[お江戸のマーシャ・堀内]
2015年6月19日 09:00
今回は、偶々通りかかった日本橋室町4丁目にある
"日本橋ふくしま館MIDETTE"でやっている
化石発掘体験のお知らせです。
今、福島県はいろいろな風評被害で、観光に出かける人たちが激減しているようです。
そこでボラティアの人達が、化石(アンモナイト、、)が沢山出ることで有名な福島を
MIDETTEでアピールしておられました。
奥の食事処の奥で、無料で、なんとなく発掘気分になれます。
学校の夏休みの自由研究なんかにいいないじゃないでしょうか、、私はもっぱら温泉ですが、、
時々、雨の降る季節になりました。Cool Bizは10月末まで、
毎日の工夫でボケることなく秋の風が吹くまで、、。
[ジミニー☆クリケット]
2015年6月18日 18:00
6月15日から、銀座2丁目の「ギャラリー銀座」で、「切り貼り絵で描く、風光の彩り 田辺博保カッティングアート展」が開催されています
まず、会場に展示された作品を見て感じたのは、使われている色の澄んだ美しさ、紙の柔らかな質感、カッティングのみごとさです
「新感覚の切り貼り絵」という説明書きに深く納得
カッティングアートとは、まずデッサン画を創作して、イメージした色を白地の紙に何枚も彩色し、色を選び、切り、貼り重ねて作り上げていく絵だそうで、仕上がりが少し立体的に見える(3D感覚)のが特徴だそうです
作品は、すべて自然の風光を感じさせてくれるものばかりで、作品ごとに空気感があり、見ていてほっとさせてくれます。貼り重ねられた立体感が作品に奥行きを与え、草木が風にそよいだり、浜辺に波が打ち寄せたりと、作品の世界に引き込まれます
ちなみに、「カッティングアート」とネーミングされたのは田辺先生で、商標登録もされているとのこと。
先生は、長野、横浜、たまプラーザなどでも講座を持って、「カッティングアート」を教えておられるそうです。
カッティングアート展の開催時間は、11時から19時まで。最終日は21日(日)で、最終日は17時までです。
実際に、会場で作品を見てもらうと、そのすばらしさが実感できると思います
なお、ご了解をいただいて、会場の写真を撮らせていただきました。ご協力ありがとうございました。
「田辺博保カッティングアート展」のHPはこちら ⇒
http://www.cart-tanabe.com/
[お江戸のマーシャ・堀内]
2015年6月18日 14:00
時代小説や街の歴史パンフレットに「するがてふ」という文字がよく出てきます。
今で言えば、室町一丁目当りでしょうが、其の名の由来がズット気になっていました。
最近、日本橋北詰の東側交差点を渡った角地のビルの一階に、その説明を見つけ、
ようやくスッキリしました。(下記写真の黒いビル一階)
その説明にはこう書かれています。
日本橋にかつて駿河町という一角がありました。徳川家康が江戸に幕府を開いたとき、
駿河の国より随従した町民のために与えた土地がこの駿河町でした。
当時このあたりには一面に葦が茂っていたと伝えられています。
広重の「名所江戸百景」にある江戸の日本橋は、室町界隈の有便堂さんのシャッターに見えます。
高速道路が架っていない日本橋
高速道路の架った日本橋、日本橋南詰め船発着場の擬宝珠
羽田空港出発ロビー3階に19世紀当時の日本橋復元!
1944年の中央区の上空写真≪三越駅前にあり≫
Cool Bizは10月末までです、ネクタイは何故に必要なのかと思わせる
最近の早めの暑さです。毎日の工夫でボケることなく秋の風が吹くまで、、。
[滅紫]
2015年6月18日 09:00
6月16日は「和菓子の日」です。お菓子屋さんの入口ののぼりをご覧になった方も多いことでしょう。この「和菓子の日」のもとになったのが「嘉祥」です。起源については平安後期に仁明天皇が御神託に基づいて十六の数に因んだ菓子を神前に供え疫病を除け嘉祥と改元、その後、室町時代には「嘉定通宝の錢16文を賭して楊弓をした」とあります。江戸時代には年中行事となり登城日のひとつで、江戸城大広間で諸大名・旗本に菓子を配ったそうです。東都歳事記にも「嘉祥御祝儀、諸侯御登城。良賤佳節を祝す」とあります。「厄払いとして神に供えた菓子を食す宮中儀礼を踏襲したもの」とのことです。因みに「嘉定通宝」は宋銭で日本でまだ錢貨が作られていなかった頃宋から輸入していたものです。「江戸城大広間にお菓子2万個が並べ」(とらやのHP)とありますのでその前に正装した大名や旗本が将軍から麗々しくお菓子をいただくというのは想像しただけで何だか楽しいですね。庶民も「嘉祥喰」として16文で菓子や餅を求め食べるしきたりがあったとのこと。「疫をのがれ健康招福を願うめでたい行事」として定着していたようです。
たねやさんは御承知のように近江八幡市が本店で、東京進出は昭和59年(1984)なのでもう30年以上。すっかり東京に溶け込んでいます。そのたねやさんで「嘉祥」の日一日だけの限定発売の「吉兆嘉祥」を作っていらっしゃると伺い予約しました。初めてなのでわくわくしています。ちょうどお茶のお稽古の日なので仲間にも見せたいと思い2折求めました。1折6個入り800円です。こしあんを団子生地で包み、道明寺をあしらいました(お店の方の説明)。仲間にも大好評でした。
たねやさんは季節菓子も数多くの種類をお作りですが、中には「オリーブ大福」や「寒天トマト」といった洒落た創作和菓子もあります。6月末は「夏越しの祓え」につきものの『水無月』も6月29日30日2日間だけ発売されます。季節を感じさせてくれる和菓子を目と舌でお楽しみください。
たねや銀座三越店 TEL3535-9640
[CAM]
2015年6月17日 18:00
私が通った小学校と中学校は、心斎橋(大阪市中央区)の大丸百貨店、御堂筋をはさんでその東西近辺に位置していた。したがって、私にとっては、「大丸」とは百貨店の代表的存在であり、戦後になって東京駅八重洲口に東京店を開設したのは、「東京」への「(初)進出」だと思い込んでいた。
しかしながら、長谷川時雨の『旧聞日本橋』で、「最も多く出てくる街の基点に大丸という名詞がある。これは丁度現今三越呉服店を指さすように、その当時の日本橋文化、繁昌地中心点であったからでもあるが、通油町の向う側の角、大門通りを仲にはさんで四ツ辻に、毅然と聳えていた大土蔵造りの有名な呉服店だった。ある時、大伝馬町四丁目大丸呉服店所在地の地名が、通旅籠町と改名されたおり大丸に長年勤めていた忠実な権助が、主家の大事と町札を書直して罪せられたという、大騒動があったというほどその店は、町のシンボルになっていた。」とされていることを読み、その東京店は、かつては日本橋を代表するような存在であったことを知った。
現在の「大丸松坂屋百貨店」HPで「大丸の歴史」を見ると、下記のようになっている。
1717
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〈享保2年〉 下村彦右衛門正啓、京都伏見に呉服店「大文字屋」を開業。(大丸創業)
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1726
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〈享保11年〉 大阪心斎橋筋に大阪店「松屋」を開き、現金正札販売をはじめる。 (現・心斎橋店現在地)
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1743
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〈寛保3年〉 江戸日本橋大伝馬町3丁目に江戸店開業。
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1910
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〈明治43年〉 江戸店、名古屋店を閉鎖。
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1954
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〈昭和29年〉 東京駅八重洲口に東京店開店。
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サイデンステッカー「東京下町山の手(LOW CITY, HIGH CITY)」(安西徹雄訳)では、次のように述べられている。
>(路面)電車の影響はさらに大きかった。呉服屋の大丸などその典型である。現在のデパートの中には、かつての呉服屋から発展した例がめずらしくないが、大丸もその一つで、18世紀に日本橋で開業し、明治の中頃には三越などより繁昌していた。長谷川時雨も書いているように、大丸は「丁度現在三越呉服店を指すように、其当時の日本橋文化、繁昌地中心点であった」。けれども大丸はほかの店とちがって、銀座から上野へ抜ける電車通りに面していなかった。そこで次第に客足が遠のき、明治の末には東京の店をたたんで関西に撤退せざるをえなくなった。東京に帰ってきたのは第二次大戦後のことで、ただし今度は交通の便から外れまいと、東京駅の駅ビルの中に店を構えたわけである。(73)
[ジミニー☆クリケット]
2015年6月17日 14:00
日本橋2丁目の日本橋プラザビル1階に、山梨県のアンテナショップ「富士の国やまなし館」が入っています
いかにも山梨らしい特産物の並ぶ中、海を持たない県の特産物として「鮑(あわび)の煮貝」が入口正面のベストポジションにずらりと陳列されており、「」となりました
聞くと、「鮑の煮貝」は古くから甲州の名物()とのことで、わが不明を恥じ入るばかり
なんでも、昔から、四方を山に囲まれた甲州の人々は、何とか海の幸にあやかりたいと考えており(ごもっともです!)、駿河湾沼津(静岡県)に出た甲州商人が、帰路、陸揚げされた鮑を浜で煮込んで、醤油樽に漬け込み、それを馬の背に乗せて御殿場-須走-籠坂峠をゆらりゆらりと越える間に、醤油が適度になじみ、柔らかく熟成されたおいしい「鮑の煮貝」ができあがったとのこと(へぇ~)
甲斐の武将、「風林火山」の武田信玄公もその価値を高く認め、いくさでの栄養補給や、客人のもてなしに賞用したと言われているそうです
甲州名物として、由緒正しく歴史のあるものだったのですね
なお、店内での写真撮影に関して、事前にご了解をいただきました。ご協力ありがとうございましたm(_ _)m
富士の国やまなし館 のHPはこちら ⇒
http://www.yamanashi-kankou.jp/tokyo/index.html