築地本願寺探訪
1617年現在の中央区横山町辺りに、西本願寺の別院として「浅草御坊」が建立されたました。しかし1957年の明暦の大火で浅草御坊は焼失してしまい、その代替地として政府から指定されたのが八丁堀沖の海上でした。そこを佃島の門徒が中心となって埋め立てたのが現在の築地です。いうまでもなく「築地」とは「埋立地」を意味します。その後1679年に別院は再建され、「築地御坊」と呼ばれていました。当時の建物は現在の築地場外市場の方を向いていて、門前には最盛期には58の小さな寺院があったと言われています。現在も晴海通りや場外市場の中に小さな寺院があるのは当時の名残りです。その後、本願寺築地別院と呼ばれていましたが、2012年からは浄土真宗本願寺派(西本願寺)の直轄寺院となりました。住職は門主が兼ねている関東最大の念仏道場です。
1923年の関東大震災で築地本願寺は消失して門徒を中心とした多くの人々の力で1934年に再建されました。現在の建物の設計は東大教授の伊東忠太によるものです。伊東教授は当時の第22 代法主・大谷光瑞と親交があり大谷探検隊の中央アジア探検にも参加しています。その影響が現在の建物の外見、「古代インド仏教様式」にあると考えられます。
内陣中央にはご本尊の阿弥陀如来像が安置され、その右には宗祖親鸞聖人の御影があります。その右には聖人の伝記である御伝鈔にあるように親鸞聖人が高く称えられた聖徳太子像が安置されています。ご本尊の左には第23代宗主勝如上人の御影が掲げられています。さらにその左には在家門徒の日常勤行の聖典である正信偈にあるように親鸞聖人が師と仰がれた七高僧の御影があります。
ご本尊・阿弥陀如来像
宗祖・親鸞聖人の御影
聖徳太子像
第23代宗主・勝如上人の御影
七高僧の御影
境内には築地本願寺にゆかりの人々の記念碑があります。現在の築地本願寺の再建に貢献のあった九条武子夫人の歌碑、画家・酒井抱一の墓、眼科医・土生玄碩の墓、佃島の門徒代表・森孫右衛門供養塔、赤穂義士の間新六供養塔、陸上交通殉難者追悼之碑、台湾物故者遺骨安置所などがあります。この記念碑を一基ずつ見て回り歴史を振り返るだけでも築地本願寺と中央区の歴史の興味深さが理解できます。