歌川広重の住居について
(歌川広重 「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」より)
中央区と浮世絵との関係性も切っても切れないところですが、こと歌川広重については 「大鋸町(おがちょう)(現在の中央区京橋一丁目九番付近)には嘉永2年(1849年)から 死去するまでの約10年間を過ごした」、と住居跡に説明版も設置されており、 中央区の住民だった人物です。
私は以前この記述(例えば観光特派員検定での”中央区ものしり百科 など)を読んだ際は、晩年の約10年間について中央区に住み、それ以外の期間は八代洲(やよす)河岸(現在の千代田区丸の内)など、中央区以外の場所に住んでいたのだろう・・・と想像していました。 これには諸説あるかもしれませんが、さまざまな方による「広重研究史」によると、もう少し、 居住地としての中央区とのかかわりは深かった(長かった)ようです。
日野原健司氏によると、
・天保12年(1841年)老中水野忠邦による天保の改革が始まると出版統制令が出され、役者や美人画が禁じられる。色数を制限できる風景画そのものは禁じられず
・そのころから広重は風景画家としての飛躍を求めて日本各地を旅行。この時期に数年間隔で引っ越しを行っている
・天保13年(1842年)八代洲(やよす)河岸から大鋸町に転居
・弘化3年(1846年)には常磐町へ転居
・嘉永2年(1849年)から中橋狩野新道に引越し
となっています。大鋸町、常磐町、中橋狩野新道はそれぞれ近い場所ですが、近場で引っ越しを していたということでしょうか。私も日本橋の中で何回か引越しをしたので、分からんでもありません(笑)
終の棲家は
そして、終の棲家については百両の借財をして新居を新築しているとのことです。
なお、広重の遺言状については3通あり、日付なしと9月2日付けのモノによると
「住居を売り払って借金を返済すること」
と記載されており、辞世の句にも
「死んでゆく 地ごくの沙汰はともかくも あとのしまつが 金しだいなれ」
(所蔵:江戸東京博物館)
ということですから、これだけ生前に活躍されていても借金を返せなかったとは、私は意外に感じました。