桜やよい プロフィール
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十返舎一九の『東海道膝栗毛』から菩提寺「東陽院」と 「灰、さようなら」のユーモア溢れる辞世句
江戸時代、十返舎一九は1802享和2年出版『東海道中膝栗毛』の作者で有名です。版元蔦屋重三郎プロジューサーの勧めで、日本初の文筆家(戯作者・絵師)として生計を立て、ヒット作を次々と出す流行作家だったと言えましょう。 現在の人気作家のように、出版社の一九担当者が机の横で原稿が上がるまで傍にいたようです。 そして、十返舎一九は実際に旅をしながら『東海道膝栗毛シリーズ』を執筆し、20年以上続編を書き続けました。 この成功には、江戸初期には字が読めなかった人も生活スタイルが大きく代わり、江戸中期には庶民が字を読むことができるようになったことが大きな要因となりました。 寺子屋が普及し、庶民も読み書き算盤を学ぶ機会が増え、庶民が娯楽を楽しめる『ズッコケ面白本』が飛ぶように売れました。 『東海道膝栗毛』は実体験型の旅行記でしたので、この本の爆発的な影響が江戸の人々の旅行ブームに火を付けたのです。 愉快・コミカルな話・辞世の句が有名だった一九ですので、さぞ愉快な人と思いきやかなりの変人だったようです。 晩年は創作には手を出さず、飲酒によって身体に不自由をきたし、孤独な最期だったと言われています。
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萬治2年から360年継承する宗家花火鍵屋15代天野明子さん 4年ぶりの2023花火への思い
https://www.suntory.co.jp/beer/kinmugi/hanabi/magazine/history/参照 1659万治2年江戸で花火が流行っていることを聞きつけ、大和国現在の奈良県の弥兵衛が江戸に出て日本橋横山町に花火製造業『鍵屋』を創業し、1711宝永7年日本で初めて打ち上げ花火を打ち上げました。 1732年享保17年の飢饉・疫病で90万人以上もの人が亡くなりました。1773安永2年第8代徳川吉宗はそのことを憂い、慰霊と悪霊退散を祈って隅田川で水上祭を行う際に20発の打ち上げ花火をしたことが隅田川花火大会の始まりです。 1810年文化7年鍵屋7代目の花火師頭清七が市兵衛と名乗り暖簾分けして『玉屋』(両国広小路吉川町・現東日本橋2丁目)を創業。幕府公認花火師となりました。おもちゃ花火を開発した『鍵屋』その技術のクオリティを追求した『玉屋』が二大看板となり互いに技を競い合うようになりました。花火大会の際に「か~ぎ~や~」「た~ま~や~」と観客たちがこの技術を讃える掛け声がかかるようになりました。 『玉屋』は1843天保14年玉屋から出火、1500坪を焼き、火事は大罪の上、将軍家慶が日光東照宮参拝出立前夜に当たり、廃業・財産没収及び江戸払いの厳しい処分が下されました。しかし、現在『鍵屋』は『宗家花火鍵屋』江戸川区『玉屋』は『株式会社元祖玉屋』八千代市に花火製造業として共に健在です。 《「水と生きるサントリー」・ウィキペディア参照》
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