阿舒庵亭主 プロフィール
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赤穂義士、間新六の墓はなぜ築地本願寺にあるの?
「外題に困れば忠臣蔵」という言葉があるように昔から歌舞伎、映画、講談、浪花節、アニメと忠臣蔵は日本人が大好きなテーマでした。本題いがいにも「義士外伝」、「義士銘銘伝」と色々な形でもてはやされてきました。更には「おんな忠臣蔵」とか「わんわん忠臣蔵」もあり、遂には「47Ronin」とアメリカ映画にもなっています。赤穂浪士の墓は主君浅野家の菩提寺である高輪の泉岳寺にあります。例年12月には播州赤穂の花岳寺と共に泉岳寺で義士祭がひらかれ多くの参詣人が訪れます。泉岳寺には仇討ちに関係した48人の墓があります。この内、三つの墓には遺体が無いと言われています。まず討ち入りに参加を希望しながら参加出来ず義を全うして切腹して果てた萱野三平。吉田忠左衛門の家来、足軽の寺坂吉右衛門は切腹して果てることは無かった。その理由には諸説あります。そして築地本願寺に墓のある間新六の三人です。間家からは堀部弥兵衛についで高齢の69歳の父、間喜兵衛と、吉良上野介に初鎗を付け、内蔵助の命によりその首級を上げた兄、十次郎と次男の新六の三人が討ち入りに参加しています。父と兄は泉岳寺に葬られています。しかし間新六の墓だけは築地本願寺にあります。
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築地本願寺探訪
1617年現在の中央区横山町辺りに、西本願寺の別院として「浅草御坊」が建立されたました。しかし1957年の明暦の大火で浅草御坊は焼失してしまい、その代替地として政府から指定されたのが八丁堀沖の海上でした。そこを佃島の門徒が中心となって埋め立てたのが現在の築地です。いうまでもなく「築地」とは「埋立地」を意味します。その後1679年に別院は再建され、「築地御坊」と呼ばれていました。当時の建物は現在の築地場外市場の方を向いていて、門前には最盛期には58の小さな寺院があったと言われています。現在も晴海通りや場外市場の中に小さな寺院があるのは当時の名残りです。その後、本願寺築地別院と呼ばれていましたが、2012年からは浄土真宗本願寺派(西本願寺)の直轄寺院となりました。住職は門主が兼ねている関東最大の念仏道場です。
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