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■中央区歴史逍遥<24> ヤン・ヨーステンとリーフデ号

 リーフデ号は慶長5年(1600)に豊後国(現大分県)臼杵湾に漂着したオランダの商船。ヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムス(三浦按針)らが乗船し、彼らは日本で江戸幕府に重用された。

 リーフデ号の彫像が東京駅前の丸ビル脇に展示されている【写真】。これは昭和55年(1980)4月22日に当時のオランダ王国首相来日の際、オランダ王国政府から日本国政府に寄贈されたもの。

 この一帯はヤン・ヨーステンが拝領した八代洲河岸にも近く、かつて彼の名前にちなんだ地名の麹区八重洲町があった地域でもある。のちに「八重洲」の町名は東京駅を挟んで西から東の中央区に引き継がれた、珍しい歴史を刻んでいる。

リーフデ号とは

リーフデ号とは ■中央区歴史逍遥 ヤン・ヨーステンとリーフデ号
 ■中央区歴史逍遥 ヤン・ヨーステンとリーフデ号
 ■中央区歴史逍遥 ヤン・ヨーステンとリーフデ号

 船名のリーフデ「Liefde」はオランダ語の「愛」を意味する。東インド会社ロッテルダム支社が運用する、1598年就航のフリュート船。16世紀のオランダで輸送用に設計された帆船で、18世紀頃まで東インド会社などで広く使われた船種。排水量300トンで3本マスト、18砲門。乗組員は100人。

 マフィーと呼ばれた5隻の船団【図版上】は1598年にオランダを出港し大西洋を南下したが、マゼラン海峡で5隻は離れ離れになり、リーフデ号はチリ沖で僚船のホープ号と再会したのち、日本に針路を定めた。ホープ号は太平洋上で消息を絶ち、リーフデ号だけが日本にたどり着いた。

 臼杵湾に漂着(来航ともいれる)したときの生存者は24人。その後も衰弱死者が出て残ったのは18人であったといわれる。5年後に船長と航海士の2人は離日を許された。

地名「八重洲」の変遷

地名「八重洲」の変遷 ■中央区歴史逍遥 ヤン・ヨーステンとリーフデ号

↑ 安政期(★は八代洲河岸辺り)

 ■中央区歴史逍遥 ヤン・ヨーステンとリーフデ号

↑ 明治初期(★は八重洲町辺り)

 ■中央区歴史逍遥 ヤン・ヨーステンとリーフデ号

↑ 明治後期(★は八重洲町辺り。外堀に八重洲橋)

 ■中央区歴史逍遥 ヤン・ヨーステンとリーフデ号

↑ 大正期 関東大震災前(★は八重洲町辺り。東京駅開業済み)

 ■中央区歴史逍遥 ヤン・ヨーステンとリーフデ号

↑ 昭和30年頃(★は中央区の八重洲辺り)

ヤン・ヨーステン記念碑

ヤン・ヨーステン記念碑 ■中央区歴史逍遥 ヤン・ヨーステンとリーフデ号

 リーフデ号で豊後国臼杵湾に着いたヤン・ヨーステンは、「1557年頃-1623、オランダ人船員、日本名は耶揚子(やようす)。江戸に招かれウィリアム・アダムスとともに徳川家康に仕え、外交貿易について諮問にこたえた。朱印船貿易に従事し、平戸商館の活動を援護した。帰国を希望し1622年バタヴィアに至ったが東インド会社への負債清算のため1623年日本へ戻る航海の途中難破し、溺死した」(『日本歴史大事典』から抜粋)。八重洲通り(通り三丁目交差点)中央分離帯に記念碑が建っている。(@AM)