ようちゃん

中央区にあったアメリカ公使館

現在、アメリカ大使館は、港区赤坂にあります。しかしそれ以前、上記の案内板にあるように、中央区明石町の聖路加ガーデンの場所に、明治7年から明治23年までの16年間、アメリカ公使館があったのです。日本におけるアメリカ大使館の歴史は、嘉永6年(1853)のペリー来航に始まります。安政3年(1856)に、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが、下田の玉泉寺に臨時の領事館を開きます。安政6年(1859)弁理公使に任ぜられたハリスは、幕府より貸与された麻布の善福寺に、公使館と住居を移します。文久3年(1863)公使館が置かれていた麻布善福寺の庫裏から出火し、建物が消失したため、公使館は横浜関内の外国人居留地に移転します。そして明治7年(1874)ジョン・ビンガム公使は築地の外国人居留地(現:中央区明石町)に公使館と住居を移しました。

 中央区にあったアメリカ公使館

上の図は、明治17年(1884)の参謀本部陸軍部測量局の地図です。ほぼ中央に米国公使館の表示があります

 中央区にあったアメリカ公使館

上の図は、現代の地図に、アメリカ公使館の範囲を現したものです。

築地外国人居留地の公使館は、木造2階建てでクリーム色のペンキが塗られた洋館だったと言われています。そして明治23年(1890)日本政府とジョン・スウィフト公使は、東京市赤坂区溜池榎坂町1番地(現:港区赤坂1-10-5)の地所並びに建物をアメリカ公使館用として賃貸する契約を交わし、現在の場所である赤坂に移転しました。アメリカ公使館が、赤坂に移転した後の建物は、数年後に増築されてホテル・メトロポールとなりました。

 中央区にあったアメリカ公使館
 中央区にあったアメリカ公使館

上の写真は、アメリカ公使館跡の記念碑です。上段の写真は、聖路加国際病院トイスラー記念館前の3基で、下段は聖路加ガーデン内の2基です。伊豆半島の海岸で切り出された小松石に、アメリカの国鳥である白頭鷲・盾形の星条旗・五稜の星などが彫刻されています。この記念碑は、元外交官川崎晴朗氏によると、明治9年(1876)のアメリカ独立百年記念の式典に際し、ビンガム公使が、アメリカ独立のシンボルである「星」と「盾」と「白頭の鷲」を日本の石工に彫らせたということです。跡地に建てられた聖路加国際病院には、8個の記念石がありましたが、その内の3個は昭和59年(1984)、マンスフィールド大使の時代に、アメリカ大使館に寄贈されました。

聖路加ガーデンの小高い丘の上に、居留地時代の面影を残す記念碑が残り、その丘の下に由緒を示す案内板があるだけで、明治の異国情緒あふれる街の様子はすっかり失われていますが、隅田川の流れを眺めながら、昔に思いをはせてみるのも良いかもしれません。この文章を書くにあたり、「中央区沿革図集(京橋編)」「築地居留地百話(清水正雄著)」「築地居留地(築地居留地研究会編)」「中央区区内散歩(第2集)」「インターネット」等を参考にしました。

住  所:中央区明石町8

アクセス:地下鉄日比谷線「築地駅」出入口3b 徒歩7分

     地下鉄有楽町線「新富駅」出入口4番 徒歩8分

     都バス 東京駅八重洲口より都バス(深川車庫行)15分 聖路加病院前下車