葡萄に見る“新劇”の巨人の足跡~「自由劇場」「築地小劇場」そして再び「自由劇場」へ~
ある記事をネットで読んでいて、3月16日は故・浅利慶太氏の誕生日だということを知った。劇団四季の創設メンバーでミュージカル「キャッツ」などを手掛けた演出家の浅利慶太だ。
残念ながら、現在のところ劇団四季の劇場は中央区にはないが、氏と中央区の間には「間接的」ながらいくつかの接点があるので今回はそれを紹介したい。
演劇一家に生まれた浅利慶太
浅利慶太の周囲には偉大な演劇関係者が二人いた。
一人は、演劇プロデューサー兼俳優である父の浅利鶴雄である。
もう一人は、歌舞伎俳優の二代目市川左團次。慶太からみて父方の大叔父にあたる。左團次には子がなかったことから、慶太に左團次の名跡を継がせる話があり、幼少期には左團次宅にいたこともあったと言われている。
新劇に挑んだ大叔父・二代目市川左團次
慶太の大叔父・二代目市川左團次は、明治39年(1906年)にヨーロッパへ演劇視察を行い、その機に演劇の新しい演出法や興行法を見て大きな刺激を受け、帰国後に劇作家・演出家の小山内薫とともに「自由劇場」をはじめた。自由劇場で上演されたのは、能や歌舞伎などの古典芸能ではなく、写実的でリアリズムを重視する「新劇」と呼ばれるものだった。劇場や専属の俳優を持たない無形劇場であった自由劇場は、明治42年(1909年)から大正8年(1919年)にかけて、9回の公演を行った。
新劇の拠点「築地小劇場」創設に関わった父・浅利鶴雄
慶太の父・浅利鶴雄は、小山内薫や土方与志らとともに「築地小劇場」を創立した人物である。
築地小劇場は、日本初の新劇の常設劇場として中央区築地二丁目に大正13年(1924年)6月13日に開設された。二代目市川左團次が自由劇場の最後の公演を行ってから5年後のことである。
築地小劇場は、現在のみずほ銀行築地支店が入ったNTTデータ築地ビルの場所にあった。その一角には、今も記念碑が残されている。
築地小劇場跡地に残された記念碑
記念碑に刻まれた劇場の造形をよく見ると、アーチ型入口の上部には、酒と酩酊と演劇の神バッカスを象徴する葡萄の房が描かれている。これが築地小劇場のシンボルマークとなった。
シンプルなエントランスに葡萄の装飾がひときわ目を引く
この葡萄のモチーフは、実は「劇団四季」の建物の一つに大切に継承されている。
それがこちら。
竹芝にある「自由劇場」のエントランス
この「自由劇場」は、二代目市川左團次と小山内薫が取り組んだ自由劇場ではなく、劇団四季が2003年に竹芝にオープンした新しい劇場だ。"正統な新劇"を継承する場として、劇団四季創立50周年を記念して建てられた。存命中だった慶太の思い入れが特に強い場所だったようで、氏の一周忌はこの劇場で執り行われた。
エントランス上部にある丸いガラス中央部分をよく見ると、あの築地小劇場のシンボルマークである葡萄がさりげなく描かれていることがわかる。
葡萄の装飾は、このエントランス上部だけでなく、入口の扉や劇場内部の鉄柵など自由劇場の様々な場所にほどこされている。
エントランス扉を飾る鉄の葡萄。奥の壁には浅利慶太のレリーフが…
慶太が、父・鶴雄の「築地小劇場」と大叔父・二代目市川左團次の「自由劇場」から受け継いだ日本の新劇の流れをここに再結集させ、新たな流れを創りだそうとしていたことが想像されて感慨深いものがある。
劇団四季への一方的なラブコール
中央区には、歌舞伎座、明治座、新橋演舞場と、立派な劇場がいくつもあるが、劇団四季ファンの一人としてはわれらが中央区にもひとつぐらい劇団四季の劇場ができてくれればいいのに、と思ったりしている。
築地には、劇場を建てるのにもってこいの大きな空き地もあることだし(と勝手につぶやく・笑)、いつか来てくれるといいんだけど。
斜めの屋根が特徴的な「四季劇場」[秋][冬] from 築地大橋
アクセス情報
■築地小劇場跡の碑
〒104-0045 東京都中央区築地2丁目11-17
東京メトロ日比谷線「築地駅」出口2より徒歩2分