[小江戸板橋]
2011年4月30日 15:42
「空から、パーッと福でも舞い降りてこないかな。」
「もし宝くじでも当たったら・・・」
落語に出てくる、愛すべき長屋の住人「熊さん、八っっあん」のようなことを思いながら、ふらりと立ち寄ったのが、日本橋堀留町1丁目にある「椙森神社」。
スギの森というくらいだから、その昔このあたりは、杉の木が生い茂っていたんでしょうね。
拝殿の左手に立つ石碑の文字が「富塚」。
「宝くじにご縁があるのかいな。」と眺めていると、
久しぶりに登場は、無用なことだけやたら詳しい、いつぞやの爺さま。
『ここは、江戸時代に富くじ(富籤)が行われていたところ。
今でいう、宝くじのご先祖さまのようなものだ。
それを記念して、碑が建てられている。
江戸時代に、宝くじがあったのかだって。
富くじは、江戸文化の爛熟期といわれる、文化・文政の頃に最盛期をむかえている。
幕府が許可したもので、江戸の地域だけでも30箇所を超えたと言う。
半ば公営ギャンブルといったところかな。
官許の富くじは、幕府の財政悪化により寺社への補助金が減ったため、修繕費などを工面する名目で、寺社に興行を許可したんじゃ。
寺社の境内で行われる抽籤は、番号を記入した木札を大きな箱に入れ、よくかき回したところを、上部の穴から柄の長いキリを差込み、木札を突き刺した。
木札に書かれている、例えば「松の1234番」が当たり番号で、高らかに読み挙げられる。
境内に集まった人が、ワーッとどよめく。
時代劇でも、時折目にする場面だな。
一攫千金は、いつの時代の人も夢見ること。だから、落語や芝居の題材にも取り上げられているんだ。
特に、「江戸の三富」と数えられたのが、湯島天神、谷中感応寺(天王寺)、目黒不動。
寺社詣でと合わせて、大いに繁盛したようだ。
なに、ここ椙森神社はどうだったかだと。
江戸の主要街道に面した町屋の中にあるから、人々も気軽に立ち寄れたことだろう。
新橋の烏森、深川の雀の森(柳森神社を入れることもある)と合わせて、「江戸の三森」と呼ばれたところ。繁盛しない訳はない。
今でも、日本橋七福神の恵比寿さまが祭られている縁起の良いところだ。
しかし、富くじのあまりの過熱振りに、幕府老中水野忠邦は、天保の改革で廃止・禁令を出している。
夢を抱きつつも、堅実にまっとうに歩いたほうが、幸せに近づけるということかな。』
説教じみた話になりかけたところで、爺さま、スッと退場。
「まったく。親戚でもないのに、うるさい爺さまだ。」と、思いながらも、新緑の木々を通して降り注ぐ光の中で、富札をギュッと握り締めて、錐突きの一挙手一投足に熱い視線を送る江戸の庶民の姿が、フッと見えた気がしました。
[巻渕彰/写楽さい]
2011年4月29日 08:30
すでに当ブログで紹介した(2011/1/20)、東京都教育委員会発行の教科書「江戸から東京へ」(都立高校地理歴史科用、平成23年度版=写真左)が、4月27日から一般者向けに販売された。都立高校で平成24年度から日本史を必修化することから、日本の近代・現代史を学ぶことが重要として、作成されたもの。
「江戸・東京の歴史を学び、先人の知恵を生かそう」と江戸開府から現代までの歴史を写真や図表を織り込んで編集されている。都の教科書が市販されるのは初めてだそうで、歴史入門書や副読本としてお手ごろな一冊といえよう。既報のとおり、中央区に関連する事項も多く掲載されているので、中央区の歴史・文化の学習や史跡めぐりにも役立つ。A4判カラー印刷、全208ページ。定価640円。都庁第一本庁舎3階の都民情報ルームで販売している。
ところで、この教科書に「ガス灯がともる銀座」(本文58-59ページ)として、文明開化や銀座の煉瓦街が記載されている。なかに「銀座にガス灯がともる」というコラム(写真右)があるが、教科書のこの記述は、小生が当観光協会特派員ブログで投稿した、2009/11/24掲載「中央区ここに歴史あり<15>~銀座ガス灯のガスがつくられたところ~」の記事内容とかなり類似している。小生は芝浦や小平などに出向き、取材して記事投稿したものであり、この教科書の記述は、碑文の引用個所や文章の流れのほか、参考写真・絵図などが、要約されているとはいえ、小生ブログ記事とあまりにそっくりなのには、びっくりしている。
銀座ガス灯の歴史が広く知れわたることは良いことであるが、小生ブログの記事と教科書記述の内容が似かよっているのは偶然の一致だったのだろうか。ご興味をお持ちの方は読み比べていただきたい。●巻渕彰
[ukiuki]
2011年4月29日 08:30
佃大橋は、中央大橋と勝鬨橋の間にあります。
橋自体は機能性重視のデザインですが、
北側の歩道(隅田川上流・中央大橋側)は、歩行者のみ。
自転車を気にせず、景色を楽しみつつゆっくり歩けます。
橋を通るたびに楽しみにしていることがあります。
それはスカイツリーと東京タワーが同時に見えるポイントがあること。
東京タワーは聖路加のツインタワーの間から見えますよ。
月島側から50歩ぐらいのところです。
皆さんもどうぞお試しください。
[メニイブックス・オサ]
2011年4月29日 08:30
4月26日久しぶりに築地明石町を散歩しました。
日比谷線の築地駅で降りて散歩開始。明石小学校(改築中?)のそばのマンションの前に「ガス街灯柱」が設置されていました。そこからちょっと歩いて明石小の道を隔てたところにカトリック築地教会聖堂がありました。藤の花とボタン桜が満開でした。
ちょっと逆光になってしまい見難いかもしれませんがボタン桜満開でした
また聖堂の前の歩道には暁星学園発祥の碑が立っていました。
そこからタイムドーム明石を見学(掲示板のところにつつじの花がきれいに咲いていました)し、京橋税務署の建物のまえの新富座跡の説明板を見ながら日本橋まで散歩しました。途中昭和(?)の雰囲気のある郵便局の建物、古風で味のある足袋屋さんの建物、ツタ(?)で覆われたエコな建物を見ながらでなかなか興味ある建物と花を観賞しながらの約1万歩の散歩でした。
[ゆりかもめ]
2011年4月29日 08:30
浜離宮恩賜庭園 中央区浜離宮庭園1-1 03-3541-0200
浜離宮「新銭座鴨場」の向かい側土手に八重咲き山吹が群生しています。
細くしなやかに伸びた緑の枝が太陽に照らされると花は黄金色に輝きを増します。
七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき
太田道灌との古事で有名な山吹は八重咲きと考えられ実はつきません。
昔、勉強した事を思い出す方は多いと思います。
八重き山吹
本霧島(江戸キリシマ系)
緋色一重、雄蕊5本・・・江戸キリシマの代表的な品種です。
約350年前に江戸に伝えられました。
当時は江戸にはこのような華やかな色の花はなかったので江戸市民は大変な驚きだったようです。
江戸はもとより全国に伝わりました。
「錦秋枕」には名花として紹介されています。
江戸時代、浜離宮の御亭山には「つつじ」がギッシリ植えられて春は紅く火を噴いた様に輝いていたそうです。
現在は「潮入りの池」の畔や「御亭山」その他に植えられています。
紫琉球(リュウキュウ系)
薄紫色一重、雄蕊は10本。がくに粘りがあります。
紫色の大輪のツツジは総称して「紫琉球」とよばれます。
花色は濃い色や薄い色があり変化は様々です。
「潮入りの池」の「お伝い橋」を「鷹の茶屋跡」の売店に向かって渡ると右側に咲いています。
今が見頃です。
[滅紫]
2011年4月28日 08:30
「どら焼き」はお好きですか?
小豆餡の他に白餡、うぐいす餡、栗や生クリーム、カスタードクリーム入りまでとバラエティ豊かな「どら焼き」は庶民派おやつの定番です。
「どら焼き」の名前の由来は「武蔵坊弁慶が怪我治療のお礼に、熱した銅鑼に薄く溶いて延ばした小麦粉を引いて焼き、餡を包んでふるまった」というのから様々あるようですが「銅鑼」の形に似ているからというのが有力のようです。
どら焼きの原型と言われている「麩の焼」は千利休が好んで茶会記にも数多く登場していますがこの「フノヤキ」は今のクレープのようなものだったらしくいろいろ変化して江戸時代末期に名物となった「助惣焼」となり、幕末の江戸の風俗記録である「守貞漫稿」にも「江戸名物」として「麹町助三のフノヤキ今ハ助三焼ト云」と記されています。
この「助惣焼」は「小麦粉を溶いて熱した鍋で焼き、餡をこの生地で四角に包んだもの」(「図説和菓子の今昔」淡交社刊)で現在のような「二枚のカステラ風の生地で餡を挟む」という形は大正3年(1914年)に上野うさぎやの考案と言われています。
皆様もご贔屓のお店はいろいろおありでしょうが私の今のお気に入りはこの「高生」さんの「黒糖どら焼き」(@178円)です。沖縄産の黒糖を使った生地はふんわり、しっとりして軽い。餡も大納言小豆の味がしっかりして甘さもほどよい、つい2個目に手が伸びてしまうのが欠点。防腐剤を使用していないので日持ちはしません。以前築地7丁目で営業されていましたが、今のお店は6丁目。奥様とお二人だけのこじんまりとしたお店です。どら焼き以外にも大福や季節の桜餅、柏餅、お赤飯まで各種そろっています。
和菓子司「高生」
中央区築地6-9-8 TEL3546-6698
築地駅1番出口徒歩5分中央築地六郵便局前 営業時間 9時~18時(日曜休み)