2025年4月
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「丁稚(でっち)」奉公から独立
私の東京シティガイドクラブの仲間の一族が経営する『杉村株式会社』が昭和42年に発行した社史を入手し、内容の公開の許可を得ましたので、面白そうな部分を2回に亘って抜粋して紹介します。江戸新材木町(現日本橋堀留町)で合羽装束商を弘化4年(1847)に設立した会社で、初代甚兵衛(幼名:友次郎)は24、5歳のころに江戸に出て日本橋堀留町の木綿問屋「丁子屋吟治郎店」に奉公に住み込んで商売の道を修行します。 この社史にも本国3丁目の「長崎屋」が紹介されており、間口60間・奥行19間半の構えで、当主は名字帯刀を許された古い家柄、江原姓を名乗る通称11代目長崎屋源右衛門でした。当時は4年に一回の割合でオランダ商館一行が江戸に参向し、江戸城で将軍に面謁して献上品を差し出す慣例であった。この使節は長崎屋一軒に200人が逗留したが、その中には海外の進んだ知識を持つオランダの医師、科学者などもいたので、我が国の官医・大名・蘭学者も押しかけて知識の収集を行った。現在NHKで放映中の大河ドラマ「蔦屋重三郎」にも出ている平賀源内・杉田玄白・桂川甫周の他に、司馬江漢・島津重豪・奥平昌高も長崎屋を訪ねている。 24、5歳の旅姿の友次郎は長崎屋に草鞋をぬぎ、長崎屋に逗留した。大柄な友次郎は長崎屋源右衛門の注目を引くところとなり、奉公先を求めていた友次郎は源右衛門に奉公先として丁子屋を斡旋して貰った。これを切っ掛けに後年友次郎(後の甚兵衛)と源右衛門は親交を結び両者でビジネスを展開する。(詳細は後述)
中央区百景歴史・文化日本橋・京橋周辺yaz
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15年後、日本橋から空が見える!
特派員あすなろさんが書いてましたが4月6日に「春の名橋『日本橋』まつり」が開催されました。 特に目を引くのはクラシックカーの数々。なかなか圧倒はされましたが私はあまり興味がありません。(個人の感想です)目を引いたのは「首都高速道路(株)」のブース。 ニュースで聞いたことある方もいるかと思います。本ブログのタイトル通り、日本橋がかかる日本橋川上空に走る首都高が、15年後の2040年に地下化されます。 その名も「日本橋区間地下化事業」「日本橋川の上に青空を取り戻します!」とのキャッチーなメッセージなやつです。 その首都高のブースにて首都高がない日本橋周辺をメタバース体験できました。ゴーグルをかけると実際に座っている位置から見える風景がVRで再現されます。 まずは、座っている位置から首都高の高架が消えている風景、上空から俯瞰した首都高高架がない風景、そして日本橋川の船上から、高架がない日本橋へ向かう風景など、体験できました。 最後の将軍である徳川慶喜が書いた「日本橋」の標識が、首都高の橋げたに掲げられてます。明治44年(1911年)に現在の日本橋が架けられた際、当時の東京市長尾崎行雄氏が徳川慶喜に依頼をしたとか。つまり首都高の為に書いたわけでなく、橋の親柱に書かれた文字を横書きにしたものです。 ただ実際首都高の高架に掲げられた「日本橋」方が断然目立つし、日本橋の事を知らずに通過してる方は、首都高の高架自体の事を「日本橋」と認識している方も少なからずいそうですね。 閑話休題 1923年9月の関東大震災、1945年8月に終戦した太平洋戦争と、激動の時代を経てからの高度経済期。きっといけいけどんどんだったのでしょう。 復興の瓦礫処理のため銀座を流れていた三十間堀や外堀を埋め、やれオリンピックってことで、舟運よりモータリゼーション。1963年に昭和通りの東側に平行して流れていた楓川や、日本橋川上空に首都高を建設。紆余曲折とはいえ、江戸時代の水の都の風景が殆ど消えてしまったことは非常に残念だと思います。 歴史を知らない人であれば、この現在の風景を不自然なくとらえると思います。当時の政治的な決断とはいえ、現代に生きる私の感想は、「なにやっとんの!」である。 今回、首都高の一部が地下化されることで、2040年に77年ぶりに日本橋に日が照たるようになります。15年後が楽しみです。 ■詳細はこちら「首都高速道路日本橋区間地下化事業」■メタバース(PCやVRギアで首都高がない日本橋の風景を体験できまます)2025年3月末で既にサービス終了し、6/30までは入室だけは可能とのことなのでお早めに
中央区百景歴史・文化日本橋・京橋周辺apéritif(アペリティフ)
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