 09:00
新幹線で東北方面へ出張の帰り道、JR京葉線の八丁堀駅で電車を降り、改札口を出ると、ふと駅スタンプのスタンドが目に入ります。子供のころは旅先で駅スタンプをスタンプ帳に集めるのが愉しみでしたが、最近はすっかりご無沙汰です。八丁堀駅にもあったとは。。。
どんなスタンプなのかなと興味津々、反故紙の白地に押してみると、「八丁堀駅 長谷川平蔵生誕の地」の文字とともに鬼平こと長谷川平蔵の絵が出てきます。~長谷川平蔵については、改めて説明の要も無いかもしれませんが、あまり歴史に詳しくない方のためにここでミニ解説を。
長谷川平蔵(1745?~1795)は、江戸時代中期に活躍した「火付盗賊改役(江戸の特別警察である火付盗賊改方の長官)」で、石川島(現、中央区佃)に無宿人の収容施設である人足寄場を作った功績もあります。(/archive/2014/06/post-2075.html)
池波正太郎の時代小説「鬼平犯科帳」では主人公として凶悪犯罪の取り締まりに活躍し。その取り締まりのすさまじさから小説では「鬼の平蔵(=鬼平)」と呼ばれます~
【鬼平犯科帳 1(池波正太郎)文春文庫版】
「へえ~、長谷川平蔵って八丁堀に住んでいたんだ!」
小説の設定では平蔵夫婦の住む役宅は「清水門外(現、千代田区九段。千代田区役所あたり)」ということでしたし、若いころには家庭環境の複雑さから一時グレて「本所の銕(てつ)」と呼ばれ、本所菊川(現、墨田区)にも住んでいたなど、長谷川平蔵は江戸のいろいろな場所に住んだようです。
平蔵の出生地については、故瀧川政次郎氏(元國學院大学教授)や重松一義氏(元中央学院大学教授)といった法学者までが議論しているようですが、決定的な検証にまでは至らず、複数の可能性があるようです。。。
赤坂・築地町(父、宣雄の住居のあった拝領屋敷。現在の赤坂5丁目)で生まれて5歳まで育ち、その後築地本湊町に移ったという説、本所・菊川で生まれ、そのままずっとそこで育った説、または出生から19歳までずっと築地本湊町で育ったという説などなど。。。
どの説も決め手に欠け推定の域を出ないとしても、平蔵は後に石川島に人足寄場を設けていることから、築地本湊町、すなわち現在の中央区湊地区とは深い縁がありそうです。地元の郷土史家(中央区郷土史同好会)は「5歳から19歳まで築地本湊町の津田七右衛門屋敷に住み、その後19歳に本所菊川に移った」ことに着目し、古地図により津田屋敷は松平阿波守の向かいであったことから、平蔵が住んでいたのは現在の中央区湊1‐10あたりと推定しています。ちなみに、この場所は、12月14日付のブログ記事でご紹介した「御菓子司 しげ田」(/archive/2015/12/post-2928.html)のあたりになります(明治時代に鉄砲洲稲荷神社が、稲荷橋東詰から松平阿波守屋敷跡に遷座したため、平蔵の家は、現在の鉄砲洲稲荷神社の向かいあたりということになります)。
【長谷川平蔵 湊地区住居跡(推定)】⇒左端に「御菓子司 しげ田」、真ん中あたりに「都バス・鉄砲洲バス停」が見える。
ただし、これもあくまでも郷土史家の推定説であり、現地に行っても教育委員会による説明版などは立っていませんが、地域住民としては平蔵が近所に住んでいたという話にはロマンを感じます。
まあ「鬼平犯科帳」は小説で池波正太郎によるフィクションの要素も多いので、事実とは別に「お話」としてあまり肩肘張らずに楽しめればと思います。例えば、平蔵が密偵との連絡場所に使ったという軍鶏鍋屋の「五鉄」は、本所(墨田区両国あたり)にあったとされますが、そのモデルは人形町「玉ひで」であったといいます。平蔵の出生地についての謎についても、ここでは特定の説に肩入れせず、今後歴史学者など専門家による研究成果を気長に待つことと致しましょう。
【長谷川平蔵 湊地区住居跡(推定地)】
所在地:〒104-0043 中央区湊1‐10(鉄砲洲稲荷神社向かい)
(*ただし、文中説明の通り、こちらには説明版などは立っていません)
交通:都バス「東15」・江戸バス「南循環」鉄砲洲停留所下車目の前。中央区コミュニティサイクル「B01鉄砲洲児童公園」サイクルポートそば。
[之乎者也]
2015年12月22日 14:00
師走の銀座を衝撃的なニュースが駆け抜けました。。。「プランタン銀座、2016年末閉店!」
プランタン銀座といえば、西銀座通り沿いに聳え立つ銀座の顔で、昨年(2014年)開店30周年を迎えています。プランタン銀座の歴史は1984年に始まります。スーパーのダイエーが百貨店事業への足掛かりとして、フランスの大手百貨店「オ・プランタン(Au Printemps)」の提携店として日本に誘致しました。1981年の神戸・三ノ宮駅前店を皮切りに、最盛期には札幌、大阪にも出店していました。【パリ・オスマン大通り(64 boulevard Haussmann , 75009 Paris)のプランタン本店(出所:wikipedia)】
また、プランタンは、その名(Le Printemps=春)の通り、春の明るさ、フランスの優雅さを象徴するデパートで、フランスの本家は1865年にパリで創業され、今年は創立150周年という記念すべき年でした。プランタン銀座開店直後の80年代半ばには、青春真っ盛りの私も、恥ずかしながら「銀座におしゃれなフランスを見に行こうよ!」などと言ってデートコースの一つとして大変お世話になりました。
【クリスマス前で混雑するプランタン銀座2階のカフェ・アンジェリーナ】
特に、2階にはパリのリヴォリ通り(226 rue de Rivoli, 75001 Paris)にある老舗カフェ「アンジェリーナ(Salon de Thé Angelina)」の銀座店があり、パリのお店と同じレシピで作られたモンブランなどフランスの香りがいっぱいです。【カフェ・アンジェリーナのモンブランメニュー】
正面にはためくフランス国旗とともにおしゃれな「フランス文化」が銀座からひとつ消えてしまうというのは、単にひとつの百貨店が閉店するという意味以上のものでちょっと残念です。しかし、開業150周年を迎えた本家も、百貨店は従来通り存続しているものの、経営については90年代以降グッチの親会社のPPR(現、ケリング)などを経て現在は中東カタールの投資ファンドがオーナーとなり、同様にプランタン銀座も現在のオーナーは読売新聞/三越伊勢丹となっています。テナントにも、近年ではバナナ・リパブリック、ユニクロ、ニトリが入るなど新しい方向の店づくりを模索していたこともあり、12月3日付ブログ記事の「鉄砲洲稲荷神社の社務所(/archive/2015/12/post-2910.html)」同様、変わっていくのは時代の流れなのかもしれません。今後については、2016年10月以降一部売場の閉鎖を開始し、16年末に閉店。17年3月から全店新装し新たな店舗名で再スタートすることのようです。新店舗名については現状未定ですが、今までの「フランス」とは一線を画すカジュアルな店を目指すものと言われています。
【プランタン銀座】
所在地:〒104-0061 中央区銀座3-2-1
営業時間:11:00~20:00(金、土曜日は~21:00)
電話:03-3567-0077
[之乎者也]
2015年12月21日 09:00
17世紀、材木を商って富を得、海運・土木などの分野でも活躍した豪商河村瑞賢(1618~1699年)は、霊岸島(現在の新川1丁目)付近に居を構えていましたが、1660年に大川へ通じる掘割を開削します。掘割は「新川」と呼ばれ、周囲には酒問屋の蔵が立ち並ぶようになります。
【江戸名所図会「新川 酒問屋(さかどいや)」(長谷川雪旦 画)】
長谷川雪旦の描いた「新川 酒問屋」では、江戸湊まで菱垣廻船/樽廻船で運ばれた下り酒が、品川沖で伝馬船に積み替えられ、新川の河岸で揚げられる姿が描かれています。酒の輸送にはその後自動車が用いられるようになり海運は廃れ、また新川も戦後のがれき処理で1949年には埋め立てられてしまったため、酒問屋のあった場所は、町名とオフィスビルやマンションの合間に立つ「新川の跡 記念碑」にその名残を残すだけとなっています。
【新川公園内に残る「新川の跡 記念碑」】
かつての酒問屋の賑わいのあとを求めて街を歩いてみました。
埋め立てられた新川跡に面するように新川1丁目のビルの合間にひっそりと建っているのが酒問屋の守り神として信仰された新川大神宮。今でも新川大神宮では毎年10月中旬に酒関係者が集まり例大祭が行われており、その様子(2014年のもの)は特派員サムさんからブログ記事「新川大神宮御例祭2014(/archive/2014/10/2014-6.html)」で紹介されています。
新川には現在も酒卸関係団体(全国卸売酒販組合中央会)、日本酒メーカー(白鹿、金盃など)、酒問屋(加島屋)などが拠点を置いており、新川大神宮にも日本酒・醤油ほか醸造関係者を中心に名前を連ねています。
残念ながらこれら大きなメーカーからは我々一般消費者は直接買うことはできませんが、新川地区には今でも小売酒屋さんが数軒営業をしています。本日はその中の一つ、今田商店にお邪魔しました。今田さんは広島県出身、実家は造り酒屋の今田酒造本店(東広島市安芸津町)で、「冨久長(ふくちょう)」というお酒を造っています。こちらは新川のお店でも買うことができます。今田さんに、おすすめの日本酒を紹介頂きました。右手の緑色の瓶が「冨久長」(今田酒造本店 )、左手は「誠鏡(せいぎょう)」(中尾醸造 広島県竹原市)です。竹原と言えば酒どころ。NHK朝ドラ「マッサン」の実家の竹鶴酒造も竹原でしたね!新川という場所にこだわり、単にお酒の販売にとどまらず、お酒の魅力・面白さを伝えたいという気持ちでお店をやっている今田さん。ふらっと訪ねての試飲も可能ですが、定期イベントとして日本酒、ワイン、スパークリングその他の試飲会もやっていて、先月ボジョレー・ヌーヴォー解禁日(11月21日)に行われた日本酒会には80名のお客さんが来訪するという盛況だったようです。
日本にもすっかり定着したボジョレー・ヌーヴォー(Beaujolais nouveau)解禁イベント(フランスで始まったのは1951年)ですが、遡ること200年前の江戸時代、日本では「新酒番船(しんしゅばんせん)」という定例行事が旧暦10月に行われていたそうな。
新酒番船とは享保年間(1727年)から始まる行事で、上方から江戸へ酒を運ぶための樽廻船が、同時に上方を出帆しその年の新酒を江戸まで運ぶ早さを競うレースでした。通常の輸送では、2~3週間程度かかるところ、5日程度で運ばなければ入賞できない厳しいレースで、そのゴールはこの新川だったそうです。
【江戸名勝図会 「新酒番船江戸新川入津図」(二代目歌川広重 画)】
今田さんのご厚意により、店の高級酒コーナーの「大吟醸 龍力 新川一番船(兵庫県姫路市 本田商店)」を見せてもらいました。まさに、この「新酒番船」から取った名前のようですが、酒の本場である播磨の大吟醸に「新川」の名前が入っているなんて、なんだか誇らしい気分です。高級酒(一升瓶 7,000円弱)でしたのでさすがに試飲は無理でした(笑)が、何かのお祝いにかこつけて、買って一度味わってみたいものです。
【今田商店】
所在地:〒104-0033 中央区新川1-10-10
電話番号:03-3551-5885
営業時間:8:00~19:00(日・祝休)
【新川の跡 記念碑】
所在地:〒104-0033 中央区新川1-31-1
【新川大神宮】
所在地:〒104-0033 中央区新川1-8-17
[之乎者也]
2015年12月19日 16:00
日本大好きなイギリス人の友人が出張で東京に来ることになりました。いつもはおいしい和食をということで、味優先でお店を決めていたのですが、世界遺産「白川郷」の番組を見て以来、古民家大好きな彼からは「伝統建築のレストランで」とのリクエストでしたので、今回は木挽町の秩父錦に行くことにしました。
実はこちらのお店、今年7月に選定された「中央区近代建築物調査100選」のリストの最初(http://www.city.chuo.lg.jp/bunka/timedomeakashi/kindai_kentikubutu_tyousa/kindai-ichiran.html)に載っている建物で、木造の「出桁(だしけた)造り」の町家です。
【出桁造りの特徴(黄色矢印部分)】⇒梁(腕木)を側柱から外に出して、その先端に軒桁を出した構造。
銀座2丁目と交通の便は悪くはない場所ではありますが、昭和通りを越えた静かな一角にあります。銀座とはいえ木挽町ですので、昔は秩父錦のみならず似たような風情のある建物が立ち並んでいたのでしょうが、今では周囲は近代的な鉄筋コンクリート造りのビルに建て替えられており、そのような中にひっそりと佇む感じで立っています。
のれんをくぐり、ちょっと重い扉を開けて中に入ると、高い天井、木のカウンター、奥に見える神棚のあるお座敷と。。。ここは何処?本当に東京のど真ん中?という雰囲気の店内です。
もともとは氷屋(氷や炭を売る店)だったのを昭和40年代以降改装し、居酒屋として運営しているお店でした。【店内に飾ってある「渡辺氷室」の写真】
こんにゃくみそおでん、揚茄子胡麻味噌、銀杏焼などの郷土料理ぽいものを注文してみましたが、メニューへのこだわりがいま一歩なのと、お世辞にもあまり良いとはいえないお店の方の愛想がちょっと残念かな。まあ、イギリスの友人は「こんなもんでしょっ!それもレトロで良いじゃない。」とご満悦の様子でしたが。。。
昭和のレトロな建物の雰囲気を楽しみ、木挽町の昔に思いを馳せた夜でした。
【酒蔵 秩父錦】
所在地:〒104‐0061 中央区銀座2-13-14
交通:地下鉄日比谷線・都営浅草線東銀座から徒歩4分程度。
電話:03‐3541‐4777
営業時間:17:00~22:30(土日祝休)
[之乎者也]
2015年12月17日 09:00
落ち着いて読書を楽しんだ秋の夜長の季節もあっという間に過ぎ去り、いつの間にか師走に突入です。仕事に忘年会と慌ただしい日々が続きますが、そんな中今回は「文学で楽しむ中央区」の第4弾として、仕事帰りに八重洲ブックセンターで買った文庫ベストセラーの『しんがり 山一證券 最後の12人』(清武英利著:講談社α文庫)をご紹介します(第3回までは「文学で楽しむ中央区」としていますが、現代の話ですので今回は「文学で知る中央区」と名前を変えての登場です)。
こちらについては、日曜の夜に「連続ドラマW しんがり~山一證券 最後の聖戦~(江口洋介主演)」が、9月20日からWOWWOWで放映されていたのでドラマでご覧になった方もいらっしゃると思いますが、今まで3回にわたってご紹介した江戸時代のお話とは異なり、わずか18年前(1997年11月)、現代の中央区が舞台となった「ノンフィクション」のお話です。
「山一證券の本社は、塩浜ビルから都心側に5キロほど戻った中央区新川にある。こちらは青い窓ガラスがきらきらと輝く21階建ての高級オフィスビルだ。一見、変哲の無い真っすぐのビルは、13階のあたりから突然、積み木細工のように部屋を互い違いに重ねたような凝った作りになっている。そこから隅田川と、佃島の三角州に立つ八棟の超高層マンションを見渡すことができた。成功者の住む『大川端リバーシティ21』である。。。」。
小説のはじめ「第1章 予兆」に登場する旧山一本社ビルは、現在は新川に本社のあるレジデンス・ビルディングマネジメント(RBM)という不動産会社が所有し、山一證券とは関係のないさまざまな会社が入居しています。
ビルは18年前同様現在も永代通り沿いの隅田川と永代橋を見下ろす場所に周囲を睥睨するように立っており、バブル時代の当時、創業100年を迎え、4大証券の一角として業界に君臨する本社のエリート職員の気持ちを表すような建物を今も見ることができます。
この小説の主人公の嘉本隆正(かもとたかまさ)ほか「ギョウカン(業務管理本部の通称)」の12名は、もともと華やかな本社勤務とは縁の無い会社人生を送り、「場末(ばすえ)」と呼ばれる塩浜のビル(江東区塩浜。地下鉄東西線木場駅の南東方約500メートル)で仕事をしていましたが、1997年11月の三連休の初日に日経朝刊に「山一證券自主廃業へ 負債3兆円 戦後最大」というスクープ記事が出、「社員は悪くありませんから!悪いのはわれわれなんですから!お願いします。。。」という社長の号泣会見が行われる中で、会社の最後の仕事ーーー会社を滅亡に追いやった原因である「簿外債務」の真相解明と顧客に対する清算業務ーーーを引き受けることになります。
【山一證券 社内調査委員会 社内調査報告書(表紙)】(http://kunihiro-law.com/files/open/writing/555d7e5511jn4cpn563ju_pdf.pdf)
山一證券の破たんという企業敗戦にあたり「戦に敗れて退くとき、軍列の最後尾に踏みとどまって戦う兵で、盾となって戦うことで、多くの兵が逃れて再起を期す」という兵法で言う「殿軍(しんがり)」の役回りを引き受けた12人のお話です。最初は社内調査を進めようにも相手にもされなかった主人公ですが、志を持ち奮闘する姿に協力者は徐々に増え、最後には「社内調査報告書ーーーいわゆる簿外債務を中心として」が完成されます。第3回でご紹介した「関東郡代 伊奈半左衛門忠順」同様、必ずしもハッピーエンドで終わらないお話ですが、419ページ超のストーリーは、読むものを引き付けて離しません。
その後、東京証券取引所も大阪証券取引所と経営統合し2013年1月には日本取引所グルーブ(JPX)が誕生しました。また、バブル期の89年12月に史上最高値(3万8,916円)を記録した日経平均は、その後低落を続け、リーマンショック後の09年3月にはバブル後最安値(7,055円)を付けたものの、最近(2015年12月)では2万円前後に回復し、東証のある兜町界隈も元気を取り戻したのでしょうか?山一證券の破たんした97年当時、永代通りには山一證券本社とともに金融危機の影響で相次いで破たんした準大手証券の三洋証券(97年11月3日 会社更生法適用)、北海道拓殖銀行(97年11月17日 都銀初の破たん後、北洋銀行に営業譲渡)東京支店が立ち並んでおり、兜町界隈では自虐的に「倒産通り」と呼ばれていたことについても小説では語られています。
【車で混雑する永代通り:東京証券会館付近】
兜町でも97年の出来事はひと昔前のこととなりましたが、「しんがり 山一證券 最後の12人」は、証券業界とともに東京証券取引所と証券会社が立ち並ぶ中央区の現代史を知る機会を与えてくれます。
【旧山一證券ビル(茅場町タワービル)】
所在地:中央区新川1-21-2(*こちらは一般の会社の事務所や住宅がある場所ですので、見学等のために勝手にビル内部へ立ち入ることは止めましょう(外から見ることに留めましょう)。)
交通:地下鉄東西線茅場町駅下車徒歩7分。都バス東20、22永代橋バス停下車そば。中央区コミュニティサイクル(CCC)「B06 アクロス新川ビル」サイクルポートから徒歩1分程度。