被爆アオギリ二世
中央大橋を渡って佃側に歩くと佃中学校の外側の敷地に背の高い木があります。幹が青いのに気が付きました。
木の名前は アオギリ と言います。
高級な箪笥の材料として有名なキリとは別の分類ですが、幹の肌の色が青緑なので アオギリ と呼ばれています。真っ直ぐに直立し10mから20mになる木もあります。枝には12枚の葉がつきますが、中国の伝説ではうるう年の年には葉が13枚になると言い、鳳凰が住む樹とされています。
広島では被爆の象徴とされている樹でもあります。
アオギリの語り部と呼ばれた方がいました。 沼田鈴子さんです。
本の森ちゅうおう で ”被爆アオギリと生きる 語り部・沼田鈴子の伝言” を借りて読みました。
大阪生れの沼田さんは5歳の時に広島へ引越し、戦時中に青春時代を過ごします。勤労奉仕で、敵を沢山やっつけてと心を込めて大砲の弾を磨きます。広島宇品港を出港してゆく兵士達を ”どうか勝って欲しい、手柄を立てて欲しい、敵を倒して欲しい” とお祈りをして見送ります。軍国少女だったと自身は振り返ります。女学校卒業後、広島逓信局の事務員となります。昭和20(1945)年8月6日午前8時15分、広島に原爆が落とされました。
その日、沼田さんは朝一番のりで出勤します。2.3日後に婚約者が一旦戻り結婚式をあげる予定でした。広島逓信局は爆心地から1.3kmの距離です。掃除道具を洗いに4階にいた時、真正面に閃光を見ます。吹き飛ばされた沼田さんは瓦礫の下敷きになり気絶します。救助されますが左足首が皮一枚で繋がっていました。治療が遅れ、命を守るため、結果左腿から下を切断します。そして終戦、婚約者の戦死も知らされます。命があるだけでもと周りに励まされても自暴自棄になります。職場復帰しますが、自殺することばかり考えていたそうです。そんな時、逓信局の庭にあったアオギリを見ます。仲間とおしゃべりをした想い出の場所。4本の内、一本は焼けて無くなっています。3本は爆心地側の幹がえぐり取られ炭化しています。涙をこぼしていた沼田さんは反対側の幹に小枝と緑色の小さな芽を見つけます。清新な若葉も出ています。見つめていた沼田さんにアオギリが ”あなたは生かされたのですよ。死ぬことばかり考えちゃだめじゃない” と話しかけられたと感じたそうです。
沼田さんは立ち上がります。手先の器用さを生かし母校の家庭科の先生になり、その後短大の講師にもなります。母の介護で退職して後、一人の男性が訪ねて来ます。被爆から36年後のことです。米軍の撮った被爆関係のフィルムに沼田さんが映っていたのを見て被爆の証言者として反核と平和運動に協力を求めて来ました。そして被爆体験を修学旅行生に語っていた坂本文子さんと知り合い、背中を押されます。
そして平和記念公園の被爆アオギリの前で体験を語り始めました。初めての語りは沼田さんが60才。途中で号泣してしまいました。
佃中学校のアオギリの横にある説明版です。
上段は広島市長からのメッセージです。平和を愛する心、命あるものを大切にする心を継承するため、被爆アオギリが実らせた種を発芽させて育て、成長した苗木を被爆アオギリ二世と名付けて配布していると書かれています。
下段は平成17年に広島へ修学旅行に行った佃中学校三年生が平和記念公園で ”佃中学校オリジナル平和式典” を行い、奉納した平和宣言です。
沼田さんはアオギリの語り部となってから精力的に活動します。
自らをオバチャンと称して語り掛けます。ツッパリ高校生との交流はNHKのドキュメンタリーで放送されます。
世界の国々でも講演します。北イタリアやアジア各国は何度も、アメリカや真珠湾、ドイツも行きました。
アジアでは日本が加害者であったことを沢山知り、また調べます。謝罪の旅でもありました。
反戦・反核・反差別を訴え続けます。
晩年、入院中に東日本大震災で福島原発事故を知り、過呼吸になります。想像以上に心臓に衝撃を与えられます。絶対安静後も、”核兵器廃絶をめざす広島の会”に病院を抜け出して福島の危機と支援を訴えました。
2011年7月、旅立ちます。87年の人生でした。
1987年、広島市の緑政課が”平和を愛する人の輪が広がるように”と被爆アオギリ二世の種子をまき苗木を市内の小学校へ配布を始めます。1998年、15人の教職員が”被爆アオギリのねがいを広める会”を結成します。沼田さんはこの会の代表にもなりました。
戦争を知らない世代がほとんどになっていく今、平和を祈るきっかけになる被爆アオギリがこんなに身近にあるということ・・・ 是非知って欲しい!