赤穂義士、間新六の墓はなぜ築地本願寺にあるの?
「外題に困れば忠臣蔵」という言葉があるように昔から歌舞伎、映画、講談、浪花節、アニメと忠臣蔵は日本人が大好きなテーマでした。本題いがいにも「義士外伝」、「義士銘銘伝」と色々な形でもてはやされてきました。更には「おんな忠臣蔵」とか「わんわん忠臣蔵」もあり、遂には「47Ronin」とアメリカ映画にもなっています。
赤穂浪士の墓は主君浅野家の菩提寺である高輪の泉岳寺にあります。例年12月には播州赤穂の花岳寺と共に泉岳寺で義士祭がひらかれ多くの参詣人が訪れます。泉岳寺には仇討ちに関係した48人の墓があります。この内、三つの墓には遺体が無いと言われています。まず討ち入りに参加を希望しながら参加出来ず義を全うして切腹して果てた萱野三平。吉田忠左衛門の家来、足軽の寺坂吉右衛門は切腹して果てることは無かった。その理由には諸説あります。そして築地本願寺に墓のある間新六の三人です。
間家からは堀部弥兵衛についで高齢の69歳の父、間喜兵衛と、吉良上野介に初鎗を付け、内蔵助の命によりその首級を上げた兄、十次郎と次男の新六の三人が討ち入りに参加しています。父と兄は泉岳寺に葬られています。しかし間新六の墓だけは築地本願寺にあります。
泉岳寺が発行する「義士銘銘伝」には次のように書かれています。
刃摸唯劒信士 部屋住 喜兵衛次男 間新六 藤原光風 行年二十四歳
間喜兵衛の次男にして同藩船奉行里村津右衛門の養子となったが、津右衛門一挙に加盟せない程の人物なれば常に意気合はず、家を出で、江戸に赴き老中秋元但馬守の家臣姉婿中堂又助方に食客となって居ったが、縷々内蔵助に嘆願して加盟を許された。
ここでは築地本願寺に墓がある理由には触れられていません。東京都教育委員会の作った本願寺にある供養塔の説明板には「間新六は義兄中堂又助によって築地本願寺に埋葬されました。埋葬された理由は、檀徒であったのか、生前の意思によるものなのか不明です。」とあります。ここから新六が築地本願寺に埋葬された理由には色々な解釈が可能になります。
講談では本所松坂町の吉良邸から泉岳寺に向かう途中、築地本願寺の前を通った新六は槍に小判を括り付けて自分の菩提を弔ってくれるよう依頼の文と共に投げ入れたとの話があります。また、最近読んだ羽山信樹の「がえん忠臣蔵」では、養子先を飛び出した新六は自由奔放に生き「がえん」になったとの話になっています。がえん(臥煙)というのは大名火消しのことで、無頼漢の意味でも使われる言葉です。当時としては相当変わったサムライで父と兄からは疎んじられたと描かれています。討ち入りに参加した理由は泉岳寺の銘銘伝の説明とは真逆で、義士側が加盟を説得したとの話になっています。やんちゃな新六を可愛がっていた姉婿夫婦のたっての希望で遺体を貰い下げて築地本願寺に埋葬したとあります。