明石小学校への想い
1908(明治41)年、中央区明石町に木造二階建てで開校した明石小学校。
この写真は50年ほど前の姿です。
江戸時代、学校のある辺りは広大な広さ(8794坪)の播州赤穂藩の上屋敷でした。
1701年に播州浅野家四代目当主、内匠頭長矩が江戸城松の廊下で刃傷事件を起こし、3日後には幕府によって取上げられます。
翌年、仇討ち本懐を遂げた赤穂浪士達が主君の眠る泉岳寺に向かう際、屋敷跡を通ったようです。
その後、中津藩奥平家の中屋敷となり、中津藩の藩医であった前野良沢のもとに杉田玄白や築地に住んでいた桂川甫周らが集まり、オランダの解剖学書ターヘル・アナトミアを翻訳した場所になります。
翻訳の苦労を正しく後世に残す為、玄白が解体新書を残します。
幕末には中津藩士、福沢諭吉が蘭学塾の教師に赴任して、この地が慶應義塾の起源になります。
1869(明治2)年、明治政府によって、明石町は外国人居留地に指定されます。
横浜や神戸のような商業都市への発展の仕方とは違い、宣教師や教師、医師が多く住み、洋館が立ち並び学校が沢山できます。
居留地の端に原っぱがあり、渋沢栄一らが箱根仙石原で始めた牧場の支店がそこで営業を始めます。居留地で3軒しかない日本人の家の一軒が牛乳を売る店で、そこで産れた男の子が芥川龍之介です。
何とも歴史に関係する場所ですねぇ。
明石小学校は、木造の校舎を大正時代の関東大震災で焼失します。
そして、1926(大正15)年、復興小学校として鉄筋コンクリート造三階建てで竣工します。
以来2010(平成22)年の創立102年め迄この地に立ち続けます。
100周年を迎える前に建物診断を受けましたが強度は保証されたと聞きました。
旧校舎の校庭です。奥に見えるのは出来たころの聖路加タワーです。
小田原町(現築地6丁目)で生れた父を持つ作家が、父との最期の日々を語るエッセーの中で、父の生れた地を歩く場面を書いています。明石町を巡り、
「明石小学校以外は聖路加病院関係の巨大なビルに囲まれている」
と触れています。
よく見えませんが30年程前の明石小の玄関内側の写真です。
学芸会の日でしょうね。丸い窓が出向えてくれました。
現在の玄関内側です。
旧校舎のステンドグラスではありませんが、新校舎建設時の打ち合わせで旧校舎のイメージに近いものを残して欲しいと希望が多くあり、デザインを残してもらいました。
朝7時過ぎに写した写真なので、朝日の光が入っています。
明石小学校の校歌の最初の歌詞は
♪”都の東 隅田のほとり 朝日の光の まずさすところ” です。
当時の幼稚園の教室入口です。
職員室の入口や図工室の入口なども同じように石段を登ります。
今の校庭の道路に面する所、聖路加病院側の角の写真です。
このベンチの座面に使われている花崗岩は旧校舎の階段の石を再利用していて、そのことの説明版が当時の写真とともに埋め込まれています。
ベンチの背面にはガス街灯の柱とレンガ塀です。
どちらも文明開化の象徴で、初めての異国情緒を感じる存在だったのでしょうね。
特にこのレンガ塀の遺構は、明石町にあった外国人居留地にあったレンガの実物で復元されています。
居留地にあった新栄女学校と聖パウロ教会の境界にあった塀で、イギリス積みに積まれた塀です。
明石小の旧校舎の隣りに残されていて、新校舎建設で移築されました。
明石町に外国人居留地があったことを物語る貴重なものと説明版に書いてあります。
画質が悪いですが、黄色いカバンや帽子が写っているので幼稚園の教室の廊下と思われます。
明石小学校の廊下は木製でした。モップで掃除をした記憶があります。
階段は石の階段でした。
腰の高さほどに作られた手摺りも石造りで石の上に羽目板を埋め込む形でした。
踊り場も丸く作られていたように記憶しています。
夏には涼し気な感覚がして、冬は落ち着いた雰囲気を与えてくれた素敵な階段です。
残念ですが階段や手摺りの写った写真は私のアルバムにはありませんでした。
この写真は、現在の幼稚園の教室前の廊下に置かれている長椅子です。
隣と間を開けるバツ印の紙が残念ですが、この板は手摺りの羽目板を再利用したものです。
20年程前に当時の副校長先生から聞いたお話です。
「この前、明石小の卒業生と名乗る年配の方が学校に来ました。対応してお話を聞くと数十年振りに近くに寄ったので小学校を訪ねたそうで、校内を少し案内をしたら、廊下と階段を見て
『この風景は変わっていないな』
と言い、廊下の床をなでて、階段の手すりを触り泣きだしました。」
現在の明石小学校です。創立114年めの姿です。
4年前に開校110周年の記念式典があり、参加しました。
式典が終わり場所を移して懇親会がありました。
お隣に座られたご年配の女性に話しかけられました。
「明石の卒業生でしょうか?」
「幼稚園から通いました。」
「幼稚園のころなんて覚えてらっしゃいますか?」
「つぎはぎだらけの記憶だけですけど、担任の先生ともう一人、K先生という方を覚えています。」
「えっ!私がそのKです。」
あの時、あの会場におられた人は250人位いたと思います。式典の時にそのご婦人がおられたのは気付いていましたが、お知り合いの方もほとんどおられないようでした。
同級生がいたのでK先生のことを告げましたが覚えていませんでした。
ひょっとするとその先生のことを知っていた人は私だけだったかもしれません。
とても素敵な出会いを私に与えてくれた明石小学校に感謝しました。
写真を撮りに行きたいと連絡した時、コロナ禍で部外者を校内にいれたくない時期であり、翌日に運動会を控えて準備に忙しい中、生徒のいない時間帯ならと早朝7時から応対いただいた校長先生、副校長先生にも感謝いたします。